礼拝説教「さあ、わたしに従え」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第18章18~30節

 
 最近、気がついたことなのですが、最近、私、体を動かすとき、無意識に、声を出していることに気がつきました。簡単に言えば、「よいしょ」とか、「よっこいしょ」という言葉が、知らず知らずのうちに口をついて出てくるのであります。腰を下ろすとき、床に落ちている物を拾うとき、また急に立とうとするとき、思わず、「よいしょ」とか、「よっこいしょ」と言ってしまう。子供の時、そのように言う大人が不思議で仕方がありませんでしたが、気がついたら、自分でもやるようになっていました。
 「よいしょ」や「よっこいしょ」も、その一種なのかも知れませんが、私たち、気持ちを入れるときに、つい口から出てくる言葉というのがあると思います。例えば、「さあ、がんばろう」というときの「さあ」という言葉や、「よし、行くぞ」というときの「よし」という言葉など、その言葉そのものには、特に意味はなくても、そこに気持ちが表れている。そのような言葉というのは幾つもあると思います。そして聖書にも、実はそのような言葉が、たくさん出てくるのであります。
 新約聖書というのは、元々ギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語で書かれている聖書のことを「原典」とも言うのですが、原典を読んでいますと、そのような気持ちが入っている言葉というのが、意外と多いことに気がつくのです。ただ残念なことに、そのような言葉というのは翻訳が難しい。日本語に訳すときは、省かれている場合も多々ある。
 今日、私たちが心に留めていきたい聖書の箇所。実はこの箇所にも、そのような言葉が出てきます。それはどこかと申しますと、第一八章二二節のイエス様の言葉でありまして、イエス様はこう語っておられる。
 「それから、わたしに従いなさい」。
この文章ですが、原文のまま訳すと、こうなります。「そして、さあ、わたしに従いなさい!」。「さあ」という言葉が入っている。辞書を引くと、「いざ」という意味も出てきまして、「いざ、わたしに従え!」とも訳せる。つまり、今日の出来事は、ここにイエス様の思いが強く込められているのです。「さあ、いざ、わたしに従いなさい!」。私たちは今日、この御言を、ご一緒に聴いていきたいと願うのであります。
ルカによる福音書第一八章一八節から、改めて読んでまいります。

 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 一人の議員が出てきます。この「議員」というのは、ユダヤ教の最高議会サンヘドリンの議員のことを指していまして、この議会が、ユダヤの国会にあたります。その議員を務めている人が、イエス様のもとを訪ねてきたというのです。そしてこの人は、(この先を読んでいくと分かるのですが)相当の資産家(お金持ち)であった。そしてさらには、同じ出来事を記しているマタイによる福音書を読むと、「彼は、青年だった」とある。議員で、資産家の青年。おそらく周りから、相当期待されていた若者だったのではないかと思われます。また友人たちや異性から、羨望のまなざしで見られていたに違いない。そのような青年がイエス様のもとを訪ねてきて、このような問いを投げかけたのです。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。
 「永遠の命」というのは、「この世で、何百年も、何千年も生きたい」という意味ではありません。「永遠」というのは、聖書では、神様のことを指していまして、神様のもとで生きる命。今もそうですし、そしてこの地上の歩みを終えてもなお、神様のもとで永遠に生きていくことができる。そうするためには、何をすればいいのですか? 彼はそう尋ねたのです。
 実は、これとほぼ同じ質問を、以前ある律法の専門家がイエス様に尋ねたことがありました。しかしその時は、「イエス様を試そうとした」、つまり、本気で問うたのではなかったのです。けれども、ここに出てくる彼は、本気で問うているのです(他の福音書を読むと、イエス様の前に来て、ひざまずき、問うている。)
立派な青年だと言えます。お金もあり、かつ議員という社会的なステータスもある。しかし彼は、この世を超えたもの、神様に思いを馳せているのです。しかも、イエス様の前でひざまずき、必死になって、それを求めている。立派な青年、若いけれども、尊敬に値する人物だと言える。
 その彼に、イエス様は、こうお答えになる。一九節。

