礼拝説教「神の前の豊かさ」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第12章13~21節 

 
 
 私、奈良に来まして、一年半が経ちました。私最初、「奈良に来る(関西に来る)」ということに、相当身構えていました。まず言葉が違う。そして文化も違う。「外国へ行く」ぐらいの思いで身構えていたのであります。
 しかし、(これは、本当に皆様のおかげ、皆様が温かく迎えてくださったからだと思っておりますが)思っていた以上に早く馴染むことができました。戸惑うことなく、また大きな違和感も抱くことなく、馴染むことが許された。心から感謝しております。
 ただ時々ではありますが、まだすべてのニュアンスが分からない言葉があります。幾つかあるのですが、そのうちの一つが、「賢い」という言葉なのです。特に大人が、小さな子どもを褒めている場面で、よく耳にします。「何々君、賢い! ほんま、賢いわ~」。おそらく、「いい子だね~」というニュアンスに近いのかなと思っていますが、正確なところは私にはまだ分からない。でも、いい響きだなと思っています。
 聖書においても、「賢い」という言葉はよく使われています。もちろん、そのニュアンスは、関西での使われ方とまた違うのでしょうが、聖書も、私たちが賢くあることを願っている。そして聖書において、同時によく使われている言葉がありまして、それは、「愚か」なのです。「愚か」、もしくは、「愚かな者」。聖書は、私たちが愚かな者にならないように、賢くあるようにと繰り返し語っている。
 私たちは思う。ならば、聖書が語る「賢さ」とは何であろうか。そして、聖書は何を指して、「愚か」という言葉を使っているのだろうか。
 
 今日は、ルカによる福音書第一二章一三節からの御言が与えられました。今日の箇所は、イエス様がなさった譬え話であります。この中にも、「愚かな者よ」と呼ばれてしまう人が出てくる。言ってみれば、「反面教師」、「こうならないように」という意味で、一人の人が出てくるのです。今日は、そのイエス様の譬え話を中心に共に読んでいきたいと願うのであります。
 まず、そのきっかけとなった出来事から読んでまいります。第一二章一三節から。

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

 きっかけは、群集の一人がイエス様に調停役を申し出たところから始まりました。申し出た人は、おそらく、下の兄弟(弟)だったと思われます。父親が亡くなったのでしょう。そしてそれなりの財産があった。しかしその財産(遺産)を、どうも兄が独り占めしてしまったようなのです。この弟は、納得がいかない。自分ももらえる権利があるはずだ。だから、イエス様、わたしの兄弟に、ちゃんと遺産を分けてくれるように、言ってもらえませんか!
 当時、信仰の指導者に、トラブルの解決をお願いすることはしばしばなされたそうです。しかしそうは言っても、私たちは思うのです。イエス様に、なんてことを相談するのか。貴い使命を持って、日々神の国を宣べ伝えているイエス様に、なんて「個人的」なお願いをするのか。しかも、この人は、自分にとってだけ都合のいいお願いをしているのです。この人は、最初から、こう言っています。「遺産を分けてくれるように、兄弟に言ってください」。つまり、「イエス様、公平な調停をお願いします」と言ったのではなく、最初からイエス様を自分の味方につけている。「どうか、わたしに肩入れして、兄弟に遺産を分けてくれるように言ってもらえませんか」。この人は、個人的で、自分にとってだけ都合のいいお願いをした。
 しかし、ある聖書の解説者が、このようにコメントしていました。「これは、私たちの普段の祈りである。私たちも、いつもどれだけ、個人的で、自分中心の祈りを神様にしていることか」。確かにそうなのです。私たちも祈ります。熱心に祈ります。しかし振り返ってみると、私たちの祈りも、個人的で、自分中心。「イエス様、わたしにこれをしてください。わたし、わたしにとってだけ都合がよくなるように、万事がうまくいきますように」。
 しかしもう一方で、こうも言えるのです。結局、私たちを深く煩わせるのは、そのような個人的な問題。分かっているのです。「ああ、また個人的なお祈りになってしまった」。分かっている。分かっているのですが、しかしその悩みが、私たちにとって一番の重荷なのです。この調停を申し出た人も、そうだったのかも知れない。父が亡くなった。遺言書もなかったのでしょう。勝手に兄が財産を独り占めにしてしまった。家族の問題、兄弟の問題。それだけにかえってややこしい。今までの確執もあらわになる。これまで積もり積もってきた恨みも爆発する。そしてもうそれだけで、心がいっぱいになったのです。何をしていても、その問題が心を支配する。夜もそれで眠れない。自分だって、こんなことをイエス様に頼んで恥ずかしいと思っている。しかし、何とかして欲しい。この問題に少しでも光を与えてほしい。
 すると、イエス様はこの人にこう答えてくださるのです。

