礼拝説教「人を受け入れよう」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第9章46~50節

 
 ほんとに大したことないのですが、最近私、ちょっとした悩みがあります。おのずとため息が出て、小さなストレスが溜まる。それは何かと申しますと、私の好きなプロ野球チーム、ヤクルト・スワローズが、全然勝てないのであります。
 プロ野球が好きな方は、ご存知だと思うのですが、ヤクルトというのは、基本的に弱いチームでありまして、たまに、ぽっと優勝したりするのですが、大抵は、六チーム中、四位か五位。今年もまた、いつもの定位置に収まりつつありまして、順位表を見るたびに、ため息が出るのであります。「ああ、まだ五位か」とか、「ああ、上に行くには、まだまだ遠い」とか、順位表を眺めながら、毎日、ストレスが溜まる。私の妻などは、プロ野球に全く興味がありませんので、「どうせ、落ち込むのだから、見なきゃいいのに」と言うのですが、四〇年、私はヤクルトのファンですから、今さらそうもいかない。毎日、試合の結果と順位表を見ながら、ため息をついています。
 その点、今年の阪神はうらやましい。関西に来まして、「やっぱり、そうか」と思いましたが、関西はやはり、阪神タイガース。うちの子供たちいはく、タイガースが勝つと、学校の先生たちまで機嫌がいいそうで、そのためか最近、子供たちまで、タイガースの勝敗を気にするようになりました。関西の底知れぬ恐ろしさを感じています。そして今の私の願いは、「できることならば、阪神とヤクルトが優勝争いをしないでほしい。教会の多くの皆様を、敵に回すことがないように」と願っています。
 
 今日の聖書の箇所は、「順位」を気にした弟子たちの出来事であります。まぁプロ野球の順位を気にすることは、たいした問題ではないのかも知れません。しかし弟子たちは、自分の順位を気にした。順位にこだわり、周りも見えないぐらい、その議論に熱中した。それをイエス様に見抜かれ、イエス様にとがめられてしまった。今日は、その出来事をご一緒に読んでいきたいと願うのであります。
 
 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
 
 イエス様と弟子たち、その旅が始まっています。旅の途中、弟子たちは、議論を始めました。自分たちのうち、だれがいちばん偉いか。
 この「議論が起きた」と訳されている聖書の言葉。この言葉は、元々書かれた言葉では、「議論の中へと入っていた」という言葉です。おもしろいと思います。でも分かります。私たちも議論に夢中になると、どっぷりそこへ入ってしまう。そこへ入ると周りも見えなくなるし、自分も見失ってしまう。そのぐらい弟子たちは、熱心に、「だれがいちばん偉いか 」という議論に没頭したのです。
 なぜ、このような議論が起きたのか。この先を読むと分かるのですが、イエス様は、弟子たちに、ご自分の旅の行き先をついに明らかにしてくださいました。それは、エルサレム。イスラエルの中心地であり、歴代のイスラエルの王たちが治めてきた都エルサレム。弟子たちは予感するのです。「いよいよ、わたしたちの主が、王となる。この国で一番、偉くなる。いや、イエス様が治める国は、世界で最も偉大な国になるのだから、世界で最も高い位に、イエス様はおつきになる!」。
 そこで、弟子たちは考えたのです。イエス様が王座についたならば、自分たちは、どのポジションに着くのだろうか。具体的に、イエス様の右に座るのは誰だろうか、いや、誰がふさわしいのだろうか」。そして弟子たちは、次々に主張し合った。「自分こそ、それにふさわしい! イエス様の右に座るのは、このわたしだ!」。
 弟子たちは、色々なことを題材にして、「自分が一番偉い」と主張したのでありましょう。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ。この三人は、つい先日、イエス様が祈る場所へと連れて行っていただきました。彼らは、それを持ち出しながら、主張したのかも知れません。「俺たちはすでにイエス様から特別に目をかけていただいている。だから、俺たちこそ一番偉い」。
 また、弟子たちの中には会計係がいた。財布をあずかり、切り盛りしている者がいた。その者も、主張したに違いない。「わたしこそ裏方のトップ。だから、わたしこそ、一番偉い」。
 また、イエス様に招かれたのも、順番があった。それを題材にしたのかも知れませんし、はたまた、年齢の違い、学のあるなしを根拠にしたのかも知れない。いずれにせよ、「この中で一番偉いのは、このわたしだ」と弟子たちは主張し合っていたのです。
 そしてやがて、その議論は、こういう方向に向かっていったに違いないのです。「わたしはいいけど、おまえは、ダメだ。おまえには、こういう欠点があるから(また、こういう汚点があるから)、一番になる資格はない」。いわゆる「足の引っ張り合い」が始まっていく。他人を批判し、少しでも上の順位を確保する。そういう浅ましく、また醜い議論が、弟子たちの間でなされていたのであります。
 イエス様は、どんな思いで、その弟子たちの姿を見ていたことか。どんなに悲しく、またつらい思いで、弟子たちの心を見つめていたことか。そして、この弟子たちの姿は、私たちの姿でもあるのです。私たちも、実はどこかで、このような議論をしてしまっている。
 