 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 イエス様がここで挙げている掟は、十戒です。旧約聖書の要とも言える掟。イエス様は、十戒を示しながら、「ここに、すでに、神様の心が現れているではないか」、そう答えてくださる。すると彼は。二一節。

 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

 当時のユダヤでは、だいたい五歳頃から、神の掟(律法)を習い始めたそうです。そして一〇歳でその勉強が本格化して、一三歳で、律法の実践に入った。そしてその一三歳以上で、当時は、「大人」と認められたようなのです。でも逆に言えば、「一三歳になるまでは、律法をまだ理解できない子供。そして子供は律法を理解できないから、平気で罪を犯す」、そう考えられていた。しかし彼は言うのです。「わたしは違います。わたしは、子供の時から、ちゃんと律法を理解し、守ってきました!」。胸を張って、堂々と答える。
 これを聞いて、イエス様は言われる。二二節。

 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。

 そして、あの言葉が出てきます。「それから、(さあ、)わたしに従いなさい!」。イエス様は、彼を招く。気持ちを込めて、「さあ、わたしに従え」と言われる。しかし、二三節。

 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

 彼は、大金持ちだった。その財産を、手放すことはできなかった。ゆえに、「非常に悲しんだ」、(これも強い言葉なのですが、)彼は、イエス様の言葉を聞いて、強く激しく悲しんだのであります。
 
 「持っている物をすべて売り払い」。
 教会は昔から、この言葉を重く受け止めてきました。そしてこの言葉を、ある意味、そのまま受け止め、そのまま実践した歴史もあった。いや、今も、そのまま実践しているのが、カトリック教会の司祭たち、また修道士たちだ、と言ってもいいのであります。
 私も何度か、カトリックの司祭の方たちとお話しをする機会がありました。ゆっくり膝と膝をつき合わせて、話をしたこともありましたし、また、地区の牧師会で、司祭の方たちを招いて、共に懇談の時を持ったこともありました。毎回、興味深い話し合いになったのですが、私が一つ、とても感心しましたのは、「カトリックの司祭たちは、本当に物を持たない」という点であります。私が出会った司祭の方たちは、自分の下着と普段着るワイシャツ(カラーが入った司祭用のワイシャツ)、基本的に、私物はそれだけだそうです。他のものは、何も持たない。いや、持つことが許されていないそうであります。そして私が話をしたある司祭は、こう言っていました。「わたしにとって、一番つらいのは、自分の本を持てないことです」。普段は、教会の図書室から本を借りて読むそうです。しかしその本は、自分の本ではないので、線を引くことができない。また他の人も読みますので、いつまでも手元に置いておくわけにもいかない。「自分の本を持ちたい」、そう思うことは、たびたびだそうです。私それを聞いて、「ああ、持ち物を持たない(私物を持たない)というのは、そういうことか」と思いました。
 もちろん、カトリック教会と言っても様々でありまして、中には、もう少し持ち物を持っている司祭の方もいるのかも知れません。しかしどこも、基本的にごくごく少ない持ち物で生活が強いられる。
 しかし、誰もが、そのような生活ができるわけではないのであります。またカトリック教会も、「誰もがそのような生活をしなさい」と勧めているわけでもない。そしてやがて歴史の中で、このイエス様の言葉に対して、このような解釈が生まれました。「このイエス様の言葉は、特別な人にだけ向けられた言葉。教会の司祭や修道士になる人にだけ向けられて語られた言葉」。
 しかし、イエス様はこの先の二九節で、こうお語りになるのです。

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

 イエス様は、「だれでも」と言われる。「だれでも」、つまり、司祭とか修道士とか、特別な人に限らず、「だれでも」、神の国のために持ち物を捨てなさい。私物を放棄しなさい。それが、永遠の命を受ける道なのだ。イエス様は、そうお語りになる。
さらに、イエス様は、こうも言われます。二四節。

