礼拝説教「無責任の罪」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第23章13~25節 

 
 牧師になる学校、神学校の三年生の時、私は、山形県にある教会へ、夏期伝道実習に行きました。そして、約ひと月、教会に泊まり込んで、実習をさせていただいたのであります。
 その教会には、付属の保育園がありまして、私、時間があるときは、子どもたちと一緒に給食を食べたり、遊んだりしておりました。また、時間がないときでも、ほぼ毎日、夕方、一時間か二時間、保育園に行って、子どもたちと一緒に遊ぶ。私、そのときは、まだ二〇歳でありました。若くて、保育園では珍しい男性で、まぁ、モテました。常に子どもたちに囲まれ、子どもたちも次から次へと私に話しかけてくる。私の人生最大のモテ期(最も人気があった時代)は、あの時だったのではないか、と思うほどでありました。
 そのような中で、よく子どもたちが、私に、色々な物を見せに来てくれました。カバンにつけてきたキーホルダーを私に見せ、「これ、お母さんに作ってもらったんだ-」とか。着ているTシャツを見せて、「これ、お父さんに買ってもらったんだー」とか。新しい物を私に自慢する。誇らしげに、そして嬉しそうに見せてくれたのであります。私も、「可愛いねぇ」とか、「かっこいいねぇ」と言って、言葉を返していたのですが、しばらくして、ある共通点があることに気がつきました。子どもたちは、みんな、ただ物を自慢しているのではないのです。「誰々に作ってもらった」。また、「誰々に買ってもらった」。新しい物を手に入れたことが、ただ嬉しいのではなく、「誰々、お母さん、お父さんに、作ってもらった、買ってもらった」、それが嬉しい。つまり、その物は、その子にとって、「自分は、確かに愛されている」という証拠だったのであります。
 私たちも、たくさんのものを神様からいただいています。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」。この『主の祈り』は、神様が、ただ食事を与えてくださっている、という祈りではなく、私たちが生活していくために必要なもの、住居、服、仕事、さらには、家族、兄弟、友人。それらをすべて、神様が与えてくださっている、また与えてください、という祈りです。そして、それが与えられること自体も、私たちの喜びなのですが、(保育園の子どもと同じ!)、それらはすべて、神様が、与えてくださっている、「神様から来ている」というところに、私たちの大きな喜びがあるのです。ただの食事ではない。ただの仕事、家族、友人ではない。神様が、私たちを愛し、私たちのために与えてくださっているもの。すべて、「神様が、私たちを確かに愛してくださっている」、その証拠なのであります。
 そして、神様が、私たちに与えてくださった最大の証拠、しるし。それは、イエス様なのであります。特に、イエス様の十字架とおよみがえり。ここに、「神様が、私たちを確かに愛してくださっている」、その揺るがない証拠があるのです。
 今日から、ルカによる福音書に戻ります。そして、イエス様の十字架、およみがえりの出来事を、ご一緒に読んでいきたいと願います。神様の愛のしるし。神様が、ご自身の愛を、私たちのために完遂してくださった(完全にやりとげてくださった)、その出来事を、ご一緒に心に留めていきたいと願うのであります。
 ルカによる福音書第二三章一三節から、もう一度、読んでまいります。

 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 話の途中からです。イエス様は、弟子たちと共に食事をなさったあと、オリーブ山に祈りに行かれました。曜日で言うと、木曜の夜のことです。するとそこへ、イスカリオテのユダに先導された祭司長や長老たちが、兵士たちを連れて、押し寄せてくる。そしてイエス様を逮捕し、その夜のうちに、イエス様を大祭司の官邸に連行していくのであります。弟子たちは、イエス様の逮捕を見て、怖くなって、ちりちりに逃げてしまう。
 裁判が始まります。ユダヤの最高議会、私たちで言うところの国会における裁判が始まる。そしてイエス様を憎み続けていた祭司長、律法学者、長老たちによって、イエス様の死刑判決が決められていくのです。
 しかし、当時のユダヤは、ローマの植民地でした。判決を出しても、勝手に、人を殺すわけにはいかない。そこで彼らは、ローマ総督ピラトのもとに、イエス様を連れていくのです。それが、金曜の朝。
 ピラトは、イエス様を尋問します。しかし、何の罪も見いだせない。そして、イエス様がガリラヤ出身だと聞き、たまたまエルサレムに来ていたガリラヤの領主ヘロデのもとに、イエス様を送るのです。しかし、ヘロデも、イエス様を馬鹿にしただけで、何もせずに、そのままピラトのもとへと送り返してくる。そして、今日の箇所につながります。
 ピラトは、もう一度、祭司長たちやユダヤの議員たちを集めます。そして、民衆も集める。そこで、宣言をするのです。「この男には、罪を見いだせない。少なくても、死刑にあたいする理由は一つもない。だから、鞭で懲らしめて、釈放しよう」。罪がないのならば、鞭で懲らしめることも、おかしいわけですが、「無罪放免では、君たちも納得しないだろう。だから、鞭で打つぐらいで、勘弁してあげないか」。ある種の妥協をしながら、ピラトは、判決を言い渡すのです。
 しかし、ピラトが思ってもみなかったことが起こる。一八節。

