礼拝説教「空の心に神の言葉を」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第11章24~28節 

 
 
 先週私たちは、大阪教会との交換講壇を行いまして、私は大阪教会へ、そしてここには、岡村牧師に来ていただきました。交換講壇、その一番の主旨は、「互いの教会を覚えて、祈り合う」ということであります。大阪の地で、またこの奈良の地で、礼拝をし伝道をしている、その互いの教会を覚えて、祈り合う。そして実際、祈り合う日曜日にすることができたと思っております。
 そこで私としては、まずは大阪教会の方々に、この大和キリスト教会を知っていただくことが大切だと思いました。(祈っていただくためには、まず知っていただかなければならない。そう思いまして)大和キリスト教会の紹介をしてきたのであります。
 二つしてきまして、一つは、私たちの教会の教会案内を持っていって、受付で配っていただきました。そしてもう一つは、説教の中で、私たちの教会を紹介させていただいたのです。少し考えたのですが、このような紹介をしてきました。
 「大和キリスト教会を訪ねてくださった方々は、まず建物の大きさに驚かれる。そして次に敷地の広さに驚かれる。でも本当の良さ(本当の素晴らしさ)は、そこではない。大和キリスト教会の良さは、『みなさまが、熱心に説教を聴くこと。喜んで、楽しんで、説教を聴くこと。言ってみれば、御言への集中』が、大和の良さなのです」。
決して、褒めすぎたとは思っていません。正直な私の思いであります。そしてこれは、皆様も胸を張って誇っていいと思います。私たちの教会は、聖書の御言、そしてそれを語る説教を、集中して聴いている。御言を心から楽しみにし、そしてここに喜びを見いだし、命を見いだしている。そしてこれが教会であり、教会を教会として成り立たせているのです。ですから私、その意味においても、大和キリスト教会は、健全だと思っています。そして、元気だと思う。
 今日も、御言を聴きたいと思います。教会が教会となる。そして、私たちが、私たちとなる、そのために、御言に思いを集中させていきたい、と願うのであります。
 今日の礼拝の御言は、ルカによる福音書第11章24節からです。
 
 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
 
 イエス様がなさった譬え話であります。とてもユーモラスな譬え話なのですが、そもそもなぜ、イエス様はこのような話をなさったのか。それは、こういうことが起こっていたのです。第11章の14節。

 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
 
 悪霊に取り憑かれて苦しんでいる人がいた。その人をイエス様が癒してくださった。物をしゃべることができなかった人が、しゃべることができるように、イエス様がしてくださったのです。すると、多くの人たちは驚きます。しかし中には、陰口を叩く人もいたのです。15節。

 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者がいた。
 
 簡単に言えば、「あのイエスという男は、悪霊の親分だ。親分だから、子分である悪霊たちが素直に言うことを聞くのだ」、そう言った人たちがいたのです。それに対してイエス様は、「もしそうならば、悪霊たちの内輪もめではないか」と反論をされ、そしてこう言われる。20節。