 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 この最後の譬えですが、文豪・芥川龍之介もここを読んで、「これは、人間ができる譬えではない」と言って、驚いたそうです。「らくだ」というのは、当時の人たちが知る一番大きな動物でした。そして、「針の穴」というのは、針に糸を通す穴だと言ってもいいですし、布かなにかに針で穴を空ける、その穴だと言ってもいい。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい、イエス様はそう言われたのであります。
 あまりにもすごい譬えなので、こういう解釈をした人もいました。当時、エルサレムの町に入るに際し、一番小さな門があった。そこを人々は、「針の穴」と呼んでいたのだろう。そして、荷物を積んだラクダが、そのまま通ることはできず、一度荷物を下ろさなければ、ラクダは通れなかった。イエス様は、そのことをおっしゃっている。
 私は、理解しやすいように、無理に聖書の言葉を解釈する必要はないと思っています。むしろ、芥川龍之介のように素直に驚けばいい。イエス様は言われたのです。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。つまり、そのぐらい、金持ちは、神の国に入るのが難しい。当然、これは、他人事ではありません。私たちも多くの物を持っている。この議員ほどではないかも知れませんが、多くの物を持ち(私物を持ち)、そして生活をしている。イエス様は、その私たちにも語りかけるのです。「持っている物をすべて売り払い、さあ!、わたしに従ってきなさい」。
これは、どういうことなのだろうか。これは、「清貧」、「清く貧しい生活をしなさい」ということを、イエス様はお語りになりたいのだろうか。それとも、「(持っている物を、)貧しい人々に分けてやりなさい」、愛の勧め、慈善活動への促しなのだろうか。
 どちらでもないのです。このイエス様の言葉は、「私たちが、神の国のために、持っている物を一度捨てる。いや、神様の前で、何度でも捨てる」、そのことへの招きなのです。
 
 なぜ、イエス様はこの青年に、財産を手放すように言われたのか。イエス様は、彼にこう語りました。「あなたに欠けているものがまだ一つある」。彼は、「欠け」を持っていたのです。そしてその欠けのゆえに、神の国に入ることができない、つまりそれほど決定的な欠け、致命的な欠けだった。そしてそれは、どういう「欠け」だったのかと言うと、「財産をはじめとして、自分が築き上げてきたものを足場にしている」という欠けだったのです。イエス様は、見ぬかれたのであります。「この青年は、自分が築き上げてきたものの上に立っている。『子供の時から、神の掟を守ってきた』、『若くして、議員となった』、そして『多くの財産を築き上げてきた』。まるで、一つずつ、積み木を積み上げていって、そしてその上に立っているかのよう。そして高く積み上げたものの上に立ち、そこから、『永遠の命』に手を伸ばそうとしている」。この青年は、最初にこう言いました。「何をすれば、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。つまり、「わたしは、これまで自分の力で多くのものを積み上げてきました。そしてこんなに高く積み上げました。善い先生、あと何をすれば、わたしが何をすれば、永遠の命に手が届きますか?」。イエス様はお答えになる。「そうではない。永遠の命というのは、自分の手でつかみ、自分の力で得られるものではない。永遠の命は、神様が、あなたに与えてくださるもの。だから、自分で作った足場を一度捨ててみたら、どうか。そして子供のように、神様に向かって、その身を投じたら、どうか。そうしたとき、『永遠』(神様が)、あなたをつかみ、あなたを生かしてくださる」。
 もちろんイエス様は、ただただ無責任に、「さあ、手を放せ」と言っているのではありません。腕を組みながら、彼の欠点を見事に分析し、「ああ、あなたの財産が、足かせになってるね。それを一回、手放してごらん」、イエス様はそのような気取った評論家ではない。イエス様は言われるのです。「そして、さあ、わたしに従いなさい!」。「わたしに」。つまり、イエス様はここで、彼をつかんでくださっている。彼を、しっかりとつかんで、その上で、「財産を手放してごらん」と言ってくださっている。
 
