礼拝説教「キリストは、あなたを遣わした」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第10章1~12節 

 
 今日、私たちが心に留めていく御言の中に、「収穫の主に願いなさい」という言葉があります。
 
 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。
 
 私が初めて、この御言に出会ったのは、高校三年生の時でした。この御言が、牧師になるための学校(東京神学大学)のポスターに記されていたのであります。
 そのポスターは、私の母教会、東新潟教会の片隅に貼られていました。昔の東新潟教会というのは、まるで民家のような建物でありまして、教会堂を入ってすぐ隣りに、暗い部屋があった。その暗い部屋の、さらに暗い片隅に、そのポスターは貼られていたのであります。
 私、すでに牧師になる決意を固めていました。そして、教会の牧師から、「この大学だよ」と言って見せてもらったのが、そのポスターだったのです。暗いところにありましたので、今まで目に入っていなかった。それと同時に、そのポスター自体、暗いポスターでもあったのです。よく覚えています。ポスターの基調は紺色でした。そして真ん中に、灰色で大きな十字架が描かれている。そして空いたスペースに、幾つもの白黒の顔写真が並んでいるのです。あとで知ったのですが、その顔写真は、東京神学大学の教授たちの顔写真でありました。そしてどの顔も、(白黒の写真だったせいもあって)みんな暗い顔をしていた。あまりいい印象を受けませんでした。けれども、そのポスターに、あの御言が記されていたのであります。
 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。
 正直、ポスターはいただけなかったのですが、その御言には、心打れたました。
  (ちなみに、東京神学大学の名誉のために申し添えておきますが、今は、そのポスターは使われていません。最新のものは知りませんが、私が知っている新しいポスターは、緑の芝生をバックに教授と学生たちがにこやかに話し合っている。非常に明るく、さわやかなポスターに、ある時から変わったのであります。)
 
 今日、私たちに与えられた御言は、ルカによる福音書第10章1節からであります。私が心打たれたあの御言を中心に、今日この箇所を読んでいきたいと願います。そして最初に申しておきますが、来週もこの箇所を心にとめます。今週と来週二回に分けて、この箇所を読んでいきたいと思います。ルカによる福音書第10章1節から。
 
