礼拝説教「天の権威者に従い」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第20章1~8節

 
 
  私、この大和キリスト教会が、「これは、誇ってもいい」と思っていることがあります。どこかで誰かに、自慢するというわけではないのですが、「これは、堂々と誇れる」と思っていることがある。それは、この礼拝なのです。特に、「皆様が、礼拝において御言を聴く」、その集中力が、私は素晴らしいと日頃から思っている。
 この教会に長く通っておられる。また、教会はここしか知らない、という方は、おそらくこれが、当たり前だと思っているかも知れません。幸いなことです。私、今まで、自分が仕えていた教会だけではなく、色々な教会の礼拝に呼ばれまして、そこで御言を語らせていただいてきました。数えたことはありませんが、おそらく、三〇近い数の教会で、語ってきているはずです。そして、御言を語り、「ああ、今日は、集中力があった、いい礼拝だったなぁ」と思えるときと、残念ながら、あまりそう思えなかったときと、いずれも経験してきました。そして、「良かったとき」の礼拝というのは、いつまでも覚えているものであります。
 そして私は、「この大和キリスト教会、いつも本当に、いい集中力をもって、礼拝をしている」と思っているのであります。(あまり褒めると、「何か裏があるのではないか」と疑われてしまうかも知れませんが、私の正直な思いであります。)
 
 先週、私たちが読みました御言の中で、イエス様が、エルサレム神殿で説教をなさる場面がありました。そこに、こういう言葉が出てきました。第一九章の四八節、その最後の部分ですが、

 民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

 この「夢中になって」という言葉ですが、調べましたら、聖書が元々書かれた言葉では、「ぶらさがって」という意味を持つ言葉が使われていました。なかなかユニークな言葉です。イエス様の話に、みんなが、ぶらさがるように、懸命に耳を傾けていたというのです。それほど、イエス様の話が魅力的だったのでしょう。また、翻訳によってはここを、「心奪われて」と訳すものものある。いい訳です。人々は、イエス様の言葉を聞いて、一気に心奪われてしまった。そして、ひと言も聞き漏らすまい、と食い入るように、ぶらさがるように、聞く。それこそ、「いい集中力」だったに違いありません。そして、(先週も申しましたが)、ルカによる福音書は、ここに、「教会」の姿を見るのです。イエス様が御言をお語りになり、そして人々が熱心に耳を傾ける、ルカは見る、「ここに、教会がある。イエス様が造ってくださる、まことの礼拝がある」。
 しかし、この人々の集中を、ぶちこわしに来た人たちがいました。今日の礼拝の御言は、そこから始まるのであります。ルカによる福音書第二〇章一節から、読んでいきたいと願います。

 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」

 この日もイエス様は、エルサレム神殿の境内で、人々に御言を語っていました。ここも、何気ないですが、ルカの丁寧な筆遣いを見ることができます。「イエス様は、神殿の境内で、民衆に教え、福音を告げ知らせておられた」。ルカは書く。イエス様は、聖書そして信仰を教えておられた、そして同時に、「福音」を告げ知らせていた。ルカが、「福音」というときは、罪からの解放、罪の赦しを、意味しています。「あなたがたの罪は、赦された」、もしくは、「わたしが来たのは、あなたがたの罪を赦すため」。イエス様は、そのことを神殿で告げ知らせておられたのであります。そこへ、祭司長、律法学者、長老たちがやって来ます。この人たちは、民衆の指導者であり、「サンヘドリン」と言って、ユダヤの最高議会のメンバーだった。言ってみれば、信仰の権威者たちだったのです。その権威者たちが来て、イエス様にこう尋ねる。「何の権威でこのようなことをしているのか」。彼らは、神様の救いを求めて、イエス様のもとに来たのではありません。明らかに、イエス様を問い詰めに来た。「何の権威で、しかも、この神殿で最も権威を持つ私たちの許可なしに、なぜ、このようなことをしているのか」。まるで、警察が、犯罪者を尋問するように、彼らはイエス様を問いただしに来たのです。
 祭司長たちはここで、「何の権威で、このようなことを」と言いました。これは、具体的に、二つのことを指していると思われます。一つは、イエス様は、神殿に入られるとすぐに、神殿から商売人たちを追い出されました。「ここは、祈りの家。強盗の巣ではない」と言って、神殿で、献げ物を売る人たちを一掃された。祭司長たちは一つは、そのことを指して、「あなたは、何の権威でそれを行ったのか」、そう問うたと考えられるのです。
しかし、ルカによる福音書の書き方は、どうも、ただ、それだけではないのです。ここで、ルカが強調していることは、「イエス様は、神殿から商売人たちを追い出し、そして、説教を始められた」ということであります。民衆に教え、福音を告げ知らせておられた。祭司長たちは、これについても、尋問をしたと思われるのです。「あなたは、何の権威で、そのようなことを語っているのか。罪の赦し、その権威は、だれから与えられたのか」。
 するとイエス様は、このようにお答えになる。三節。