 これは私が、子供の頃の話なのですが、私の祖父は、教会の牧師でありました。夏休みになると、私は祖父の家で過ごしたのですが、その祖父が牧会する教会には、幼稚園があり、その庭でよく遊んだのであります。その幼稚園の庭には、一本の大きな木がありました。あるとき私は、その木に登ってみようと思ったのです。木の横に滑り台がありまして、その滑り台の上から、手を伸ばし、枝をつかみ、登っていく。枝から枝へ、調子よくどんどん上へ上へと登っていきました。そして、かなり高いところまで登って下を見たら、そこで、足がすくんで、降りられなくなってしまったのです。怖かったことを覚えています。
 夕方、登り始めましたので、木の上から、夕日がみるみる沈んでいくのが見えるのです。そして風も吹いてきまして、木全体が揺れる。私、必死になって、近くの枝にしがみつきました。そして「何があっても、この枝だけは放さない」、そう強く思った。しばらくして、妹が下を通りかかったので、妹に助けを求めました。すると妹は、すぐに父を呼びにいってくれた。そして父が下から登ってきてくれまして、そして私の体を、ガッとつかんでくれたのです。そして父はこう言った。「たくみ、もう大丈夫。手を放してもいいぞ」。そこで私、今まで必死につかんでいた枝をそっと放した。
 私、イエス様が、この青年にしてくださったことも、同じことだと思うのです。「そして、さあ、わたしに従いなさい!」。 イエス様が、この青年をガッとつかみ、そして言ってくださった。「もう手を放してもいい。懸命に築き上げてきた財産。また必死に積み上げてきたもの。そこから、もう手を放してもいい。わたしが、あなたをつかんでいる。『永遠』であるわたしが、あなたをつかんでいる。だから、もう手を放してもいい!」。
 
 二九節の言葉。

 神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも 

 この言葉は、もちろんですが、離婚の勧めでも、また親不孝や育児放棄の勧めでもありません。家、妻、兄弟、両親、子供、すべて、イエス様が、しっかりとつかんでいてくださるのです。私たちはすぐに思う。「この子は、わたしの子供。だから、わたしが何とかしなければ」。そうではないのです。イエス様、神様が、誰よりも力強くつかんでくださっている。そのイエス様、神様を信じて、私たちは、一度手を放す。一度手を放し、もう一度、神様の子供として、今まで以上に愛していくのです。妻にしても、夫にしても、両親にしても、みな同じ。だからイエス様はこう言われる。

 神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。

 私たちは、この世ですでに報いを受けるのです。神様の子供を愛し、育てることができる報いです。神様が与えてくださった妻を、夫を愛する報いです。これは、何倍もの報いであり、永遠の命をすでに生き始めていることでもある。まさに、イエス様が青年に示してくださった神の掟、十戒を生きる道が、ここにあるのです。
そして私たちを、また私たちの家族をつかんでくださっているイエス様の手は、十字架によって、釘で打ち抜かれた手なのです。イエス様は、そこまでして、罪人である私たちをつかんでくださった。私たちは、神の愛の手によってしっかりとつかまれている。そのイエス様の手の中で、私たちは、今まで必死になってしがみついてきたものを、放すのです。私たちは気がつくと、すぐ手に力が入っています。ホントウは自分では負い切れないものを、必死につかみ、「わたしが、握っていないと何もかもダメになる」と勝手に思っている。しかし私たちはこの礼拝で、手を放す。何度でも放す。「イエス様、あとはお任せします」、そう言って、手を放し、そのイエス様にお従いしていくのであります。
私たちは、今日も、主の御声を聴きます。「そして、さあ、わたしに従ってきなさい」。
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