礼拝説教「あの人の隣人になろう」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第10章25~37節 

 

  今日、礼拝に来て、また先週の週報の予告を見て、「あれ?」と思われた方もいたかも知れません。先週と今週、ほぼ同じ聖書の箇所、イエス様がなさった「善いサマリア人の譬え話」を読む。「どうしてなのかな?」と思われた方もいたと思います。
 先週は鄭先生が、この箇所で説教をされました。なぜ、鄭先生がこの箇所で説教をなさったかと言うと、鄭先生は、先々週、説教の勉強会(セミナー)に参加された。そのセミナーは、4日間かけて、一つの説教を作るセミナーだったのですが、そこでの課題の箇所が、この「善いサマリア人の譬え話」だったのであります。そのセミナーで学んできたことを生かして、鄭先生は、先週ここで、「善いサマリア人の譬え話」の説教をなさった。
 一方私は、ここでルカによる福音書を読み進めてきました。そして、たまたま順番で、今日はこの箇所を読むことになっていた。それが、鄭先生のセミナーの箇所と重なってしまいまして、「どうしようか」とも思ったのですが、「2週連続で読むのも悪くない」と思いまして、この箇所を選ばせていただいたのであります。
 私の場合は順番で読んできて、鄭先生の場合はセミナーで与えられて、ちょうど同じ箇所が2回連続となった。これも、神様がなさってくださったことなのではないかと思います。聖書を代表する譬え話、「善いサマリア人の譬え話」、この御言をじっくり味わってほしいと神様が言っておられる。私たちは、その神様の思いを今日、受け止めていきたいと願うのであります。
 まずは、譬え話のきっかけとなった、イエス様と律法の専門家とのやり取りから読んでいきたいと思います。ルカによる福音書第10章25節から。
 
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
 
 ある律法の専門家が、イエス様に質問をしたのです。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのか」。
 「永遠の命」というのは、「何百歳までも生きたい」という意味ではありません。「永遠」というのは、聖書では神様のことを指していまして、神様の御心にかなう命、神様が望まれる命、その命を得るためには、どうすればいいのか。つまり、「永遠の命」というのは、「心臓が動いて、息をしている」、そういう命とは別の命を意味しているのです。同じ生きるにしても、どうしたら、神様に喜んでいただけるのか。どうしたら、神様の望みどおりに生きることができるのか。そして神様の望みどおりに生きることができたならば、永遠である神様の御もとで、わたしは、ずっと生きていくことができるだろう。死んでもなお、神様のもとで生かされるだろう。その意味で、「永遠の命」と呼ばれる。それを得るには、どうすればいいのか。この律法の専門家は、イエス様にそう尋ねたのです。
 この質問自体は、悪くないのです。むしろ、聖書における重要な問いの一つ。例えば、ヨハネによる福音書などは、福音書全体をもってこの問いに答えているのです。この質問自体は、悪くなかったのですが、この律法の専門家は、イエス様を試すためだけに、この質問をしたのです。イエスを試そうとして言った。つまりこの人は、本気で永遠の命を求めていたわけではない。真剣に「神様の御心にかなう生き方をしたい」と思っていたわけでもない。
 しかしイエス様は、彼の問いに真剣に答えてくださるのです。26節。
 
 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
 
 律法の専門家が答えたのは、旧約聖書の言葉でした。しかも数ある旧約聖書の言葉の中から、実に的確な言葉を2つ選んだ。すべてを尽くして、神である主を愛する。そして隣人を愛する。彼は完璧な答えをする。実際、イエス様も、28節。

 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 すると、この律法の専門家は、こう答えたのです。
 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
 