 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」

 「ヨハネ」というのは、イエス様に先立って、荒れ野に現れた人です。そして人々に、「間もなく、救い主が来てくださる。その備えをするように」と言って、悔い改めの洗礼を行った。イエス様は言われる。「そのヨハネの洗礼は、天からのもの(つまり、神様からのもの)だったのか、それとも、人からのもの(つまり、ヨハネが、自分で勝手に行っていただけなのか)」。すると、祭司長たちは困ってしまうのです。五節。

 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」

こう言って、彼らは困ってしまう。そしてこう答える。

 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 私たちは少し、不思議な印象を受けます。なんだかイエス様が、彼らを煙に巻いたように思えるからです。はっきり答えると、カドが立つ。だから、上手に逃げる。質問を、はぐらかし、明言をするのを避けたかのように思えてしまう。私たちは思うわけです。イエス様には、堂々と答えていただきたかった。「何の権威で、福音を語っているのか」、「無論、天からの権威。わたしは、天の権威をもって、罪の赦しを告げている!」。私たちとしては、堂々と、そのように答えていただきたかった。それなのに、なぜ、イエス様は、このような答え方をしたのだろうか。
 
 今、「初めての聖書講座」という小さな集いをしています。九月に、ナーセリースクールのホームカミングディを行いまして、そこで参加者を募り、また、子育て支援「こばと」でも、参加者を募りまして、全部で三回の集いを開催しています。人数は多くはありませんが、何人かの方々が、それに応じてくださり、すでに二回、その講座を行いました。
 私、その講座で、皆様とどの聖書の箇所を読もうか、と大分悩みました。初めて、またほぼ初めて、聖書を読む。できるだけ、読んで分かりやすい、また心に残る箇所にしたい。そう思いまして、前回、「姦淫の罪を犯した女性をイエス様がお赦しになる」、その箇所を選ばせていただいたのであります。
 あの出来事も、エルサレム神殿が舞台でした。そしてやはり、イエス様が人々に話をしておられるところへ、律法学者たちが、踏み込んできた。そして、こう言ったのです。「この女は、姦通の現場で取り押さえられた。律法では、『このような女は、石で打ち殺せ』と書いてあるが、イエスよ、あなたは、どう考えるのか」。
これは、イエス様への罠でした。どう答えても、イエス様は窮地に陥る。律法学者たちは、この問いを投げかけ、心の中で、高笑いをしていたに違いないのです。すると、イエス様は、そこで、黙ってしゃがみ込まれます。そして、地面に何か物を書き始める。印象深いと思いました。聖書講座でも、皆様、印象深く、その箇所を読みました。騒ぎ立てる律法学者たちから、また連れて来られた女性から、イエス様は視線を外し、静かにしゃがみ込む。
 私、その場面と、今日の箇所は、通じるものがある、と思ったのです。今日の箇所でも、イエス様は、「わたしも言うまい」と言って、何もお答えになりませんでした。あえて、お答えにならないイエス様。そしてあのときは、しゃがみこみ、地面に物を書いておられたイエス様。二つのお姿は重なる。そして私は思った。そのように、イエス様は時に、「答えないこと」によって、答えてくださるときがあるのではないか。何もおっしゃらない、沈黙することによって、言葉で語るよりも、何倍もの言葉を、語ってくださることもあるのではないか。そしてイエス様はここで、お答えにならないことによって、祭司長や律法学者たちの罪を、語ってくださっているのです。
 彼らはイエス様に、「何の権威で」と尋ねました。しかし、イエス様とのやり取りで、明らかになったのは、「彼らは、最初から、天の権威に服するつもりはなかった」ということです。ヨハネのことも認めず、イエス様のことも認めない。最初から、権威を認め、それに服するつもりが、彼らにはなかったのです。なぜだろうか。それは、「自分たちにこそ、権威がある」と思っていたからです。神殿を取り仕切る祭司長。聖書の知識があると誇る律法学者。そして人々の指導者である長老。「自分たちにこそ、権威がある」、そして、「権威のある自分たちこそが、救い主を決めることができる」と考えていた。つまり、自分たちの意に沿う救い主でなければいけないのです。彼らはまるで、上に立って、下を見くだすようにして、「あなたは、救い主と認めてあげてもいい。いや、あなたは、救い主と認めるわけにはいかない」、そのように判定する。試験する。そのとき、あくまでも、権威は、自分たちの側にある。救い主さえも、自分たちで決めることができる、と思っている誤った権威に立っているのです。
 救い主と、自分たちの立場が、倒錯している(ひっくり返っている)彼らの罪の姿がここにあります。そしてこの姿が、イエス様が答えないことによって、あらわにされた。そして下手をすると、私たちも、この罪に陥る。この罪に、足元をすくわれてしまうのであります。
 