 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
 
 「神の国」というのは、神様のご支配です。イエス様が、悪霊たちを追い出す、これは、「神様のご支配が始まった」証拠なのだ。神様は、悪霊などに負けはしない。圧倒的な力で勝利をなさる。この神様の勝利、神の国(神様のご支配)が、今始まった、わたしを通して始まった! イエス様は、そう宣言してくださったのです。
 そして今日の箇所へとつながっていく。イエス様はまず、このような譬え話をお語りになった。ある汚れた霊がいたというのです。その霊は、ある人に取り憑いていたが、その人から出て行った。(どうして、出て行ったのかは分かりませんが、一旦その人から出て行った。)そして砂漠をうろつき、休む場所を探したけれども、見つからない。そこで、「仕方がない、また元の場所に戻るか」と言って、その霊は戻って来る。そして、戻ってみると、その人の中がきれいに掃除されて、整えられていた(この「整える」という言葉は、元々、「飾る」という意味もありまして、掃除をして、まるでお客様を迎えるように家の中が飾られていた)。それを見て、汚れた霊は、喜んでしまって、自分よりも悪い霊たちをたくさん連れて来て、みんなでそこに住み着いてしまったというのです。その結果、その人は、最初の状態よりもさらに悪くなってしまった。
 なんともユーモラスな譬え話です。汚れた霊をどう想像していいか分かりませんが、最後は、汚れた霊たちが集まって、楽しくホームパーティーまでしている、そのような光景が目に浮かぶ。しかし、よくよく考えてみると、恐ろしい譬え話でもあるのです。なぜならば、イエス様は、「これが、あなたがただ」と言われるからです。「汚れた霊を追い出しても、また戻って来てしまう。しかも戻ってくるたびに、ひどくなる。これが、あなたがた!」。
確かに、そうかも知れないと思います。「汚れた霊」、それは、自分ではどうすることもできない「汚れた思い」です。また、それを引き起こす力です。例えば、誰かへの「怒り」。私たちの中で、一度、怒りが生まれると、その「怒り」に心が支配され、そして体までもが支配され、自分ではもうどうすることもできなくなる。「ねたみ」もそうでしょう。自分でも、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、ひとたび、「ねたみ」の思いが起こると、あっと言う間に、私たちの心を支配し、私たちを制御不能にしてしまう。そしてまた、無性に「不安」になったり、しなくてもいい心配、思い煩いをしたり、しかも、最初それは、一つなのです。でも、その一つが、いつの間にか膨らんでいき、増えていき、気がつくと色々な思いが絡み合っている。「汚れた霊」が、他の霊を連れて戻ってくる。
 また私たちは、それらの霊を、追い出そうともします。懸命に、そのことを考えないようにして、忘れようとする。他のことで気を紛らわせたり、現実逃避をしてみたり。しかし、私たちは知っている(体験的に知っている)。一時、心がきれいになっても、結局は戻ってくる。そして戻ってくるたびに、ひどくなる。その人の後の状態は前よりも悪くなる。じゃあ、どうすればいいのか。どのようにすれば、汚れた霊から、私たちは自由になることができるのか。
 
 聖書は、それに答えるようにして、このようなイエス様の出来事を続けて記していきます。27節から。
 
 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
 
 
 ここも、おもしろい箇所なのですが、イエス様が悪霊を追い出し、また、イエス様の話を聴いて、一人の女性がイエス様を褒めるのです。しかも、その褒め方が、私たちにしてみると一種独特でありまして、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」、つまり、イエス様の母親を褒める。「あなたのような子どもを宿し、あなたのような子どもを育てたお母さんがうらやましい。あなたのお母さんは幸せですね! あなたのお母さんに祝福あれ!」。
 私たちにしてみると、変わった褒め方だと思うのですが、これはどうも、当時、このような褒め方があったようなのです。特に、優秀な子どもを宿し、その子どもを育てた母親は、幸いだという褒め方です。例えば、偉大な王様が登場する。もちろん、その王様も褒めるのですが、同時に、その母親も褒める。「王様を生んで育てた母親も、幸いだ。王様の母親にも、祝福あれ!」。イエス様もこのとき、そのような祝福の言葉をかけられたと思われる。
 しかしイエス様は、この言葉を受け入れないのです。イエス様はこう言われる。28節。
 
 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である。」
 
 「守る」という言葉は、元々は、「羊の番をする」という言葉です。つまり、羊を見守る。羊たちに危険がないように、また、どこかへ行ってしまわないように、じっと見守り続ける。そのように、神様の言葉を守り続けなさい。神様の言葉を聴いて、その言葉を自分の中で、しっかり保ち続けなさい。この女性の言葉で言い直せば、神様の言葉を体内に宿す。女の人が、子どもを宿したときのように、神様の言葉を、自分の体の中に宿し続ける。そして、その胎児を大事に大事に守るように、神様の言葉を守る人こそ、幸いなのだ。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 イエス様は、そう言ってくださったのです。
 
