礼拝説教「生きるとはキリスト、死ぬことは利益」 牧師 鷹澤 匠
 フィリピの信徒への手紙 第1章12~26節 

 
 今日、私たちは、神様にオルガンをお献げいたしました。今日のこの日を迎えることができたことを本当に嬉しく思います。
 このオルガンを制作してくださったのは、イタリアのアンドレア・ゼーニ工房の皆様であります。その工房の代表であり、制作を指揮してくださったアンドレア・ゼーニさんにオルガン製作を依頼したとき、私はこのように申し上げました。「讃美歌を歌うためのオルガンを作っていただきたい。コンサートのためのオルガンではなく、また特定の作曲家の曲を演奏するためのオルガンでもなく、礼拝で讃美歌を歌う。ここに集まる人たちが声を合わせて、神様をほめたたえる歌をうたう。そのためのオルガンを作っていただきたい」。そして、アンドレアさんは、それを見事に形にしてくださったのであります。
 先週一週間、オルガンは、整音作業が行われていました。非常にデリケートな仕事になるため、見学はお断りして、アンドレアさんたちに作業に集中していただきました。しかしこのようなことを「役得」と言うのでしょうか、整音作業中でも、時々試し弾きが始まる。オルガン曲や讃美歌を特にオルガニストの吉田愛さんが演奏をされる。私、2階の牧師室で仕事をしておりますと、「あ、試し弾きが始まった」ということが分かるのであります。そしてすかさず階段を降りていって、こっそり礼拝堂に入る。そこで皆様よりも早く、オルガンの音を聴かせていただいたのであります。「役得」、本当に得をいたしました。皆様もすでに感じ取ってくださっていると思いますが、本当にいい音。しかも讃美歌を歌うのにぴったりな音。演奏を聴けば聴くほど、ここで皆様と讃美歌を歌えることを楽しみにしていたのであります。
 ちなみに、このオルガン、讃美歌を歌うことを主目的として造っていただいたのですが、結果として、コンサートにも充分通用するオルガンとなりました。このあと、ミニ・コンサートもしていただく。そこで皆様も実感してくださると思いますが、充分コンサートも開けます。その意味で、期待通りのオルガン、そして期待以上のオルガン。そのオルガンを私たちは、神様にお献げすることができたと思うのであります。
 しかしなぜ、私たち教会は、そこまでして讃美歌を歌うことにこだわるのでしょうか。ある意味、非常に高価な楽器です。そのために、たくさんの献げものも献げられました。それだけのことをしてでも、なぜ私たちは、讃美歌を歌うことにこだわるのか。それは、讃美歌が、私たちの心を神様に向かわせてくれる「祈り」だからであります。讃美歌を歌うとき、私たちの心は、神様に向かいます。そして讃美歌を歌うとき、私たちの生活も、そしてやがてその生き方も、神様に向かう。聖書の言い回しを使えば、私たちは讃美歌を歌うことによって、心を高く天に向けることができるのであります。
 私たちは下手をすると、すぐ心が地上に縛られてしまいます。目の前のことしか見えなくなり、自分のことしか考えなくなり、まるで蛇が地面を這うような生き方をしてしまう。しかし讃美歌を歌う。ここに来て、みんなと一緒に讃美歌を歌うとき、私たちの心は天に向かうのです。そしてその心に引っ張られるようにして、私たちの生活、私たちの生き方も、天に向かう大きな祈りになる。
 
 今日の礼拝の御言として、フィリピの信徒への手紙を読みました。これは、パウロという人が、フィリピという町にあった教会に書いて宛てた手紙です。パウロは、人々にイエス様のことを伝える伝道者だったのですが、そのパウロの生涯も一つの大きな祈り、また一つの大きな讃美歌であったと言えます。そのパウロはこのように語るのです。

 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。(フィリピの信徒への手紙、第1章21節)

 なかなか強烈なことをパウロは語る。「生きるとはキリスト。死ぬことは利益」。一体何を語っているのだろうか。これは具体的に何を意味しているのだろうか。今日、私たちはこのパウロの言葉に、しばらくの時間、心をとめていきたいと願います。
 
 「生きるとはキリスト。死ぬことは利益」。もしかしたら、この言葉が、このような言葉だったら、ある意味、誰もが理解できたかも知れません。
 「わたしにとって、生きるとは、わたし!」。
 「わたしは、わたしのために生きているし、わたしの人生は、わたしのためにあるし・・、わたしの人生、わたしが満足し、わたしが楽しむことが、最も大切ではないか。生きるとは、それはすなわち、わたし!」。そして、そうなると、当然このような帰結になる。「それに対して死ぬことは、損失以外の何ものでもない!」。死ぬこと、もしくは死に近づくこと、例えば病気になることや年を取ること、それらはすべてマイナスでしかない。なぜなら、そこでわたしが、わたしでいられなくなるから。わたしが満足する楽しい生活が送れなくなるから。だから、死に近づくことは、損失以外の何ものでもない。特に私たちが生きる現代は、そのような風潮があるように思えてなりません。また、キリスト者であっても、「結局そのような生き方の方が幸せなのではないか」、そのような誘惑に駆られてしまう。しかし、パウロは言うのです。「生きるとはキリスト。死ぬことは利益」。一体どういうことなのだろうか。
 
