礼拝説教「自分の十字架を背負う」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書第9章18~27節

 
 もう皆様、お気づきだと思いますが、私、ひと月ぐらい前から、礼拝で着るスーツを新しくしました。
 ご覧の通り、最近のスーツというのは、体にピタッと合わせるのが、一つの流行のようです。私、このようなスーツは、今まで着たことがありませんでしたので、まだどこか違和感を覚えているのですが、妻とうちの子供たちには大変、好評なのであります。(まぁ少々、わざとらしいのですが、妻と子供たちは褒めてくれる)「お父さん、そのスーツ着ていると、格好良く見えるよ。そのスーツ、着ているお父さん、格好いいよ」。お世辞と分かっていても、嬉しい。ただ、そこでやめておけばいいのに、子どもたちは、余計なことまで言うのであります。「お父さん、そのスーツ着ていると、格好いいよ。まるで、副牧師の上山先生みたい」。 
 
 教会において、伝統的に使われてきた言葉の一つに、「キリストを着る」という表現があります。本来、これは、信仰義認という意味で使われてきた言葉です。洗礼を受けて、キリストを着る。そしてキリストを着た者は、神様からキリストと見なしていただける。罪人なのに、イエス様という衣をまとい、イエス様と同じように「正しい者」として、神様から見ていただける。「信仰によって義とされる」。そのような意味で、「キリストを着る」という表現が、教会では使われてきました。
 そしてそこに加えまして、キリストのように生きる。イエス様のように、特に、誰かのために(愛に)生きる。「キリストを着る」という言葉の中には、そのような意味合いも、教会は含めてきたのであります。
 私たちは、キリストを着る。いや、洗礼を受けた者は、もうすでに、キリストを着ています。スーツを着ると、キュッと身も心も引き締まるように、キリストを着る私たちは、もっと身も心も引き締まる。私たちは、イエス様のように、愛に生きる。愛に生きる者へと、ここで、変えさせていただくのであります。
 
 今日の礼拝の御言は、ルカによる福音書第9章18節からです。18節からの箇所は、またあとで読んでいきますが、今日は最初に、途中の23節の言葉から心をとめていきたいと願います。ルカによる福音書第9章23節から。
 
 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
 
 以前、ある方とお話しをしていましたら、ここの箇所が話題になりました。その方は、ここの箇所を指しながら、「先生、『十字架を背負う』というのは、具体的に、どういうことですか?」と聞かれたのです。私、その問いに答えようとしましたら、その方が先に、「先生、『十字架を背負う』というのは、『負い目を持つ』ということですか?」、そう聞かれたのであります。私、最初、何のことだろうと思ったのですが、確かに、日本語でも時々、「十字架を背負う」という言葉が使われる。そして大抵は、その方のおっしゃるとおり、「負い目を持つ」という意味で使われているのです。例えば、「交通事故を起こした。人身事故で、わたしは、一生その十字架を背負って生きていく」。そういう使われ方をする。しかし私は、その方に、「確かに日本語では、そのような使い方をしますが、聖書本来の意味は違うのですよ」と説明をいたしました。聖書が語っている「十字架を背負う」という言葉の本来の意味は、「誰かのために自分の身を犠牲にして、愛に生きる」という意味なのです。なぜならば、イエス様の十字架がそうだったからです。イエス様は、私たちのために、ご自分の身を犠牲にしてくださった。私たちを愛し、私たちの身代わりとして、十字架を背負って死んでくださった。その十字架を、私たちも背負う。私たちも、イエス様のように、誰かを愛し、誰かのために、この身を犠牲にする。つまり、このイエス様の言葉は、「あなたがたも、愛に生きよ」という招きの言葉なのです。しかもイエス様は、「日々」と言われました。日々、毎日、自分の身を犠牲にして、愛に生きる。それが、わたしへの従い方。イエス様は、そう言われたのであります。
 これは、身が引き締まります。「キリストを着る」、「キリストを着ている」というのは、こういうことなのか、と思う。自分も、十字架を背負う。誰かのために、この身を犠牲にする。しかも、日々、毎日。
 