 少し前のことですけれども、ある方から、このような質問を受けました。「先生、わたし、礼拝が始まる前、席で祈っているのですが、そこでは何を祈るのがいいですか」。いい質問だなぁと思いました。私たちの教会では、礼拝開始一〇分前に、私がアナウンスをしています。「まだ礼拝堂に入っておられない方、そのような方は、なるべく早目に入ってほしい。そして同時に、礼拝堂に入ったならば、静かに礼拝を待つ姿勢に入ってほしい」。特にその一〇分前から、その質問をしてくださった方と同じように、多くの方々が、祈っておられる。(ですから、どうか、小声でも、その時間はおしゃべりは控えていただきたいのですが、)そのとき、何を祈るのがいいのか。
 私、ある時、書物の中で、このように語っている牧師のコメントを見つけました。やはり、その牧師も、教会員から、「礼拝前に何をすべきですか」と尋ねられたようなのですが、その牧師は、こう答えていました。「礼拝が始まる前に、聖書や讃美歌の準備をする。その日の聖書の箇所を開けて、しおりなどを挟んでおく。また、礼拝への姿勢が整うように祈りをする、それは、大事なこと。でも、それは、準備の準備なのだ」。その牧師は、そう言うのです。礼拝前の祈り、それさえも、実は、「準備の準備」。ならば、本当の準備は何か、と言うと、その牧師いはく、「礼拝前の本当の準備は、自分の心を、一度、空っぽにすること。祈ることさえやめて、また多くの心配や祈りの課題があっても、それらも、一旦考えるのをやめて、自分を一度、空にすること。そのようにして、御言を待つのが、本当の準備だ」。
 私、その文章を読みまして、「なるほど」と思いました。そして私も、それ以来、そのことを実践し続けています。礼拝前、祈ることさえやめて、自分を空っぽにする。空っぽにして、御言を待つ。そしてそれは、今日の御言で言い換えれば、「天の権威に服する、その準備をする」と言ってもいいのです。
 私たちもそれぞれ、「権威」を持って、生活をしています。例えば、職場において、部下がいたり、後輩がいたりすれば、そこで、上司先輩として、権威を持って指導する。また家庭において、子育てをしている。そこでも、親としての権威を持つ必要がある。また、誰もが、自分の人生の権威者でありましょう。自分に対して、権威を持って、主体的に物事を考え、主体的に動いている。その意味において、私たちは誰もが、大きな、そして小さな権威者だ、と言ってもいいのです。(もちろん、それらは、神様から与えられた権威。)しかし、そのとき私たちが、陥ってはいけないのは、ここに出てくる祭司長たちのように、「自分の権威に、こだわりつづけ、そこから動かない」という罪なのです。「自分の権威」を守る。そして自分の権威にこだわるあまり、天の権威を退けてしまう罪。
 玉座、権威者が座る椅子に譬えてもいいのかも知れません。私たちにとって、本来、まことの玉座に座っていただくのは、イエス様なのです。しかし、私たちは気がついたら、ついつい、自分がその椅子に座っている。自分が、最高の権威者の椅子に深々と座り、他の人に、また自分自身に指図をし、その居心地の良さから立ち上がろうとしない。そして何もかも、自分一人でできると思い高ぶる。
 また、道を先に進む先導者に譬えてもいいかも知れない。私たちにとって、本来、私たちの道の先頭に立ち、行く道を決めてくださるのは、イエス様なのです。しかし、私たちは気がついたら、ついつい、自分が道の先頭に立っている。イエス様を押しのけ、いつも、自分が前にしゃしゃり出ている。私たちも、気がつくと、祭司長たちのように、すでに自分の権威にこだわり続け、そこから動こうとしないのであります。
 だから、だから、私たちは礼拝に来るのです。この礼拝で、天の権威者、イエス様をお迎えする。礼拝前、イエス様を前にして、言うのです。「ああ、イエス様、スイマセン。また、わたしが、あなたが座るべき席に、座ってしまっていましたね。わたしは、どきます。あなたがお座りください」。私たちはそう言って、イエス様に席を譲る、心を空にする。
 もしくは、「イエス様、ごめんなさい。また自分が道の先頭に立っていましたね。あなたに従っていくのが、わたしです。どうか、あなたが、もう一度、わたしの先頭に立ってください」。私たちはそう言って、道をあける、心を空にする。私たちは、礼拝前、また礼拝の中で、心を空にして、まことの権威者、イエス様をこの心にお迎えするのです。
 そして、祭司長たちは、結局、これができなかったのであります。いつでも、そして、いつまでも、自分たちが権威者であることに、こだわった。そして自分たちの権威を脅かす、イエス様を、最後、十字架につけていったのであります。
 イエス様は言われます。