 私たちの教会の鄭娜晤美先生が、先週の月曜日、ここで結婚式を挙げられました。お相手は、Mさん。今、鄭先生も、Mさんも、韓国に行って、披露宴をあげています。そして、今週の末にも帰ってくるのですが、先週の週報にも書きました、お二人には修祷館に住んでいただき、そしてMさんは、もう早速、次の週から、大阪の日本語学校に通うそうであります。
 語学学校、私も、二ヶ月ほど、ドイツの語学学校に通ったことがありました。ドイツ国内でも、あえて小さな語学学校を選びまして、そこで、ドイツ語の研修をしたのであります。その学校には、世界中から、ドイツ語を学ぶ人たちが集まってきていました。アメリカ、ギリシャ、ガーナ、そしてシンガポール、スペイン、韓国・・。そして当然、みんなが話す共通言語は、ドイツ語でありました。これは、「どっぷりドイツ語にひたりたい」、そう思っていた私にとって、とても有り難いことでした。そして私を含め、数名の日本人もいたのですが、その日本人同士でも、普段、ドイツ語で会話をした。日本語は使わず、お互いにドイツ語を話すことによって、休憩時間も、ドイツ語を学んだのであります。ですから私、二ヶ月の間、ほとんど日本語を話しませんでしたし、また耳にすることもありませんでした。
 ただ、一つだけ、例外があったのです。それは、普段、ドイツ語で会話をしていた日本人同士、その日本人同士でも、「人の悪口」、また、「さまざまな愚痴」だけは、日本語で語り合った。「あの国の人たちは、どうも態度が悪い」とか、「ドイツのこういうところが、よくない」とか、悪口や愚痴、つまり、汚い言葉だけは、日本語で話す(つまり、日本語で話せば、他の国の人たちには通じませんので、日本語で話す)。
 一人、五〇代ぐらいの活発な女性の方がおられました。またその方が、愚痴っぽい、そして皮肉っぽい方でありまして、わざわざ、私のところへ来て、日本語で人の悪口や愚痴を言うのです。そしてスッキリした顔で帰っていく。私最初、何の気なしに、その方が語る悪口や愚痴を聞いていたのですが、徐々に自分でも思ってもみなかったことが、自分の身に起きました。それは、夜一人、ベットに入る。すると、昼間に聞いた「汚い日本語」だけが、よみがえってくるのです。人の悪口、愚痴、(一日の中で、日本語は、それしか聴いていませんので)その言葉だけがよみがえってくる。そしてその言葉が、頭の中をグルグル巡り、ついに眠れなくなってしまったのであります。これは、まいりました。ビールを多めに飲んで、酔っぱらって寝てしまおう、そう考え、何度か試みたのですが、それでもうまく寝つけない。そのような日が何日か続いた。
 そこで私、このようなことを考えついたのであります。「一日の中で聴く日本語が、悪口や愚痴、そのような汚い言葉ばかりだから、よくないのだ。だったら、きれいな日本語を、心に染みる日本語を、この耳に聴かせればよいではないか」、私そう思いまして、眠る前に聖書を声に出して朗読することにしたのです。特に詩編です。詩編の言葉を、一人部屋の中で、声を出して朗読した。そのようにして一所懸命、自分の耳に、きれいな日本語を自分で聴かせたのです。そうしましたら、スッと眠れるようになった。昼間に聴いた汚い言葉は、どこかへ行ってしまい、詩編の言葉、神様の言葉が、私の心を支配した。
 「ああ、空っぽにするだけは、ダメなのだ」ということを思いました。まさにイエス様の譬え話の通り、汚れた霊は、空っぽにした心に戻ってくる。そして、もっと悪い仲間たちを連れてきて、私たちをさらにひどくする。だから、私たちは、神様の言葉を聞き、それを守る。女性が子どもを宿したときのように、自分の体内で、神様の言葉を、守り保ち続ける。そしてその神様の言葉に、勝利していただくのです。神の国はあなたたちのところに来ている、汚い言葉、汚れた思い、そして汚れた霊に、神様の言葉が勝利する、神様のご支配が、私たちの中で始まっていく! 
 