 パウロは続けて、このように語っていきます。

 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。(第1章22~24節)

 このときパウロは、牢獄の中にいました。当時、ユダヤ人やローマ帝国による教会への弾圧が行われていまして、パウロは逮捕され、牢獄に捕らえられていたのです。「生きること、死ぬこと」。どちらかと言えば、今パウロは、死ぬ(正確には殺される)、その可能性の方がはるかに高かった。そしてこの手紙を書いているときにも、それが起こり得たのです。突然、牢の扉が開いて、「パウロ、これからあなたの死刑を執行する」、そう言われて、そのまま刑場に引かれていく。そのようなことが起こっても、なんら不思議ではない状態にパウロは置かれていたのです。そこでパウロは、「わたしは、一方では、この世を去って、キリストと共にいたいのだ」と語ります。つまり、「死んで、イエス様のもとに行きたい、これほど嬉しいことはない」。しかし、もう一方で、「あなたがた」(この手紙を受け取っているフィリピの教会の人たち。あなたがた)のために、わたしが生きることも必要。わたしは今、その2つの思いの中で板挟みになっている。パウロは、そう語っているのであります。
 
 「生きること、死ぬこと」。今日は、そのどちらにも、心を留めてみたいと思うのですが、まず「死ぬこと」の方からいきますと、パウロは、自分が死んでいくことを、「この世を去って」という言葉を使います。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており・・。
 この「この世を去る」という言葉を原文に遡って調べてみましたら、大変おもしろいことが分かりました。この言葉は元々、「宿営を引き上げる」という軍隊用語だったそうなのです。軍隊が戦いのために陣を敷く(臨時の宿営、キャンプを張る)。そして移動するときに、その宿営をたたんで引き上げていくのです。そのときに使われた言葉が、この言葉で、それが、「世を去る」という意味でも使われるようになっていった。
 イメージのある言葉です。私たちもいつか、この世を去る。すると、まるで軍隊が宿営をきれいにたたんで、引き上げていったようになる。そこは、元の更地に戻り、元の野原に戻る。私たちがこの世を生きた痕跡は、いつか消え、そこはまるで、最初から何もなかったかのようになる。
 もう一つ、この言葉には別の使い方もあって、似ているのですが、「船が碇を上げる」という意味もあるのです。これも同じです。大きな船が、港に停泊していると、圧倒的な存在感があります。しかしその船が、ひとたび碇を上げて出港してしまうと、あっと言う間に静かな港に戻る。まるで最初から何もなかったかのような寂しい海に戻る。私たちにとって、「死」というのは、そのようなもの。そのような寂しさを伴うもの。
 しかし、パウロはここで、ただ「去る」とは言っていないのです。「この世を去って、キリストと共にいる」。この世を去って、どこか彼方へ行ってしまうのではない。ましてや、この世を去って、消え失せてしまうのでもない。「キリストと共にいる」。つまり、宿営を引き上げても、その一隊は、キリストのもとに行くのです。しかもそれは、聖書的に言えば、敵軍に追われて、慌てて宿営を引き上げる「敗走」ではなく、もう戦いは終わった、戦いに勝利した、だから、もうこの宿営はいらない。ここを発って、愛する家族のもとに帰ろう。ここを引き上げて、「あなたがたは、よく戦った」、そう言ってくださる王様のもとに帰ろう。そしてその王様は、神様、イエス様。「パウロよ、おまえはよく戦った。わたしの忠実なしもべパウロよ」、そう言ってくださるイエス様のもとに行くことをパウロは熱望していたのであります。
 そして、「碇を上げる」イメージも同じです。私たちにとっての「死」というのは、碇を上げて、そのまま当てもなく海を漂うことではない。私たちには、ちゃんと次に行く港がある。まことのふるさと、天の故郷がある。だから、パウロは言えたのです、「死ぬことは利益。この世を去って、イエス様と共にいる!」。
 そしてもう一つだけ、言葉の説明を加えますと、「熱望」という言葉もパウロは使います。「(キリストと共にいたい)熱望」、これは、元々、「心を上に」という言葉なのです。つまりパウロは、心を上に向けている。心を天に、心を高く上げている。だから、軽やかに、なおかつ力強く言えた。「死ぬことは利益!」と。
 