 カール・バルトという神学者がいます。20世紀最大の神学者とも呼ばれ、『教会教義学』という大著を記した神学者でもあるのですが、そのバルトが、その『教会教義学』の中で、この場面を考察している箇所があるのです。おもしろいのです。バルトの聖書の読み方というのは、本当におもしろい、また深い。バルトは言うのです。「医者のルカは、ここに病人を見る。瀕死の病にかかっている病人を見る」。
 ゾクゾクと来ました。この福音書を書いたルカは、元々、「医者」だったと言われています。医者、ドクター・ルカは、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と問い返したこの律法の専門家を、「病人だ」と診断している。医者の正しい目をもって、ルカは、「ここに、瀕死の病にかかっている病人がいる」、そう診断しているとバルトは言うのです。
 その通りでありましょう。イエス様はここで、律法の専門家の病を、罪を指摘されたのです。「あなたはよく分かっている、しかしあなたには、欠けているものがある。それは、『実行すること』、実際に、神様を愛し、隣人を愛する、そのことに欠けている」。そこで彼は、「イエス様、その通りです、ならば、どうすればいいのですか」、そう言えばよかったのです。または、「イエス様、まさにそこに、わたしの罪があります、罪深いわたしを、お赦しください」、そう言って、イエス様の前にひれ伏せばよかったのです。それなのに、この人は、「では、わたしの隣人とは、だれですか」と答えた。「わたしの隣人とはだれか。わたしが愛するに値する隣人は、誰か。それは一体、どこにいるのか」。
 ルカは記す。病気の診断をくだすようにして記す。彼は自分を正当化しようとして・・。 彼は、自分の罪を認めない、「自分が人を愛さない、いや、愛そうともしない罪」を認めない。それどころか、まるで開き直るかのようにして自分を正当化した。ルカは言う、「彼は、相当病んでいる。いや、瀕死の病人である」。
 そして、ここから始まるイエス様の譬え話も、ある意味、彼の病気をより明らかにする譬え話でもあったのです。30節から。
 
 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
 
 これは、イエス様がお作りになった譬え話ですが、実際、「エルサレムからエリコに下る道」というのは、非常に危険な道だったそうです。私、以前、写真で見たことがあるのですが、道のわきに壁が切り立っていまして、その壁が赤いのです。赤土なのか、そういう色の岩なのか。写真にコメントもありまして、「当時、その壁の赤さは、『強盗に襲われた人たちの血で染まっている』と言われていた」。そのぐらいエリコに下る道は、危険な道だった。そして案の定、ここを通っていた旅人が追いはぎたちに襲われてしまったのであります。その人は、傷を負ったまま道に倒れてしまう。
 そこへ神殿の祭司が通りがかるのです。

 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 
 「祭司」というのは、神殿の礼拝を司る人です。今で言えば、牧師です。そして当然、聖書も読むわけで、「隣人を愛しなさい」という言葉も、毎日のように語っていたに違いないのです。しかしその祭司は、倒れている旅人を見ると、見て見ぬふりをして、道の向こう側を通っていく。そして、

 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 
 「レビ人」というのは、やはり神殿の礼拝に責任を持つ人たちでした。しかし、その人も、旅人を見ると道の向こう側を通っていく。
 そして最後に来たのが、サマリア人だったのです。
 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
追いはぎに襲われた人は、ユダヤ人だったと考えられています。そして、サマリア人とユダヤ人は、元々は同じ民族だったのですが、歴史の中で、2つに分かれ、対立し、特にこの時代、その対立が激しかったと言われている。そうなると、一番助けてくれるはずもない人が、近づいてきたのです。助けるはずもないし、その責任もその筋合いもない。しかし、そのサマリア人が、この人を助ける。憐れに思い、近寄り、介抱し、宿屋にまで連れて行ってくれる。イエス様は問われる。36節。

 さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。

 律法の専門家は答える。
 「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
 
 こんなことを思うと、「ああ、不信仰だなぁ」と思うのですが、私時々、「この譬え話が、聖書になかったら楽だったのになぁ」と思うことがあります。もちろん、そういう思いが頭を横切るたびに、「いけない、いけない」とすぐに思うのですが、しかし、「この譬え話が、聖書になかったら、どんなに楽だったか」、そういうことを考えてしまうときがある。しかし、私のこの思い、分かっていただけると思うのです。なぜならば、私たちも、傷つき倒れている人の横をたくさん通り過ぎてきているからなのです。私たちも見たのです。あの人が苦しんでいる、助けを求めている。また顔では笑っているけど、何かおかしい、実は助けを求めている、そのことに、どこかで気がつきながらも、私たちも、その人の横を通り過ぎてきてしまった。道の向こう側を通ってきてしまった。そして私たちもそこで、あの律法の専門家のように、自分で自分を正当化してきてしまったのです。「わたしには今、余裕がない。わたしは今、何かできる立場にいない。そして、わたしが今、もし仮に手を差し伸べたとしても、何の解決にもならないだろう」。私たちも、自分で自分を正当化してきた。そして挙げ句の果てに、こういう言い訳までしてきた。「イエス様、わたしは、あなたがお語りになったような『善いサマリア人』にはなれません。力もないし、信仰もない。そもそも、イエス様、あなたは、私たちにできないことを要求されたのではありませんか」。
 すべて、「言い訳」なのです。罪から来る見苦しい「言い訳」なのです。そしてその言い訳の底に潜んでいる思いは、「結局のところ、自分の方が大事だ」という思い。隣人よりも、まず自分。まず自分を愛し、自分が一番。
 そしてその罪は、恐ろしいことに、私たちにこういう思いさえも抱かせるのです。「ああ、追いはぎに襲われたのが、わたしでなくて良かった! 危なかった。もし、あの人よりも先に、わたしがこの道を通っていたら、襲われていたのは、わたしだった。あの人には悪いけれども、追いはぎに襲われたのが、あの人で良かった」。まさにバルトが言うように(ルカが診断するように)、私たちは病んでいる。「罪」という病に冒され、瀕死の病にかかっている。イエス様は、この譬え話を通し、律法の専門家の、そして私たちの病(罪)を明らかにされる。
 
 鄭先生が参加したセミナーの講師は、加藤常昭先生でした。私も、実はかつて、そのセミナーの常連でして、加藤先生との出会いも、そのセミナーを通してでありました。
加藤常昭先生。私がセミナーに参加し、加藤先生と同じ時を過ごさせていただき、思ったことは、加藤先生というのは、「ああ、なんて小さな先生なのだろうか」ということであります。
 もちろん、加藤先生は、この何十年、日本の説教学を、また教会をリードしてこられた先生です、「大先生」です。また、背丈も高く、体も大きな先生。しかし私が見いだし、また感動をもって受け止めたのは、「とっても小さな加藤先生」なのです。私何度も、「ああ、なんて、小さな先生なのだろうか」と思って、胸を打たれた。どう小さいのかと申しますと、神様の前で、小さいのです。特に、祈りをするときです。あれだけ体の大きな先生が、キュッと小さくなる。そしてその祈りの言葉も、幼子が親に向かって語りかけるように、「主よ、主よ」と呼びかける。私は、その「小ささ」に何度も胸を打たれ、「ああ、キリスト者というのは、こういう存在なのだ」と思わされた。
 善いサマリア人の譬え話。イエス様は、この譬え話を語る直前に、幼子と賢い者を対比させています。第10章の21節ですが、

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
 
 前回、学びました。「神の国、神様のご支配は、幼子のような者に示された」。ここでの「幼子」は、「素直だとか、純粋だとか」ではなく、「主よ、主よ」と呼ぶ(小さな子どもが親を呼ぶように、呼ぶ)、その「幼子」です。その幼子には、神様のご支配が見える。
 しかし逆に、見えない人たちがいる、神様のご支配が、その目に隠されている人たちがいる、それが、「知恵ある者、賢い者」。そして、その「知恵ある者、賢い者」の代表として、律法の専門家が出てくるのです。彼は賢いのです。「それを実行しなさい」と言われ、実行できない(実行しない)言い訳をとっさに思いつく。「わたしの隣人とはだれですか」。彼だって、何人も何人も、倒れている人の横を素通りしてきたのです。そのとき、多少なりとも胸が痛んだかも知れない。しかし、そのたびごとに、自分の知恵を働かせ、自分の賢さによって、解決してきた。「そう、あの人は、わたしの隣人ではない。わたしとは関係がないし、わたしには、助ける義務もなければ、その筋合いもない。わたしの隣人とはだれですか」。なんて、知恵のある賢い答えなのか!
 しかし、「なんて悲しい賢さなのか」と思うのです。神様は、こんなことのために、私たちを賢く、知恵あるものに造ったのか。「隣人を愛する」のではなく、「隣人を愛さない賢さ」。そして結局、自分だけを愛していく賢さ。そしてこの賢さは、(自分しか愛していませんから)実は、神様も愛していない、神様を必要としていない、そういう賢さなのです。
 ルカは、ここに病人を見る。罪という瀕死の病に冒されてしまった病人を見る。そして、私たちも、同じ病を抱えていて、私たちも、その病に苦しんでいる。しかし、(ルカは記す!)その病人のもとに、イエス様が来てくださったのです!
 