 先日、ある本を読みました。そうしましたら、バッハのコラール曲の引用が出てきました。短い引用だったのですが、私、その歌詞に、心打たれまして、少し調べてみましたら、17世紀の作詞家、ヨハンフランクという人が作詞したものでありました。こういう歌詞なのです。
 
 「悲しみの霊よ、立ち去れ、
    私の喜びの主人、イエス様がお入りくださるのだから。
  神を愛する者には、悲しみもまた
    砂糖のように甘いものとなるだろう。
  嘲りと辱めを受けても、苦しみの中で、
    あなたが、とどまってください、
    イエス様、私の喜びとして」。
 
 「悲しみの霊」、今日の御言で言うならば、汚れた霊に呼びかけているのです。その霊に向かって、「立ち去れ!」と命令しているのです。なぜならば、イエス様が入って来てくださるのだから。喜びの主人、わたしのまことの主人であるイエス様が来てくださる、だから、悲しみの霊よ、あなたの居場所は、ここにはない。あなたは、招かれざる客、だから、とっとと帰れ、さっさと立ち去りなさい! 言ってみれば、そのように歌っているコラールなのです。
 ああ、いいなぁと思いました。特に私、そのコラールの歌詞を、Yさん、そしてHさん、お二人を相次いで天にお送りした、その葬儀の準備をしている最中に読んだ。そして、「本当にそのとおりだ。アーメン」と思ったのです。
 九月八日にYさんを、そしてその翌週の九月一五日にHさんを、私たちは天にお送りしました。お二人とも、長年私たちと共に礼拝をしてきた大切な方たち。そのお二人を神様は、ご自分の御もとへと召された。もちろん、このことは、神様がしてくださったことであり、お二人とも、今も神様の御もとにいる。しかし、悲しいのです。Yさん、そしてHさんに、この礼拝でもうお会いできない。また礼拝が終わったあと、今まで通り、にこやかに、挨拶を交わすことができない。悲しい・・、悲しみが込み上げてきて、まさに、「悲しみの霊」が、私の、そして私たちの心を支配しようとする。
 「悲しみ」、それは、ある種、自然なことでもあります。また、すべての悲しみが悪い、というのではありません(主の御心に適う悲しみもある)。しかし、悲しみが、罪を連れてくる場合があるのです。あまりにも悲しくて、神様の希望を見ようとしない。さも、神様がいないかのように、またさも、神様が何もしてくださらない冷徹な方のように思えてしまう。また、悲しみは、「ひがみ」や「ねたみ」を連れてくるときがある。「わたしだけが、悲しい。わたしに比べて、あの人たちは幸せで、脳天気で、ねたましい」。そのように、罪を連れてくる悲しみは、やっぱり、立ち去ってもらわなければいけない。「立ち去れ、とっとと帰れ! 私たちの喜びの主人、イエス様が来られるのだから! 悲しみの霊よ、あなたの居場所は、もう、ここにはないのだ!」と。
 そして、その「立ち去れ」という言葉は、私たちの中から生まれてくる言葉ではないのです。私たち自身の中から生まれ、自分で、自分に言い聞かせる言葉ではない。そうではなく、神の言葉、神様からいただき、そしてその神様が、「悲しみの霊よ、立ち去れ」と、私たちの中で力強く語ってくださるのです。
神の言葉、それは、私たちの思いを越えて(また場合によっては、私たちの思いに反して)、私たちの中で、私たちに語りかける。

 なぜ、うなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。
 主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。
 
 神の言葉が、私たちの中で語り始める。私たちはそれを守る、それを保つ。そしてやがて、その神の言葉が、まるで胎児のように私たちの中で育ち、そして動き始めるのです。そう!、「神の言葉の胎動」が始まる。
 うなだれていた、しぼんでいた、そして罪に染まっていた私たちの心が、神の言葉によって、清められ、起き上がっていくのです。「ああ、そうだ。主こそ神。イエス様こそ、わたしの、そして十字架、復活の救い主。わたしの罪は赦された。わたしにも、よみがえりの命が与えられる。だから、わたしは、何を悲しむことがあろうか。わたしは、何を煩うことがあろうか。怒りやねたみがある、汚れた思いがある。しかし、それらは、わたしの主人ではない。わたしは、それらに屈服しない。イエス様、わたしの喜びの主人、イエス様。あなたが、とどまってください、私の喜びとして!」。
 
 幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人。
 神の御言が、この一週間も、皆様を捕らえてくださいますように。
 皆様の中に宿った、神の言葉が、みなさまの悲しみ、不安、そして罪に、勝利してくださいますように。
 神様のご支配、神の国が、皆様の中で確かなものとなりますように、主の御名によって、祈ります。アーメン
 
 
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