 私、役得として、皆様よりも先にオルガンの音を聴かせていただいたと申しました。そのとき、とても静かな曲の演奏もありました。少ない音色で、しっとりとした曲。たくさんのパイプが重なっている迫力ある音色もいい音ですが、少ない静かな音色も、それはそれでとてもいいのです。そして私、その曲を目をつむって聴いていたましたら、ふっと、こういう思いが頭をよぎりました。「ああ、この音色の中で、最後見送ってもらえたら、さぞかし幸せだろう」。つまり、自分の葬儀のことを考えたのであります。
 教会における葬儀。それは、「天への見送り」であります。「告別式」という言い方をする教会もありますが、それは、「最後のお別れを言う式」という意味ではなく、教会においては、「天において再び会うために、地上のお別れを言う式」。言ってみれば、「また会いましょう。しばしのお別れですね」、そう言って、その人が天に旅立つのを見送るのです。
 パウロもしかり、私たちもしかり、私たちは、天に希望を置いて死ぬことができる。イエス様のもとに旅立つことができる。私たちは決して、行き先のない船ではないのです。
 
 次に「生きること」に、心を留めます。
 先ほども申したとおり、パウロは今、厳しい状況に置かれていました。ですから、「こんなにつらいのならば、いっそのこと、死んでしまいたい」、そう思っても不思議ではない状態だったのです。しかしパウロは、「わたしは生きる」と語ります。なぜか。24節。

 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。(第1章24節)

 何のために生きるのか。パウロは、「わたしは、フィリピの教会の人たち、あなたがたのために、必要だから、生きる」と言っている。さらに、25節。

 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。(第1章25~26節)

 パウロは、大胆なことを語ります。「わたしは、あなたがたと共に(一緒に)いることになる。そしてあなたがたの前に姿を見せ、あなたがたの信仰を強めるだろう」。つまりパウロは、自分が牢獄から出られることを前提にして語っているのです。
 パウロという男は、随分前向き、楽天的な性格だったのだろうか。「今、わたしは牢にいるけれども、大丈夫、大丈夫。もうすぐ、ここから出られるから。そうしたら、また会えるね」。そのように、悪いことは一切考えない、極めて脳天気な男だったのだろうか。もちろん、そうではありません。むしろ、客観的に見れば、パウロが生きて牢から出られる可能性は低い。しかしパウロは、何の躊躇もなく、「わたしは、あなたがたと会える」と言っているのです。なぜか。それは、「神様が、パウロを必要としている」からなのです。フィリピ教会の人たちのために、また他の教会の人たちのために、神様が、パウロを必要としている。だから、必ず、わたしはこの牢から出ることができるし、あなたがたにも再び会うことができる! パウロは、神様を根拠に、これらの言葉を語っているのです。
 「必要」、また「必要とされる」、その喜びは、私たちも、よく知るところだと思います。職場でも学校でも、また家庭でも、「自分は、ここで必要とされている。自分がいないとダメなのだ」、そのことを感じることができるというのは、大きな喜びであります。またそれが、私たちを生かす力となる。逆に、それらが感じられなくなるとき、私たちはとても深い傷を負う。「自分は、もう、ここでは必要とされていない。自分はここで、必要ない人間となってしまった。役に立たないし、お荷物になってしまった」。そのようなことを感じたときの辛さ、悲しみ、寂しさというのは、ある意味、肉体に傷を負うことよりも、はるかに深い傷を私たちに負わせる。
 「人から必要とされる」、それでさえ私たちにとって、大きな力であるのならば、「神様から必要とされる」、それはどれほど大きな力になるのだろうか! 神様が、必要とするのです。この天地をお造りになり、そしてこの世界を導いてくださっているその神様から、「あなたは、今、必要なのだ。パウロよ、鷹澤よ、誰々よ・・、あなたは、わたしにとって、なくてはならない存在なのだ」、神様がそう言ってくださる。だから、私たちは生きることができる。どんなに苦しくても、パウロのように逆境に置かれても、それでも、喜びをもって生きることができる。そして実際、神様は私たちにそう言ってくださっているのです。「わたしは、あなたを必要とする」。それが、御子キリストの十字架だったとも言える。御子キリストを十字架につけてでも、神様は、私たちを必要としてくださった。罪人の私たちを赦し、その私たちに、「わたしのために、生きてほしい」と神様は呼びかけてくださった。だから、パウロは言うのです、「生きるとは、キリスト! わたしは、キリストのために、生きるし、わたしはそのキリストに生かされているし、むしろ、生きているのは、キリストなのだ」と。
 
 「生きるとは、わたし。死ぬのは、損失」。
 そのような生き方は、地べたを這う蛇のような生き方です。蛇は、地べたにある塵を口に入れては、それを吐き出し、また入れては、それを吐き出しを繰り返す。そのようにして、自分の空腹を満たす餌だけを探して、地べたを這い回る。しかし、私たちは蛇ではない。ここで讃美歌を歌い、心を高く上げる。そしてここで、鷲のように力強い翼をいただいて、大空高く舞う。また、ひばりのように軽やかに、空高く舞い、それぞれの生活の中で美しい愛の歌をうたう。
 「生きるとは、キリスト、死ぬことは利益」。
 神様は、その歌をうたうために、このオルガンを与えてくださった。
 私たちが、いつでも、またどんなときでも、この歌を歌い続けていくことができるように、神様が私たちに讃美歌を与えてくださったのであります。
 
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