礼拝説教「いのちの補習授業」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第24章13~27節 

 
 
 先週は、イースター礼拝でした。コロナウイルスの流行によって、大変特殊な形での礼拝となりましたが、私たちは確かにイースターの礼拝を守りました。
 このようなことは、比べることではないと思っているのですが、私、実は、教会の暦の中でイースターが一番好きなのであります。イースターで歌う讃美歌。聖書が記すイースターの出来事。また牧師として、イースターの礼拝で御言を説く。それが、いつにも増して嬉しい。お祭りが好きな男の人を「お祭り男」。夏が好きな人のことを、「夏男・夏女」なんて言い方をしますが、私はイースターが好きな「イースター男」だと自分では思っています。「ずっと、イースターだったらいいのになぁ」なんて思ったりもするのであります。
 その点、今年のイースターは、とても寂しいものになりました。皆様と共に、ここで礼拝をお献げすることができない。一緒にイースターの讃美歌を歌うことができない。寂しく、物足りず、そして悔しかった。しかしそれだけに、先週の礼拝、イースターの讃美歌や御言が、いつも以上に胸に染みたのであります。
 私たちは、ルカによる福音書を、この礼拝で読み進めてきました。私が赴任してからですから、読み始めて、もう四年が経ちました。そして今ちょうど、イエス様のおよみがえりの出来事(イースターの出来事)を読んでいる。これはもう、「イースター男」の私にはたまらない。しかも今日は、私が愛してやまない『エマオ途上の出来事』、この箇所をご一緒に読んでいきたいと願うのであります。
 
 最初に申し上げておきますが、この箇所は、大変、豊かな箇所ですので、今週と、次回、二回に分けて、読みたいと思います。今日は、その前半、ルカによる福音書第二四章一三節から、読んでまいります。

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

 二人の弟子たちが登場します。二人のうち、一人の名前は分かっています。この先の一八節にあるとおり、「クレオパ」という人。ただ、このクレオパが、どのような人物であったのか。またクレオパと一緒に、この時エマオに向かった弟子は、誰であったのか。よく分かっていません。彼らが、十二弟子ではないことは、はっきりしているのですが、いつからイエス様に従っていたのか。イエス様に、どのぐらい近い弟子たちだったのか・・。ただ、このあとの彼らの言葉から分かることは、彼らは、「イエス様が、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれる」、そのような期待をかけていたようなのです。
 二人は今、エルサレムの門をくぐり、町の外へ出ようとしています。二人は、一度立ち止まり、そして振り返って、恨めしそうな目でエルサレムの門を見上げる。二人は思い出す。この門をくぐり、イエス様がエルサレムにお入りになったのは、ちょうど一週間前。人々は熱狂して、イエス様をお迎えした。「ダビデの子にホサナ。主の名によってこられる方、王に、祝福があるように!」。あの歓喜の歌声が、まだ耳の中に残っている。あのとき、クレオパたちの興奮も絶頂に達していた。「さあ、いよいよ、ローマからの解放が始まる!」と。
 しかし、あれから一週間、クレオパたちが期待した通りには、事は運ばなかった。イエス様は、革命を起こすどころか、あっさり祭司長たちに逮捕され、裁判にかけられる。そして事もあろうか、敵国の総督であるピラトのもとで十字架刑が決まっていく。クレオパたちは、エルサレムの門を見上げ、大きなため息をつく。そして(自分たちの故郷なのでしょう)エマオに向けて、肩を落として、とぼとぼと歩き始めるのであります。
 きっと、二人の間で、最初は沈黙が続いたのではないかと思います。しかし、しばらく進んだとき、どちらかが口を開く。「どうして、こうなってしまったのだろうか」。もう一人も語り出す。「いつ、どこで、間違えてしまったのだろうか」。そしてやがて、二人の間で議論が始まる。「私たちが間違えたのだろうか。ニセモノの救い主を本物の救い主だと思い込んでしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。あの方がなさったわざの数々。あの方がお語りになった力ある言葉。あの方こそ、まことの預言者、まことの王、私たちの確信に間違いはなかったはず。ならば、なぜ、このようなことになってしまったのか」。二人は議論をする。どこにぶつけていいのか分からない嘆きを、またどこに向けていいのか分からない怒りを、彼らは互いに口にする。
 するとそこへ、うしろからイエス様が来てくださったのです。そして二人と一緒に歩いてくださる。しかし、ここがおもしろい! 二人は、それが、イエス様だと気がつかなかったのです。
 イエス様の方から、二人に声を掛けます。一七節。

 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

 このクレオパの言葉の中には、怒りの気持ちも垣間見えます。「あなたも、エルサレムから来たのではないのか。それなのに、この数日、エルサレムで起こったことを知らないのか。いや、知らないはずはないだろう!」、そのような強い語調で、腹立ち紛れに答えている。そしてこのあと、クレオパたちは、エルサレムで起こったこと、イエス様のことを説明していくのですが、ここが、最高におもしろい!、彼らは、イエス様に向かって、イエス様のことを語っているのです。
 