 「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 私は、この言葉の中に、イエス様の十字架の決意を読み取るのです。イエス様は、彼らの質問を煙に巻いたわけではない。適当に誤魔化したのでもない。「わたしも言うまい。」、そのようにおっしゃり、十字架への決意を固めていかれる。そして、イエス様は、十字架においても、多くの言葉ではなく、黙って血を流し、言葉以上の言葉を語ってくださったのです。「わたしを、十字架につけた。ここに、あなたがたの罪がある。そして、わたしが、十字架についた。ここに、あなたがたを赦す、神の愛がある」。
 
 私たちの権威者、そしてまことの権威者であるイエス様は、愛の権威者でありました。十字架にかかるほど、私たちのことを愛し、赦してくださった権威者だった。この御方に、私たちの玉座に座っていただくのです。十字架の権威者が、私たちの玉座に座っている限り、私たちは、自分の権威を振りかざすわけにはいきません。私たちも、赦しに生きる、愛に生きる。もう、肩肘を張って、自分の権威を振りかざす必要がなくなった。
 十字架の権威者が、私たちの道の先頭に立ってくださるとき、私たちはもう、損得勘定はできません。「すかさず、損得を勘定し、少しでも得をする道へ、損をしない道へ進む」、そのようなことを考える必要がなくなった。十字架の死。これ以上ない、愛による損失をした方に、私たちは、お従いしていくのですから!
 天の権威者に従う道は、喜んで、自分を捨てることができる道です。イエス様に従う道は、愛のために、この身を献げることができる道なのであります。
 
 
 メッセージTOPへ