 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
 
 イエス様には、12人の弟子たちがおられました。その12人の他に、イエス様はここで、72人の弟子たちを任命されます。そして、その72人の弟子たちを2人ずつペアにして、町や村へと派遣していく。派遣して、神の国(神様の愛のご支配)を宣べ伝えるようにとお命じになるのです。
 72人というのは相当の人数であります。その弟子たちを、教育し、そして派遣する。イエス様のご苦労がうかがえる。そして聖書の学者たちはここで、「どうして、『72人』だったのだろうか」、つまり、「72」という数字に着目するのであります。
聖書というのは、様々な翻訳がありまして、その翻訳によっては、ここの「72」を、「70」としている聖書もあります(例えば、文語訳聖書がそうです)。それは、どうしてかと申しますと、「写本」と言いまして、聖書は元々書き写されて伝えられてきた。その書き写されてきた写本によって、「72」と書いてあるものもあれば、「70」と書いてあるものもあるのです。ですから、聖書の翻訳によっては、ここを「70人の弟子たち」と記しているものもある。
 本当は、72人だったのか、70人だったのか、それは定めることが難しいようです。しかし、いずれにせよ、イエス様は、なぜこの人数をお選びになったのか。72、もしくは、70という数字にどんな意味があったのだろうか。学者たちはそこに着目するのです。
 ある聖書の学者は、「これは、モーセが、荒れ野の旅の時に選んだ長老の数、それに基づいているのではないか」と語ります。旧約聖書の民イスラエル。イスラエルは、エジプトを脱出して、40年、荒れ野の旅をしました。その時、指導者モーセは、70人(読み方によっては、72人)の長老たちを選んだのです。人々の世話係として、また調停役として、70人の長老たちをモーセは選ぶ。イエス様はそれに基づいて、72人(または70人)の弟子たちをここでお選びになったのではないか。そう語る学者もいるのです。
 そして、また別の学者は、「この72、もしくは、70というのは、創世記に出てくる世界の諸民族の数ではないか」と考える。
 これも、胸がときめく聖書の読み方です。創世記によれば、ノアの子孫たちが世界の諸民族になっていきます。そこで記されているノアの子孫の数が、70なのです。つまり、イエス様はここで、世界中に弟子たちを派遣している(もちろん、まだこの時点では、ユダヤの町や村に派遣しただけですが、やがてイエス様は、世界のすべての町や村に、弟子たちを派遣する)。だから、弟子たちの数が、世界民族の数だったのではないか。
 なるほど、と思いました。イエス様は、世界中に弟子たちを派遣してくださるのです。そしてこれは、単に、「世界のすべての国に、宣教師が行けば、それでいい」という話ではない。世界中、世界の隅々に至るまで、神の国を伝える(神様の愛のご支配を伝える)。そしてそこには、私たちが暮らす町も含まれているのです。私たちが暮らす町、働く町、つまり私たちが通う職場や学校、そしてコミュニティ、さらには私たちのそれぞれの家にも、イエス様は、弟子たちを派遣してくださる。すべての人(世界の隅々に至るまで)、神様の愛のご支配が伝わるようにと、イエス様は、弟子たちを派遣し続けてくださる。そう!、私たちも、その派遣されている弟子の一人なのです。
 私たちには、それぞれ持ち場があります。そしてまた私たちには、それぞれ務めが与えられている。なぜ、私たちは、その持ち場にいるのか。またなぜ、私たちはその務めを担っているのか。(もちろん、色々な言い方ができますが)今日の御言の視点から言うならば、それは、イエス様が私たちをそこへと遣わしてくださったのです。イエス様の弟子として。神の国(神様の愛のご支配)を伝える弟子として、イエス様が私たちをそこへと遣わした。私たちもこの72人の一人。私たちも、イエス様に遣わされた弟子の一人なのであります。
 そしてイエス様は、あの御言を、語ってくださいました。2節。
 
 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。

 この2節からは、派遣される弟子たちへの「心得」が語られていきます。そしてその最初が、この言葉でありました。
 でも、これは考えてみたら、不思議なことであります。「働き手」というのは、72人、そして私たちなのです。その私たちが最初にすべきこと。それは、「働き手を送ってくださるように」と祈ること。これは、どういうことか。「主よ、私たちだけでは足りない、と言うのですか。足りないから、『もっと働き手を送ってください』と祈るのですか?」。
 確かに、そのような側面もあります。世界の隅々にまで神の国を伝える。そのためには、私たちだけでは、到底足りない。また私たちも、例えば、自分の職場で、また家で、神様の愛を伝えていくために、仲間がいたら、どんなに心強いか。「どうか主よ、わたしにも、信仰の仲間を与えてください。神様のことを伝える同僚(働き手)を送ってください」。この2節のイエス様の言葉は、そういう意味もある。しかし、どうも、それだけではないのです。
 ある聖書の学者が、ここで興味深いこととを言いました。「このイエス様の言葉は、主の祈りの中にある、『みこころの天になるごとく』という、あの祈りと同じだ」、そう言うのです。「みこころの天になるごとく(神様の御心が、天にあるように)、地にもなさせたまえ(この地上にもありますように)」。あの主の祈りの言葉とこの2節の言葉は同じ。
 どういうことかと申しますと、(これは、教会の伝統的な理解でもあるのですが)神様は、色々な方法で、ご自身の御心をこの地上に実現させることができます。しかし神様は、その一つの方法として、私たちを用いてくださる。私たちを通して、この地上に御心が実現させようとする。だから私たちは、「地にもなさせたまえ」と祈りつつ、「神様、早く何とかしてくださいよ」と、腕を組んで、ふんぞり返っているわけにはいかないのです。むしろ、「神様、わたしを通して、あなたの御心を地にもなさせたまえ。わたしを通して、わたしを使って、御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ!」。そう祈る、そう祈っている。
 2節のあのイエス様の言葉も、同じなのです。
 収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
 これは、「誰か他の人を送ってください」という祈りでもあるのですが、同時に、「わたしを送ってください」という祈りでもある。かつて、旧約聖書の預言者イザヤに神様は言われた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」 イザヤは答えた。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。私たちは、神様から遣わされる。収穫の働き手として、神様に遣わしていただくのです。
 