 先週の説教でも語られました。教会は伝統的に、「この善いサマリア人を、イエス様だ」として読んできました。イエス様が、その人を見て、憐れに思い、近寄って来てくださった。(特に、この「憐れに思い」という言葉が、特殊な言葉ですから、「このサマリア人は、イエス様だ」という解釈が、教会では古くから生まれた。)そしてこれは、その通りでありまして、同時に、このことは、譬えの領域を越えていくのです。なぜならば、実際のイエス様も、罪という病気で倒れている人(律法の専門家、そして私たち)を見て、憐れに思い、私たちのもとに来てくださったからです。私たちも、罪の病に冒され、瀕死の状態なのです。そして、道に倒れ込み、意識も朦朧として、体も、そして何より、心が冷たくなっていく。しかしそこで、誰かの温かい手を感じたのです。「ああ、誰かが来て、わたしに手を差し伸べてくださっている」。その手のぬくもりを感じ、必死に目を開いてみると、そこに、イエス様がおられた。私たちに憐れみのまなざしを注ぎ、懸命に私たちの傷を癒してくださっているイエス様がおられた! いや、それだけではない。私たちがそこで見るイエス様のお姿は、わたしに代わって、十字架を背負ってくださったお姿だったのです。
 イエス様は、むち打たれ、体中の皮膚が裂け、血が流れています。手と足を釘で打たれ、脇腹には槍に刺された跡があります。思わず、目を背けたくなる、見るに堪えない無惨なお姿。しかし私たちは気がつく。「イエス様が担ってくださったのは、私たちの病、イエス様が刺し貫かれたのは、私たちの背き、そして罪のためであった」と。
 イエス様。イエス様こそが、「善いサマリア人」。いや、私たちに代わって、十字架にかかってくださった「善いサマリア人」以上の「善いサマリア人」。イエス様こそが、私たちの「隣人」となってくださったのです。
 
 イエス様は、この律法の専門家に言いました。
 「行って、あなたも同じようにしなさい。」
 イエス様は言われる。「わたしは、あなたを憐れむ。あなたを憐れみ、あなたに代わって、十字架にかかる。だから、あなたも行って、同じように生きよ。憐れみに生きよ!」。
 私たちも行くのです。行って、あの人の隣人になるのです。私たちは、足がすくむのです。倒れている人を見て、苦しんでいる人を見て、いつだって足がすくむ。しかしそこで、一所懸命、知恵を働かせるのではない。「助けない、助けなくてもいい」言い訳を探すのでもない。また、「自分にできるのかできないのか」、そのような賢さにも生きずに、幼子になる。そうなのです。私たちは、幼子でいいのです。「主よ、主よ」と、そこで呼びかけて、自分の賢さよりも、主の憐れみに生きる。「主よ、主よ、あなたは、こんなわたしのために、すべてを犠牲にしてくださったのですね。だから、わたしも、今、犠牲にします。時間を犠牲にし、労力を犠牲にし、宝を犠牲にする、でもそれは何ほどのものでしょう。あなたがしてくださったことに比べれば、本当に何でもないことですよね」。私たちは、「主よ、主よ」と祈る幼子でいい。いや、神の国は、幼子たちのものなのです。
 「行って、あなたも同じようにしなさい。」
 私たちも、行って、イエス様と同じ憐れみに生きます。あの人のもとへ行って、ただただ精一杯、自分のできる限りのことをするのです。
 
 
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