 私が静岡の教会にいたとき、毎日、近所の子供たちが、牧師館に遊びに来ていました。夕方四時頃、「きょうかい、いるかぁー」と言って、子供たちが遊びに来る。(私、近所の子供たちから、「きょうかい」と呼ばれていたのですが)「きょうかい、いるかぁー。遊びに来てやったぞ、ありがたく思え」なんて言いながら、近所の子供たちが毎日のように、遊びに来ていました。
 そして、教会に遊びに来る子供たちの中に、どうしても一人、みんなから馬鹿にされてしまう年下の子がいたのです。(「イジメ」まではいかないのですが、馬鹿にされ、時には仲間はずれにされてしまう。)私、そのようなことが起こるたびに、子供たちを叱っていたのですが、ある時このようなことがあったのです。
 その馬鹿にされてしまう男の子と、少し年上の男の子が、その日はたまたま二人だけで遊びに来ていました。私そのときは忙しく、二人が遊ぶままにしておいたのですが、二人は、とても仲良く遊ぶのです。まるで子犬がじゃれ合うように和気あいあいと遊ぶ。
 しかしそこへ、三、四人、別の男の子たちが来たのです。そしてその二人と合流した。すると途端に、今まで仲良く遊んでいた子も、その年下の子を馬鹿にし始めるのです。悪口を言い、率先して仲間はずれにしようとする。
 当然、私は割って入ったのですが、同時に、背筋が凍りつくような思いを抱きました。二人きりでは、仲良く遊ぶのです。しかし他の子どもたちが加わると、率先して、その子を仲間はずれにする。「順位」なのです。大勢の中で自分が一番下に行くのが、怖いのです。怖いから、わざと自分の下を作る。
 これは、子どもたちだけの話ではないでしょう。私たちも、順位を気にする。自分がどこにいるのか。自分は一番下ではないのか。

 自分たちのうち、だれがいちばん偉いか。
 私たちは、「常に、自分が一番でありたい」、そこまでは考えないかも知れません。少なくても、口にはしない。しかし私たちも、「順位」を気にしてしまうのです。そして、少しでも上にいたいと願い、そのために自分の下を作る。私たち大人は子どもと違い、もっと上手にやるのかも知れません。さりげなく他人の悪口を言う。誰かの過去のあやまちを伝える。そして時に巧妙に、自分の仲間を増やすことによって、一人の人をのけ者にする。私たちも、下を作り、安心を得ようとしてしまうのです。その意味において、私たちも、この議論に興じた弟子たちと大差はない。そしてイエス様は、私たちのことをも、悲しい目で、じっと見つめておられるのです。
 そして、イエス様は、弟子たちにこう言われました。四七節。
 
 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。



 突然、子どもが出てきます。イエス様たちの一行、またイエス様に従う群衆たちの中に、子どもがいたのかも知れません。また、もしかしたら、この出来事の一つ前に、「悪霊に取り憑かれた子どもをイエス様が癒す」という出来事がありましたので、その癒された子どもだったのかも知れません。いずれにせよ、イエス様は、一人の子どもを抱き上げてくださり、そしてご自分のそばに立たせてくださった。そして、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです。
 「子どもを受け入れる」。当時、子どもというのは、最も価値がない者とされました。大人のように力はないし、弁も立たない。特にイスラエルの社会では、「子どもは、律法を厳密に守ることができない」と考えられ、そのため、子どもを「罪人の一人」として数える場合もありました。しかし、そのような子どもを(小さな者を)、わたしの名のために受け入れる。その者は、わたしを受け入れる。そして・・、
 わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を(つまり、父なる神様を)受け入れる。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。
 イエス様は、弟子たちにそう言われたのであります。
 これは、考えさせられます。「誰が一番、偉いか」、その議論に熱中していた弟子たちに対して、イエス様は、「子どもを(小さな者を)受け入れよ」と言われた。そして同時に、「最も小さい者になれ」と言われたのです。「小さな者を受け入れる。そして、あなたがたは、最も小さい者になりなさい」。
 私たちは通常、逆を考えます。小さな者を受け入れるためには、こっちが大きくなる必要がある。大きくなって、場合によっては、裕福になって(力もつけて)、心の余裕ができてこそ、初めて小さな者を受け入れることができる。大きい者こそ、小さな者を受け入れることができる。私たちは通常そう考える。しかしイエス様が言われたことは、そうではない。「あなたがたは、最も小さくなって、小さな者を受け入れよ」。これは、どういうことなのだろうか。
 
 ルカによる福音書を続けて読んでおります。このように、同じ聖書の箇所を、コツコツ読み進めていく説教のやり方を、「講解説教」、もしくは、「連続講解説教」というのですが、続けて読んでいくと、そこだけを読んでいるだけでは見えてこないものが、見えてきます。聖書というのは、流れがありますので、流れの中でこそ、見えてくるものもある。
 ここも明らかに、一つの流れの中にある箇所でありまして、どういう流れかと申しますと、この少し前で、イエス様が弟子たちにご自分の正体を明かしてくださるという重要な場面があるのです。「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と、イエス様の方から、ご自分のことを弟子たちに問うてくださり、「あなたは、神からのメシア(救い主)」、弟子のペトロがそう答えた。
 そしてそのあと、イエス様は、ご自分がどのような救い主であるかを、はっきり告げてくださいます。第九章二二節。
 