 そしてもう一点、この御言から恵みを汲み取りたいのですが、私、今回の説教の準備のためにも、聖書が元々書かれた言葉で、この文章を訳し直してみました。そこで一つ発見をしたのですが、この「送ってくださるように」という言葉が、原語では、「追い出す」という言葉だったのです。「追い出す」、もしくは、「追放する」。つまり、随分激しい言葉。私最初、その言葉を辞書で見つけたとき、辞書を引き間違えたと思いました。「送る」、せいぜい、「遣わす」という程度の言葉かなと思っていた。しかし実際は、もっともっと激しい言葉、嫌がろうが、抵抗しようが、追い出してしまう。「行ってこい」と言って、送り出してしまう。そういう激しい言葉だったのです。
 しかし、「確かにそうかも知れない」と思いました。先ほど、「私たちは、それぞれ持ち場があり、務めがある」と申しました。しかし、全員が全員、そこを最初から望んでいたとは限らない。「まさか、自分がこんなところへ」、「本当は、嫌だったのだけれども、仕方なく」。そういう場合が私たちにはある。また今現在も納得がいっていない。「どうして、わたしがここに?」。自分の本意ではない、自分の望みではない、そういう場所が、私たちの持ち場となり、またその務めを担わなければならない方もいると思う。しかし、神様は、そこへも、私たちを遣わしてくださっているのです。そして実際、イエス様も、弟子たちに、こうお語りになるのです。3節。
 
 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

 イエス様も、弟子たちに(そして私たちに)、「わたしは、あなたがたを狼の群れの中に送り込む」と言われる。しかも、「だから、万一に備えて、財布の中にお金を余計に入れていきなさい。また、いつ食事にあずかれるか分からないから、予備のパンを入れるための袋を持って行きなさい。また、予備の履物も忘れるな」、そう言ってくださったのではないのです。財布も、袋も、履物も持って行くな。そして、途中でだれにも挨拶をするな。これは、「無愛想でいなさい」という意味ではなく、当時の人たちは、道で会うと、長々と挨拶をした。そのようにして、人間関係、今で言うところの人脈(コネ)を作っていった。しかし、イエス様は言われる。「あなたがたは、そのような人脈に頼ってはいけない。財布もダメ。袋もダメ。予備の履物も、人脈も、あなたがたが、頼りにするものではない」。つまりイエス様は、「私たちを狼の群れの中に送る」と語りつつも、何一つ、目に見える強い武器を持たせてくれない。しかし、私たちには、目に見える武器がなくても、これ以上ない強い武器がある。それは、私たちを遣わしてくださっているのは、収穫の主。誰よりも、収穫を望み、収穫を待ってくださっている主。その主が、私たちを遣わす。私たちは、そのお手伝いをするだけ。主が、私たちを用いてくださるのだから、余計なお金も、袋も履き物も、そして人脈さえも必要ないのであります。
 
 そして、(5節、6節は、来週にしまして)7節から。
 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

 ここで興味深いのは、「出される物を食べなさい」ということを、イエス様が二度も繰り返しておられるということです。そこで出される物を食べ、また飲みなさい(7節)。また、8節でも、どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ(なさい)。
 