 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。

 一七節がないことにお気づきだと思います。その代わりに、十字のマークがついている。これは何か、と申しますと、聖書というのは、最初の頃、人の手で書き写されて、伝承されてきました。それを「写本」というのですが、写本によっては、一七節があるものも、あるのです。そしてそれを、正式な聖書として、読んできた時代もあるのですが、しかし現代になって研究が進み、オリジナルのもの(ルカが書いた元々のもの)には、一七節がなかっただろう、と考えられるようになりました。そこで、新共同訳聖書では、一七節を省いたのであります。
 でも、なぜ、写本によっては、一七節があるのか。それは、ルカが、ここで、少々、話をはしょっているからなのです。一八節で、いきなり、「バラバ」が出てくる。他の福音書を読むと、もう少し丁寧に、このいきさつが語られています。当時、「祭りのたびごとに、囚人を一人、赦す」という慣習がありました。「恩赦」です。その恩赦の仕組みを利用して、ピラトは、イエス様を釈放しようとした。ピラトは、ちゃんと見抜いていた。「このイエスという男が連れてこられたのは、祭司長たちのねたみのため。民衆の人気を、この男が一身に集めているため、祭司長たちは、嫉妬したのだ。それならば、民衆に問いかけよう。イエスを支持している民衆が、イエスの釈放を願えば、事は丸く収まるだろう」、ピラトはそう考えて、暴動と人殺しの罪を犯したバラバと、イエス様を並べたのです。そして、「この二人、どちらを許してほしいのか」と問いかけた。
 しかし、ここで、ピラトが思ってもみなかったことが起こるのです。民衆は、叫ぶ、「その男(イエス)を殺せ。バラバを釈放しろ!」。
 ピラトは、ためらいながら、もう一度問いかける。二〇節。

 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。

 先月の第二週、婦人会とシャローム会が合同で、聖書の学びをいたしました。「合同」と言いましても、婦人会が続けてきた学びに、シャロームの方々も参加していただいた形をとったのですが、今年度、婦人会は、使徒信条を学んでいます。そして一月は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という箇所について、学びをしたのであります。
 その時にも申し上げました。使徒信条の中で、個人の名前が出てくるのは、イエス様を除けば、マリアとピラトだけです。そしてマリアは、イエス様を宿した母として登場するのですが、ピラトは、実に不名誉な仕方で登場する。「ポンテオ(「ポンテオ」というのは、「総督」という意味ですが、総督)ピラトのもとに、イエス様は苦しみをお受けになった」と。
 しかし、聖書を読んでみますと、少々、ピラトに同情をいたします。ピラトは、懸命にイエス様をかばっている。イエス様に罪がないことを見抜き、イエス様の無実を訴え、三回も、民衆を説得しようとしている。ですから、私たちの気持ちとしては、イエス様は、ピラトのもとで、苦しみをお受けになったのではなく、祭司長、律法学者、そして民衆のもとで、苦しみを受けた。そちらの方が、正確ではないか。つい、そう思ってしまうのです。しかし、使徒信条は語る、「主イエスは、ピラトのもとに、苦しみを受けられた」。
 ここには、様々な意味が込められています。一つは、「ピラトという実在した人物のもとで(つまり、実在した歴史の中で)、イエス様は苦しみをお受けになった」。つまり、イエス様は、天国で、十字架につかれたのではない。また、創作、ファンタジー、神話の中で、十字架についたのでもない。歴史の事実として、ピラトという実在した人物のもとで、苦しみを受け、十字架につけられた。神様は、この歴史(この世界)の中で、このようなことをなさった。教会は、そのような信仰に基づいて、告白してきた。
 そして、もう一つ。教会は歴史の中で、このピラトの姿の中に、「無責任の罪」も、見てきたのです。
 