 イエス様は、この言葉を、突然、弟子たちにお語りになったのではありませんでした。イエス様は、丁寧な準備をして、その上で、この言葉を語ってくださいました。(私、こういうところにも、配慮があるイエス様の愛を感じるのですが)イエス様は、弟子たち、そして私たちが、自分の十字架を背負うための力、その力の源を、ちゃんと用意してくださっているのです。それが、18節からです。
 
 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
 
 イエス様が、祈っておられた場面から、この出来事は始まっています。そこで、イエス様は、弟子たちをお呼びになり、こう尋ねてくださった。
 「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」。
 弟子たちは答えます。「人々は、イエス様のことを、洗礼者ヨハネだと言っています。また他には、『旧約聖書の偉大な預言者エリヤだ』と言う人もいますし、『ほかの預言者の生き返りだ』と言う人もいます」。イエス様はそれらをお聞きになり、さらに一歩、踏み込んでくださる。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」弟子たちの間に緊張が走る。そして、弟子たちを代表してペトロが答える。「神からのメシアです。」
 多くの聖書の学者たちは、このイエス様と弟子たちとのやり取りが、福音書における前半の山場だと指摘します。福音書というのは、幾つか山場があり、そして、最大の山場、イエス様の十字架と復活へと向かっていくのですが、ここに、前半の山場がある、と多くの学者たちは言うのです。イエス様が、「わたしは何者か」とお尋ねになり、ペトロが、「神からのメシアです」と答えた。
 「メシア」というのは、ヘブライ語です。ギリシャ語では、「キリスト」。そして、「メシア」という言葉は元々、「油注がれた者」という意味です。かつてのイスラエルでは、特別な職業につく人には、油を注いで、任職をした。国の王様、神殿の大祭司、そして神様の言葉を語る預言者。そしてやがて、イスラエルでは、「まことの王様、まことの大祭司、そしてまことの預言者である『救い主』が、来てくださる」、そう信じられるようになっていった(神様が、「まことの救い主を遣わしてくださる」と約束してくださった)。そして、ペトロはここで、「イエス様、あなたこそが、私たちが待ち望んでいたその救い主です、メシアです!」、そう答えたのです。学者たちは語る。「ここに、福音書前半の山場がある」。
 その山場は、さらに続きます。21節。

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 
 イエス様は、ここで、ご自分がどのような救い主であるかを、弟子たちに初めて明かしてくださいます。(「人の子」というのは、旧約聖書に出てくる救い主の呼び方の一つなのですが、)救い主であるわたしは、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺される。しかし、三日目に復活するのだ。つまり、イエス様は、「わたしは、十字架の救い主。そしてよみがえりの救い主」、そう宣言してくださったのです。そして、あの言葉が出てくるのです。
 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。
 イエス様は、ご自分が、誰であるかを、弟子たちに問い、そして、ご自分は、十字架そして復活の救い主であることを宣言してくださり、そのわたしに従うあなたがたは、自分の十字架を背負うのだ、と言ってくださったのです。イエス様は、ただ、「自分の十字架を背負え」と言ってくださったのではない。十字架にかかるわたし、三日目によみがえりとなるわたし、そのわたしが、ここにいるのだから、あなたがたも、自分の十字架を背負いなさい、と言われた。「自分の十字架を背負って、わたしに従え!」と。
 