 先週私たちは、このルカによる福音書第二四章一節からの箇所を読みました。そして私、「ここは、本当にユーモアに満ちている」と、説教の中で語った。イエス様はすでにおよみがえりになっているのに、死者に塗るための香油を持って、お墓へと行く女性たち。生きておられる方を死者の中に捜す女性たち。なんてユーモラスなのか、滑稽な姿なのか。そのように語った。そして今日の箇所も同じなのです。このクレオパたちの姿も、実にユーモラス(もちろん、当人たちは極めて真剣なのですが、実に滑稽)、彼らは、イエス様に向かって、「あなた、イエス様を知らないのか」と問うているのです。
 「釈迦に説法」という言葉があります。その道にたけた人に向かって、その道のことを偉そうに教えようとする。でも、クレオパたちの場合、「釈迦に説法」どころではない。イエス様に向かってイエス様のことを語る。「あなた、イエス様を知らないの?」と。
 きっとクレオパも、あとですべてが分かったとき、赤面したと思うのです。「もう、『穴があったら入りたい』とは、このこと。自分は、イエス様に向かって、なんてことを言ってしまったのか」。でも、クレオパは、顔を真っ赤にしながらも、このことを喜んで、みんなに語り伝えたに違いない。復活の証人として、喜んで自分の恥をさらしたに違いない。だから、「クレオパ」という名前が聖書に残っている。しかしそれはのちの話で、この時のクレオパは、真剣にイエス様に向かって、イエス様のことを語るのです。それが、一九節から。

 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

 これは、言ってみれば、クレオパたちの信仰告白です。この時点で、彼らが、何を信じ、何に望みをかけていたのかが、分かる。そして彼らは、イスラエルの解放、それを成し遂げてくれる救い主を、待ち望んでいた。言ってみれば、「政治的、軍事的指導者」を、イエス様に期待していたのです。
 このクレオパたちの信仰告白を聴いて、私たちが、批判を加えるのは、簡単なことであります。「彼らは、なんて、『この世的な救い主』を待ち望んでいたのか。イエス様が、実際になしてくださった救いに比べて、なんて小さな世界。しかも、『自分たちの民族の解放』という、なんと狭い救いを求めていたのか」。そのような批判を加えるのは、それほど難しいことではない。しかしここで立ち止まって、私たちは、自分のことも考えてみなければいけない。「わたしは、どうだろうか。わたしはイエス様に、どのような望みをかけているのだろうか。そしてその望みは、この世的なものではないのか」。自分の利益のための救い主、この世の安泰を約束してくれる救い主。そしてもっと突き詰めると、自分を満足させる、自分の願望を叶えてくれる救い主。そして、そのような救い主の最大の特徴は・・、(この世がすべてですから、当然)「死」という限界を持っているのです。
 クレオパたちは、なぜ、失意の中にいたのか。イエス様が、死んでしまわれたからです。そして、「死んだら、すべてが終わり」、「死んでしまったら、意味がないし、価値がない」と思っていた。クレオパたちは、「死がすべて」であることを信じていたのです。奇妙なことなのです。そして、滑稽なことなのです。イエス様の弟子でありながら、イエス様よりも、「死」の方が偉大だと思っていた。全く疑うことなく、「死」を信じていた。(このあと、クレオパたちは、イエス様の遺体がお墓から消えた話もするのですが、復活には、平気で首をかしげるのに、「死」を疑うことは、まるでしない。)
 しかし、そのクレオパたちに、およみがえりとなったイエス様が、聖書を説いてくださるのです。二五節です。

 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 イエス様の講義です。言ってみれば、特別講習、特別授業でありましょう。モーセとすべての預言者から始めて・・。当時、「創世記はモーセが書いた」とされていましたので、つまりこれは、「旧約聖書の一頁目から始めて」という意味です。イエス様がクレオパたちに、聖書の一頁目から始めて、丁寧に説いていってくださった。
 もうなんて、贅沢な講義なのだろう、と思います。「エルサレムからエマオまでは、六〇スタディオン」と書かれています。これは、私たちで言うところの約一一キロです。教会からですと、奈良公園、もう少し先まで行った距離。その道中、イエス様が聖書を説き続けてくださったのです。(一一キロですから、)移動にそれなりの時間はかかったのでしょうが、きっと、それも、あっという間だったに違いない。「もう着いてしまったのか」と思えるほど、短く感じたに違いない。それほどまでに、引き込まれ、心が燃える講義をイエス様は二人にしてくださった。彼らはあとでこう言って、この時のことを振り返る。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
 