  「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
 
 イエス様は、一旦はそう言われるのです。「わたしは、あなたの裁判官でも、調停人でもない」。しかし、イエス様はこれで終わりになさらなかった、裁判以上の裁判、調停以上の調停をイエス様はしてくださる。それが、一五節から。
 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
イエス様は、「貪欲」に注意しなさいと言われる。そしてこの「貪欲」こそ、私たちの「愚かさ」なのですが、じゃあ、その「貪欲」とは何か。それが、一六節から始まる譬え話で語られるのです。

 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
 
 楽しい譬え話、私も大好きな譬え話です。ある金持ちがいたというのです。そしてある年、その所有する畑が豊作だった。そこで、この金持ちは、嬉しい悲鳴を上げる。『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』。そこで金持ちはこう考える。「そうだ、今ある倉を取り壊し、新しい倉を建てよう。そこに作物を全部しまって、この先何年も安心して暮らせばいい」。この金持ちはそう思って、そして自分で自分にこう語りかけたというのです。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。
しかしここで、物語が一変する。二〇節。

 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
 
 「楽しい譬え話だ」と言いましたが、同時に「おっかない譬え話」でもあります。この金持ちは、「この先何年も生きていくだけの蓄えができた」と言いました。しかし神様が言われたことは、「今夜、お前の命は取り上げられる」、この先何年どころか、今夜!、あなたは、明日の朝すら迎えることができないのだ。愚かな者よ」。
 私たちの心は騒ぎます。「一体、彼のどこに、愚かさがあったのだろうか」。私たちは思う。「むしろ彼は、賢かったのではなかろうか」。畑が豊作になり、彼はそこで、飲めや歌えやの大宴会を開いて、一晩で全部作物を食べ尽くしてしまったというのではないのです。また豊作の実りを、全部お金に換えて、それで好きなだけ贅沢したというのでもない。彼は実に賢かった。明日のこと、明後日のこと、いや何年も先のことまで考え、そのために倉を建て直し、貯蓄した。旧約聖書にヨセフという人が出てくる。ヨセフは、エジプトの大臣に任命され、七年間の豊作の実りを少しも無駄にしないで、倉にしまわせるのです。そして続けて起こった七年間の飢饉を乗り越える。ヨセフは、知恵のある賢い男として、聖書に登場する。そしてこの金持ちも、似てると言えば、似てるのです。それなのに、なぜ、この金持ちは、「愚かな者よ」と呼ばれてしまったのだろうか。
 
 私、毎週、説教の準備の際に必ず行っていることがあります。それは、聖書の原典にあたる。新約聖書は、ギリシャ語で書かれているのですが、その原文を日本語に訳す、ということを必ずしています。そして(これは、本来毎回やるべきことなのですが、ついさぼってしまうのですが・・)私、時々、その原文を声に出して読む、ということもしているのであります。発音が合っているのか、合っていないのか、そんなことは気にせず、声に出して読んでみる。ルカならば、ルカが元々書いた文章を声に出して、耳で聴く作業をしているのであります。
 今日の箇所。私、今回は、その原文を声に出して読んでみました。すると、一つ発見があった。それは、特に金持ちのセリフの中で、「ムー」という言葉が非常に多いのです。「なんとか、なんとか、ムー。なんとか、なんとか、ムー」。「ムー、ムー」という、何か動物の鳴き声のような言葉が、やけに繰り返される。そしてその「ムー」というのは、どういう意味かというと、「わたしの」という意味なのです。(これは、日本語の聖書では、全部訳されていないのですが、)原文では、「わたしの作物」、「わたしの倉」、「わたしの財産」、そして、一九節の、こう自分に言ってやるのだの「自分」という言葉も、原文では、「わたしの命」という言葉なのです。つまり、この金持ちは、「ムー、ムー」、「わたしの、わたしの」と言っている。私は思った。ああ、ここに、彼の一つの愚かさがあったのではないだろうか。
 豊作の実り。それは、神様が与えてくださったものなのです。太陽を照り輝かせるのも、雨を降らせるのも、そして作物を実らせるのも、すべて神様の御業。同じように、倉にしても、財産にしても、みな、神様が与えてくださったもの。そして何よりも、命。命も、「ムー」、自分のものではない。命も、神様が与えてくださり、そして神様が与え続けてくださっているものなのです。
 さらに、一九節の言葉。「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。ここも、原文で読みますと、「安心せよ。食べて、飲んで、そして喜べ」という文章です。また訳し方によっては、「わが魂に平安あれ。食べて、飲んで、そして喜べ」、そう訳すこともできる。そして、ある聖書の学者はこう語った。「これは、祭司が告げる祝福の言葉によく似ている」。
 イスラエルには、当時、エルサレム神殿がありました。人々は、その神殿に集い、神様を礼拝した。そして最後に、その礼拝を司る祭司から祝福を受けた(私たちで言えば、礼拝の祝祷)。その祭司がする祝福の言葉に、この一九節はよく似ていると言う学者もいるのです。つまり、この金持ちは、自分で、自分を祝福した。「わが魂に平安あれ。食べて、飲んで、そして喜べ」。
 「ムー、ムー」にしても、自分で自分に行った祝福にしても、同じことだと私は思います。結局、彼の中には、神様がいなかったのです。豊作の実りも、倉も財産も、そして命も、全部、自分のもの。そして自分で自分を祝福して、満足する。神様がいない。この人は、神様抜きで、すべてを考え、すべてを計画し、そして安息を得ようとした。そこに、彼の最大の「愚かさ」があった。最も大切で、最も肝心なことが、彼には、抜け落ちていたのです。
 そして、イエス様は言われる。二一節。