 ピラトは、ローマ帝国から、ユダヤの全権をゆだねらていました。ですから、本当のことを言えば、ピラトは、ローマ皇帝の名のもとで、イエス様の処分を自由に決めてもよかったのです。そして、「この男には、罪がない」、そう判断したならば、自分の責任で、無罪放免にすることができた。しかし、ピラトは、その自分に与えられた責任(責務)を、最後まで果たさなかった。途中で、放棄する。なぜか。民衆が怖かったからです。人の声が、怖かったからです。ちなみに、二三節に、「(民衆は)あくまでも大声で要求し続けた」とありますが、元々は、「(民衆は)大きな声で要求を、押し迫った」という文章です。そして「押し迫る」という言葉には、「激しい嵐が襲う」という意味もある。まさに、ピラトに、嵐が押し寄せたのです。今にも嵐のような暴動が起き、その暴動を収められなければ、自分が責任を取らされる。自分の身が危ない。それを恐れて(人の声を恐れて)、ピラトは、大切な責任を放棄する。放棄して、無実の人、いな、罪がない神の子を、十字架に引き渡してしまったのであります。
 もちろん、教会は、ピラト一人に、その責任をなすりつけてきたのではありません。このピラトの姿の中に、自分たちの罪を見てきた。「わたしも、私たちも、無責任の罪を犯してきた。そして、今もなお、その罪を犯している」。私たちも、人の声を恐れます。人の声が、嵐のようになって襲ってくるのを恐れ、時に、責任を投げ出してしまう。言うべきことを言わず、なすべきことをしないで、無責任に逃げてしまう。私たちも、ピラトと同じ罪を犯してきた、また時に、犯してしまう。
 
 そしてこの無責任の罪は、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ民衆たちの中にも、見ることができるのです。
 民衆が、なぜ、「イエス様を十字架に」と叫び続けたのか、これは、考えれば考えるほど、よく分からないことなのです。この日は、金曜日。同じ週の日曜日に、イエス様は、エルサレムに入られました。そのとき、民衆は、こぞって、イエス様を歓迎したのです。ろばの子に乗って、エルサレムに入るイエス様を見て、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように」と言って、熱狂的に歓迎した。
 日曜日だけではない。イエス様は毎日、神殿で御言を説いた。そのときも、大勢の民衆たちが、イエス様の言葉に胸を打たれた。「『イエスを十字架に』と叫んでいる民衆は、イエス様を歓迎していた民衆とは、別の民衆だった。言ってみれば、エルサレムには、イエス様支持派と、そうでない人たちがいた」、そのように考える人もいるのですが、聖書には何も書いていないのです。聖書が記すのは、民衆が、イエス様を歓迎し、民衆が、イエス様を十字架につけた。ただそのことだけ。
 そして、ルカによる福音書にはその記述がありませんが、他の福音書によれば、祭司長たちが先回りをして、民衆たちを説得しています。その説得が功を奏したと、言おうと思えば、言えるのです。しかし、それだって、考えると、よく分からないのです。なぜ、民衆は、祭司長たちに、こうもあっさり説得されてしまったのか。あれだけ、イエス様を支持ていたのに、こんなに簡単に裏切ってしまったのか。分からない。考えれば、考えるほど、分からない。しかし、この分からないところが、私たちの持つ「罪」の恐ろしさなのでありましょう。そして、この変わり身の早さ、豹変する民衆、やっぱり、それも、「無責任の罪」だと言える。
 「十字架につけろ」と叫ぶ民衆。一人一人は、大勢の中に隠れているのです。一見、正義の叫び声を上げているように見えたとしても、それは人を殺す正義。正義に酔いしれ、どこか、残虐さを楽しんでいる。「十字架につけろ、十字架につけろ」。その叫び声の先に、何が待っているのか。その結果、何が起こるのか。そのようなことは考えもせず、またそのようなことは、「自分たちの知ったことではない」と考え、無責任に叫び続ける。そしてここにも、私たちは、自分の罪を見るのです。
 例えば、私たちは、日常生活の中で、無責任な言葉を、いかに多く口していることか。無責任に人を批判し、特に、組織や、指導者の悪口を、無責任に口にする。「あいつが、悪い。あの連中は、死に値する」、そう叫んで、少しでもその声を、誰かが支持してくれると、さらに声を大きくする。そしてそれが、三人、四人と賛同が得られると、なお気分が良くなり、まるで、自分が、「神様」にでもなかったかのように、審きを始める。(神様と大きく違うのは、全く愛のない審き。「十字架につけろ」という、冷たい、残虐な審き。)そのように、自分たちが、神様になり代わる罪、その罪が、イエス様を十字架につけていったのであります。
 