 今日から、上山牧師に代わり、鄭娜晤美先生に、私たちの教会の担任教師を務めていただきます。鄭先生は、この三月に神学校を卒業したばかり、教師として、初めての教会、初めての牧会、それが、この大和キリスト教会になります。
 私、まさか自分がこのような役回りを務めるとは思ってもみなかったのですが、私、鄭先生と共に教会にお仕えしていくのですが、同時に、私に与えられた役割の一つが、「鄭先生を育てる、伝道者として、大事なことを教えていく」、そのような役回りも、私にはあるのだろうなぁと思っています。これは、私にとってなかなかの重圧であります。神様から召された、若き伝道者をつぶしてはいけない。だからと言って、野放しにする訳にもいかない。健全に、順調に育ってほしい。
 そこで私、祈りつつ、鄭先生にまず何を教えようか(何を伝えようか)と悩みました。そして思ったのは、「まずは、教会の皆様が、普段どれだけ懸命に、自分の十字架を背負っているか。どんな思いで毎日を過ごし、どんな祈りをもって、ここに集っているか」、それを伝えたい、それを知ってもらいたい、そう思いました。牧師(教師)というのは、そのことを常に祈り、わきまえておく必要がある。そして、それらを踏まえつつ、またそのことをいつも祈りつつ、説教ならば、説教を語る。
 ここに、一三〇人、一四〇人の人たちが集まっています。そして皆一人一人、十字架を背負っている。夫、また妻の介護をしている。日々、(人によっては)二四時間、夫を、妻を支え続け(「愛する」という十字架を背負い続け)、ここに来て、やっとホッとできる。そのような方々もいる。
 また、いつも、我が子のことを思っている。我が子のために、身を犠牲にして、働き、また祈り続けている方々もいる。
 また、職場で、誰もやりたがらない、そのような仕事を、自ら引き受け、自分の力以上のものを背負い、身を犠牲にして働き続けている方々もいる。
 そして、友を思い、祈っている。また教会のために、教会学校のために、時間も労力もささげて、奉仕してくださっている方々。
 みんな、十字架を背負っている。懸命に、必死になって、その身を犠牲にして、「愛する戦い」をしている。鄭先生には、まずそれを知っていただきたい。知って、祈っていただきたい。そして、牧師は知るのです。どうして皆様は、十字架を背負うことができるのか。どこから、そのような力を得ているのか。それは、この礼拝なのです。礼拝、そして、説教、聖餐!
 牧師は、毎週、説教において何を語っているのだろうか。また、皆様はここに毎週、何を聴きに来ているのだろうか。それは、今日の御言で答えるならば、「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」、「イエス様とは、何者か」、この問いの答えを、聴きに来ているのです。もうこの問いがすべてなのです。イエス様とは、何者か。目には見えないけれども、いつも、私たちと一緒にいてくださるイエス様とは、何者か? 私たちを選び、私たちを生かしてくださっているイエス様とは、何者か? そして、(私たちも、誰かを背負って、歩んでいるのですが)その私たち自身をも、背負ってくださっているイエス様とは、何者か?
 私たちは、このことを聴くために、ここに集まり、そして説教者は、その問いに、答える。「あなたを愛し、あなたを背負い、そして常に、あなたと共にいてくださるイエス様は、十字架の救い主。多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、そして、三日目に復活した救い主。イエス様! このイエス様のゆえに、あなたの罪は赦され、あなたにも、復活の命が与えられ、それが、あなたの十字架を背負う力となる!(力の源となる!)」。
 
 今日は、25節以下を丁寧に読む時間はなくなりました。また別の機会に譲らなければなりません。ただ最後に、24節の言葉だけは、読んでおきたいと思います。24節、もう一度、お読みしますと、
 
 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
 
 ここは、弟子たちが、将来、殉教をする。迫害され、イエス様の名のゆえに、殺されていく。そのことが暗示されている、と言われています。しかしただそれだけではない。イエス様は、ここで、「いざという時は、自分の十字架を背負え。ここぞというときは、わたしのために命を捨てよ」、そう言われたのではなく、日々、自分の十字架を背負ってとお語りになった。日々、毎日、私たちは、愛する戦いをする。そのために、命を失う(命を用いていく)戦いをする。そしてその戦いは、実はその人のためだけではなく、わたしのため(イエス様のために)、命を失っている戦いでもあるのです。
 ここにも、私たちが日々、十字架を背負う「力の源」があります。愛する戦いは、時に、むなしさとの戦いになる。やってもやっても、何の反応もない。尽くしても尽くしても、良くなる兆しがない。しかしイエス様は語ってくださる。「あなたは、わたしのために命を用いている。わたしのために、命を失う者は、わたしが救う。さあ、十字架を背負いなさい。今日も、今週も、十字架を背負いなさい。十字架で、あなたの罪を赦したわたしが、ここにいる。十字架で死に、よみがえりの命となり、あなたにも、よみがえりの命を約束したわたしが、ここにいる。そう、あなたの主として、あなたの救い主・メシアとして、確かにわたしがいるのだから、このわたしに、あなたも従いなさい!」。
 イエス様は、私たちに、そう呼びかけてくださっているのです。
 
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