 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。
 
 神の前において、豊かになる。神様に対して、豊かになる。イエス様は、そのことを、私たちに求めておられる。
 
 私が、静岡の教会にいたとき、家を自分たちで、お建てになったご家族がいました。「自分たちで建てた」と言いますのは、文字通りでありまして、基礎と水回り、そしてガス工事だけは、業者にお願いをして、あとは自分たちだけで、お建てになったのです。木材を買ってきて、組み立て、屋根を作って、壁を造る。そして、内装もすべて、自分たちで行い、休みのたびごとに、四人のお子さんたちと一緒になって、二階建ての見事な家をお建てになりました。何年もかかったそうでありまして、完成する前から、その家に住み始めて、私がその教会に行ったときには、「去年ようやく玄関ができた」と言って、笑っておられまいた。
しかし、その方のご身内が、事業に大きく失敗なさった。そしてその方が、連帯保証人になっていたために、家、土地、財産、すべて取られることになってしまったのであります。家族六人で、数年かけて造った家も、売りに出されることになってしまった。
 当然その方も、ご家族も、悲しい思いをなさった。悔しく、また寂しい思いもなさった。しかしその方は、(そのような思いを経てでありましょう)私には明るく、こう言われました。
 「先生、いいんです。あの家も、あの土地も、神様が与えてくださった家であり、土地なのです。家を建てて、あの家で暮らすことができた。この数年、本当に幸せでした。それを、神様にお返ししただけです。ヨブ記に書いてあるではありませんか。主は与え、主は取りたもう。主の御名はほめべきかな」。
 私、その方の言葉を聞いて、「ああ、なんてこの方は、『豊か』なのだろう」と思いました。神様に対して豊か、イエス様が言われる「神の前の豊かさ」というのは、まさにこのこと。
 
 「貪欲」とは何か。イエス様が、「注意を払い、用心しなさい」と言われた「貪欲」とは、何か。それは、「これも、あれも、自分のもの」と思う心です。これも、あれも、自分のもの。父の遺産も、それをもらう権利も、この家も、この土地も、全部、自分のもの。そして、わたしの仕事、わたしの務め、この子ども、この家族も、全部、自分のもの、そして自分だけのもの。そう考え、悩み、煩い、そして時に、安心して誇り、また不安になる。しかし、そうではないのです。「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほめべきかな」。ホントウは、すべてが神様のものなのです。すべてのものは、神様が、私たちに貸し与え、また一時的に託してくださっているもの。そして、私たちは、ただただ、その神様のご委託に誠実に応えていくだけなのです。
 そして聖書は語っている。何よりも私たちは、イエス様によって、「神様のもの」とされた。
 イエス様は、ご自分が裁判官、また調停人であることを否定されました。罪がない神の子イエス様こそ、裁判官、また調停人に最もふさわしいはずなのに、自らのその座にお着きになることをしなかった。イエス様は、裁判官の席ではなく、被告人席に着かれたのです。また、私たちを神様と和解させるための調停の献げ物となってくださった。そのお体、そしてその血によって、イエス様が私たちを清め、「神様のもの」としてくださったのです。
 「貪欲の罪」、「これも、あれも、わたしのもの。この命も、この人生も、わたしのもの」、そう思って喜んだり、苦しんだりしている私たちに、イエス様は言われる。「愚かな者よ。あなたは、神のものではないか。わたしが、十字架で血を流すことによって、清めた神のものではないか。愚かな者よ! 賢くあれ! 神の豊かさに生きる賢さに、あなたは生きなさい!」。
 
 今日、私たちが覚えている逝去者の方々。この方々も、神様の前で、いかに賢かったか、そしていかに豊かな歩みをしたか、そのことを私たちは思い返します。「神様」、神様を愛し、「神様のもの」として、神様にお仕えして生き抜いた。そこにこそ、この方々の豊かさがあった。そのことを私たちは改めて思う。そして私たちも続きたいのです。「神様のもの」として、生きる。愚かな生き方を捨てて、神様に対して、豊かな生き方をする。「主よ、そうさせてください。私たちにも、豊かな歩みをさせてください」。私たちは、ただただそのように祈るばかりなのであります。
 
 
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