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 
 「人の子」というのは、救い主のことで、ここではイエス様ご自身のことです。救い主であるイエス様は、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺される。つまり、十字架につけられる。イエス様は、「わたしは、十字架にかかる救い主だ」と宣言してくださったのです。そして、さらにもう一箇所。第九章四四節。

 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
 
 このように、二度にわたり、イエス様はご自身の十字架を示してくださった、十字架にかかる固い決意を弟子たちに述べてくださった。それなのに、その直後弟子たちは、あの議論に興じるのです。この「落差」と言いましょうか、「コントラスト」と申しましょうか、弟子たちは、イエス様の十字架を理解するどころか、まるで逆の議論に夢中になる、イエス様の思いとは、反対の方向へと向かっていく。
 また、こう言い換えてもいい。
 旧約聖書の詩編に、「わたしは虫けら、とても人とはいえない」(詩編第二二編)という言葉があります。「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」。教会は、この言葉を、イエス様の十字架と重ねて読んできました。イエス様はまさに、虫けらのように殺された。人間の屑、民の恥として、十字架につけられた。つまり、自ら進んで、「最も小さい者」となってくださったのは、イエス様だったのです。十字架の宣言。それは、「わたしは、最も小さい者となる。虫けら同然に、人間の屑、民の恥として、殺される」、そういう宣言でもあった。ああ、それなのに、弟子たちは、そのイエス様の思いを無視するようにして、無視するどころか踏みにじるようにして、「誰が一番偉いか」という議論に興じていく。
 しかし私は思ったのです。これはまさに、イエス様の十字架で起こった出来事そのものなのではないだろうか。
 
 イエス様は十字架につけられ、そして、祭司長、長老たちから、散々ののしられました。「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」。祭司長たちは、十字架の下から、散々イエス様をののしった。そして結局のところ、そのようにして、「自分たちこそが、一番偉いのだ」ということを主張したのです。
 祭司長たちは、なぜ、イエス様を十字架につけたのか。それは、自分たちの順位が、おびやかされたからです。彼らは、それまで一番上にいた。神の名を語り(いや、神の名を利用し)、「自分たちこそ一番偉い」と思っていた。しかしイエス様が現れる。人々はイエス様に魅了される。祭司長たちの順位がおびやかされたのです。だから、イエス様を十字架につけた。十字架につけ、散々ののしり、安心を得ようとしたのです。
 祭司長たちの罪、弟子たちの罪。つまるところ私たち人間の罪、それは、神の子・救い主を十字架につけるまでに至る。神の子・救い主を、十字架につけ、「自分たちこそが一番、偉いのだ」と言って、安心を得ようとする。私たちは、そこまで罪によってねじ曲がり、浅ましく、醜い。しかしイエス様は、その罪のために自ら十字架についてくださった。
 「だれが一番偉いか」。
 私たちも、自分の「順位」を確保するために、人の悪口を言います。人を踏み台にして、自分の順位を、少しでも上にしようとします。しかし、そのような私たちを、十字架におかかりになったイエス様が、悲しみの目で見ておられるのです。じっと私たちを見つめ、そしてイエス様は、こう言われる。
 「わたしは、ここにいる。十字架にかかったわたしは、最も低い場所、虫けらのように人々に踏みつけられた、その場所にわたしはいる。あなたが今、足で踏みつけ、自分の足台にしようとしているのは、わたしなのだ。そのあなたの罪、あなたの罪のゆえに、わたしは十字架についたのだ。わたしは、ここにいる。ここにいるわたしを見て、あなたが、いかに罪深い者であるか、いかに小さい者であるかを知りなさい。そして、わたしのゆえに(わたしの名のために)、小さな者を受け入れてほしい。わたしは、その者のためにも、十字架についたのだから。そのようにして、わたしの父(わたしを十字架につけた、わたしの父)の思いを受け入れてほしい」。
 
 四九節以下は、今日はゆっくり読む時間がなくなりました。家でじっくり読んでいただければと思います。でもひと言だけ申しますと、とても楽しい箇所なのです。弟子のヨハネがイエス様に、「イエス様の名前を勝手に使っていた奴がいました。しかし私たちに従わないので、やめさせました」、そう言った。しかしイエス様はこう言われたのです。
 「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」。
 「ヨハネよ、そうカリカリするな。その者は、わたしに逆らっているわけではない。むしろ喜んで、わたしの名を用いている。そのような者は、わたしの味方、そしてあなたがたの味方なのだ」。
 とても柔軟で、しなやかなイエス様の言葉。ユーモアさえ溢れるイエス様のお姿。
 私たちも、イエス様のように、しなやかに、またユーモアをもって、人を受け入れていく。イエス様を十字架につけた、しかし、そのイエス様の十字架によって、罪赦された、そのような者として、人を受け入れていくのであります。
 
 
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