 なんとも、うらやましい。また、なんて贅沢な体験。しかし・・、私たちも、同じ体験をしているのです。
 イエス様は、私たちにも追いついてくださるのです。そして私たちとも、一緒に歩いてくださる。そして私たちにも、特別講習、特別授業、繰り返し、聖書を説いてくださる。私、冒頭で、「ずっと、イースターだったらいいのに」と言った。でも実は実際、ずっと、イースターなのです。イエス様はおよみがえりになって、今も、私たちと一緒に歩いてくださっているからです。今も、イエス様が私たちに、聖書を説き続けてくださっているからです。ずっと、イースター。私たちも、実に贅沢な体験をさせていただいているのです。
 そして私、思うのです。クレオパたちは、この時初めて、イエス様から聖書の説き明かしを聴いたのだろうか。もちろん、これだけ近くで、ほぼマンツーマンで、聖書を説いてもらったのは、この時が初めてだったのかも知れない。しかし、おそらく彼らは、これまで何度も、イエス様が聖書を説く、その場面に居合わせていたはずなのです。十二弟子たちと一緒に、あるときは、道を歩きながら、あるときは、神殿の庭で、イエス様の講義を、彼らも、繰り返し聞いていた。そしてそこでもイエス様は、「メシアは、苦しみを受け、栄光に入る」ということをお語りになっていたはずなのです。しかし、彼らは、分かっていなかった。イエス様に怒られてしまった通り、「物分かりが悪く、心が鈍かった」。
 そうなってくると、このエマオ途上の出来事は、イエス様による「補習授業」だとも言えるのであります。「あなたがたが、分からないのならば、わたしが、分かるまで教えよう!」。イエス様は、そう言って、二人のために「補習授業」をしてくださった。
これも、私たちと同じかも知れない。私たちも、繰り返し、救いを見失う。自分の利益、自分の満足、自分の願望を優先し、それが叶わないと言って、失望し、悲しみ、時に腹さえ立てる。その私たちに、イエス様は、何度も「補習授業」をしてくださる。私たちに追いついて、また私たちの中に割って入って、聖書を説き直してくださる。
 「補習」って、本来、嫌なものです。本当は有り難いものなのですが、学生にしてみると、夏休みが始まっているのに、成績が悪かった自分たちだけ、勉強しなければならない。しかし、イエス様の補習授業は違います。イエス様の補習授業は、「いのち」のための授業だからです。私たちが、「救い」、「いのち」から逸れる。道を外れ、神様から離れようとする。その私たちを引き戻すために、イエス様は何度でも、聖書を説いてくださる。そして、その授業は・・、「イエス様は、どのような救い主であるのか」という一点にしぼられた「集中講義」なのです。

 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。

 「イエス様が、十字架という苦しみを受け、栄光に入る」。ここに、神様がなしてくださる「救い」があるのです。私たちの利益や願望を超えた、「神の救い」、「神の国」、そして神様が私たちに与えてくださる「いのち」がある。「イエス様が十字架に。また、三日目に死人のうちからよみがえり」、このことがなければ、私たちは、罪と死の中で、ため息をつき続けるしかなかった。自分の願望が、満たされた・満たされない、それがすべてになっていた。しかし、それを越える「救い」を、神様がイエス様を通し、成し遂げてくださったのです。そして、その救いへと(いのちへと)、私たちを導くために、イエス様は、何度でも補習授業をしてくださる。心燃える、時間も忘れ、長い距離を歩く、肉体の疲れさえ忘れさせる授業を、イエス様はしてくださる。そしてこれも、私たちがよく知るところなのであります。私たちが、その信仰生活の中で、何度も体験してきていることなのであります。
 
 二八節以降は、また次回、心に留めます。でも、最後に、二八節、二九節だけは読みます。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

 「一緒にお泊まりください」。二人は、夜になるので、イエス様を引き留めました。しかし私たちは、「彼らがイエス様を引き留めた理由が、もう一つある」ということをよく知っています。それは、二人は、もっともっと、イエス様による聖書の説き明かしを聴きたかったのです。食事をしながらでも、また、一晩中でも、イエス様の話を聴いていたかったのです。彼らの気持ちはよく分かる。なぜなら、私たちが、そうだからです。特に今の私たちが、そうだからです。
 今日、インターネットを通して、礼拝を守っている皆様。今日、『説教のプリント』を読むことによって、礼拝をしている方々。これまで通り、礼拝堂に来て、御言を聴く。それに比べると、「はるかに物足りない」と思っておられることでしょう。「いのちの充足」を、存分に味わえない。そう思っておられることでしょう。旧約聖書の詩人も、このように歌いました。

 「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」(詩編第四二編)

 私は、祈ります。また、皆様も祈ってほしい。「主よ、一緒にお泊まりください。主よ、みなさまの自宅に、一緒にお泊まりください。そして、主よ、あなたがとどまって、一人一人に、『いのち』をお与えください」。
 私は、祈りつつも、同時に確信もしています。「イエス様は、皆様と共におられる。このような特殊な形であっても、御言をもって、聖霊をもって、今日も、いのちを与えてくださる」。
 復活の主は、生きておられます。主は、あなたと、共におられます。
 
 
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