 先々週の木曜日、祈祷会で、鄭娜晤美先生が証しをしてくださいました。先週の説教でも、その一部を紹介しておられましたが、祈祷会では、鄭先生が、牧師になる、神学校へ行く、その決意を固めたときの話も語っておられました。それがまたおもしろかった。
鄭先生は、牧師になる決意を固め、お父様に(お父様も、牧師なのですが、そのお父様に、)「牧師になりたい」と申し出られたそうです。そうしましたら、反対された。「生半可な覚悟で、牧師になってはいけない」と反対をされ、そしてお父様からこう言われたそうです。「もし、神様に、『未開の地に行け』と言われたら、行くか?  もしそこで、イモムシを食べなければならなくなったら、イモムシを食べるか? サソリを食べなければならなくなったら、サソリを食べるか? おまえは、イモムシを食べることができるか。サソリを食べることができるか?」。鄭先生は、そう聞かれたそうです。
 「ああ、いい問いかけだなぁ」と思いました。お父様は、伝道者の覚悟、イエス様に従っていく、その覚悟を問うたのでありましょう。そして鄭先生は、そこで、はっきりと、「わたしは、イモムシを食べます!」と答えたそうであります。
 素晴らしいと思いました。イエス様に、「行け」と言われたところへ行く。「イモムシを食べろ」と言われたら、イモムシを食べる。もちろん、伝道者に限らず、イエス様の弟子である私たちも、その「覚悟」を持つ。そして、実は、イエス様がここで、「出される物を食べなさい」という言葉も、そのことを語っているのです。
 イエス様の弟子たちは、この時点では、全員ユダヤ人でした。ユダヤ人には、食物規定があった。豚は食べることができない。魚はいいけど、エビやタコは食べてはいけない。しかし、世界中に伝道へ行くとき、そこで出される食事には、豚もエビもタコも入っているのです。イエス様は言われる。「それを食べなさい」。主のために、神の国を伝えるために、それを感謝して、食べなさい。
 私たちも同じなのであります。私たちが遣わされ場所で、出てくるものは、いつもいつも、おいしい料理ばかりとは限らない。もちろん、遣わされた場所で、大好物の料理(つまり、私たちにとっての楽しみや、嬉しいこと)も、たくさんある。しかし、時に、苦い料理(苦い経験)、また、悲しい料理(悲しいこと)も、やっぱり私たちは味わうのです。詩編の中にこのような言葉がある。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。私たちは時に、「涙」が糧となることもある。でも私たちは、出されたものを食べる。主から与えられた、それぞれの務めを果たす。なぜならば、イエス様も、私たちのために、もっと苦い食事を食べてくださったからです。
  「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
 イエス様も、いやイエス様こそが、まず、私たちのために、十字架という苦い料理を(苦い杯を)飲み干してくださった。神の国を伝えるために、神様の愛のご支配を実現させるために、イエス様はそこまでしてくださった。そのイエス様のことを思うとき、私たちは、出された料理を食べることなど、何でもない。苦い料理、苦い経験、それもよし! その先に、イエス様が望む神の国があるのだから。神様の愛が、あるのだから!
 そして、私たちは祈るのです。「主よ、来てください。主よ、苦労しているわたしの持ち場に、あなたが、来てください!」。
 1節の言葉に、私たちはもう一度、ハッとさせられる。
 
 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
 
 イエス様は、72人の弟子たちを遣わし、自分はどこかに、偉そうに座って、その首尾を見ていたのではないのです。イエス様は、すべての町や村に弟子たちを遣わし、そのあと自ら、そこへ行かれる。ご自分が行くその町や村に、弟子たちを遣わしたのです。
 つまり、私たちが遣わされている場所、持ち場。そこにも必ず、イエス様が、来てくださるのです。まことの主、収穫の主が来てくださる。
 「マラナ・タ(主よ、来てください)。収穫の主よ、収穫のために(喜びの収穫のために)、あなたが来てください」。私たちは、そう祈りつつ、待ち望みつつ、それぞれの務めを果たしていくのです。
 
 
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