 ただ、今日の聖書の箇所。ルカによる福音書は、ただただ、人間の罪の姿を描いているだけではありません。ここに、イエス様がおられるのです。そしてこの時、「イエス様は、何をしてくださっていたのか」、それが、最も重要なのです。
 今日の箇所において、イエス様は、ただの一言も、お語りになっていません。また、されるがまま、おそらく、縄に縛られ、民衆の前にさらしものになっているだけです。ですから、一面では、「ここで、イエス様は何もなさっていない。何もできなかった」とも言える。しかし、本当に、イエス様は、何もしておられないのか。ただただ、ピラトと民衆の審きを、見ていただけなのか。
 そうではないのです。イエス様はここで、「最も貴いこと」をしてくださっていたのです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」、この歴史の中で、最も貴いみわざ、神の子であるイエス様にしかできない、神のみわざをしてくださっていた。それは、罪がないのに、罪人として裁かれる。そのようにして、私たちの罪を背負う。この時、イエス様の胸の中にあった祈りは、このような祈りであったに違いないのです。ルカによる福音書第二三章三四節。

 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 「何をしているのか、知らない。彼らは、何をしているのか、どんなに恐ろしい罪を犯しているのか、自分で分かっていない。その彼らを、お赦しください」。もちろん、「わたしに免じて」ということです。「父よ、あなたの御心どおり、わたしが、身代わりになります。わたしが、裁かれ、わたしが、十字架で血を流し、苦しみますので、そのわたしに免じて、彼らをお赦しください」。
 そして、民衆が、「その男(イエス)を殺し、バラバを釈放しろ」と言って叫んだとき、イエス様は心の中で、どう思われたのだろうか。イエス様は心の中で、「何をふざけたことを言っているのか。許されるのは、わたしの方で、バラバこそ、十字架にふさわしいではないか!」、(イエス様は、)そのように思われたのだろうか。そうではないはずです。イエス様は、民衆の叫び声を聞いて、「アーメン」と思われた。「アーメン、これぞ、父なる神の御心。神がなさろうとしていること。アーメン、その通り、バラバ、罪人は赦され、わたしは、十字架につく!」。民衆の叫び声に、イエス様は、心の中で大きく、「アーメン」と言われたのです。そして、十字架への道を、イエス様は踏み出して行かれる。
 ここに、私たちの罪が赦された道があります。ここに、神様が、私たちにしてくださった最大の出来事、愛があります。そして私たちも、このイエス様に従う。私たちも、このイエス様の道を進む。
 ピラト、そして民衆は、まことに無責任でありました。しかし、イエス様、イエス様だけは、救い主としての責任を、その責務を、最後まで果たしてくださった。「私たちの身代わりとなって、十字架を背負う」、そのことをしてくださったのです。
 私たちも、この道を進みます。私たちも、イエス様を見上げつつ、自分に与えられた責務を果たします。そして、無責任なことは言わない。無責任な発言にも、乗らない。そして時に、私たちに向かって、無責任な声が、嵐のように襲ってきても、言われもない悪口を言われたり、誹謗中傷を受けたりしても、私たちも、祈る、「父よ、彼らをお赦しください」。そのように祈りつつ、私たちも、イエス様と同じ道を進む。そして、言うのです。「神様、これが、あなたが与えてくださった道なのですね。これが、あなたがわたしに与えてくださった務めなのですね。なんと、光栄なことでしょう!」。私たちはそう言って、神様を見上げつつ、それぞれの責任を果たしていく。
 どうか、この一週間も、皆様がその責務を全うできる力を、神様が与えてくださいますように。そして、主イエス・キリストの愛する力、赦す力が、聖霊によって、皆様にも存分に与えられますように。主の御名によって、祈ります。
 
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