2018年6月メッセージ
礼拝説教「迎え入れてもらうために」 牧師 鷹澤 匠
ルカによる福音書 第16章1~13節
聖書には、イエス様がなさった譬え話が多く記されています。特に、今私たちが読み進めているルカによる福音書、この福音書には、多く、譬え話が登場するのですが、その数ある譬え話の中で、おそらく、今日、私たちが読む譬え話が、一番、読む人を戸惑わせる、「なんだろう、これは?」と思わせる、そのようなものではないか、と思うのであります。
私かつて、FEBCというキリスト教ラジオ放送の番組を担当したことがありました。『聖書、読んで、立ち止まる』という番組名で、一年間、番組を担当したのですが、そこでも、今日の譬え話を語ったことがありました。そのとき、このような題をつけました。
「なんだこりゃ、不正な管理人のたとえ」
ラジオ番組ですので、説教題では、なかなか使わない言葉を、思い切って使わせてもらったのですが、私が初めてここを読んだのは、おそらく、高校生ぐらいの時だったと思います。そのとき、正直、「なんだこりゃ」と思った。イエス様は一体、何をお語りになりたいのか。また、そもそも、こんな話が聖書に載っていていいのか、「なんだこりゃ」と思ったのであります。
今日は、そのような譬え話をご一緒に読んでいきたいと願います。
ルカによる福音書第一六章一節から。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
今日の主役は、管理人です。雇われた管理人でありまして、優秀だったのでしょう、主人の財産をすべて任され、その運用を一手に担っていた人がいたのです。しかし、その彼が、無駄使いしているという告げ口があった。
これは、「財産を、正しく運用し、その結果、損失を出していた」というのではありません。この管理人は、明らかに、主人の財産に手をつけたのです。主人の財産を、自分のために使い、自分の楽しみのために無駄使いしていた。今で言えば、「会社のお金を着服していた」、「業務上横領の罪を犯していた」のです。そのことが、主人の耳に入る。当然、主人は怒ります。管理人を呼びつけ、『お前について聞いていることがある。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』そう言ったのであります。
そうしましたら、この管理人は、このような行動に出るのです。三節。
管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
ここが、おもしろいところなのですが、この管理人は、主人から、解雇宣告を受けたとき、素直に、主人に謝罪しなかったのです。「ご主人様、すいません。もういたしません! だから、クビだけは勘弁してください」、そうとは言わなかった。もしかしたら、横領してきた額が大きく、もう、謝っても許してもらえないような額だったのかも知れません。この管理人は、「自分は、これで仕事が無くなる。この先どうしよう」と考えたのです。そこで、こういう行動に出る。四節。
そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
これは何をしているのか、と申しますと、この管理人は、完全に解雇されるまで、少し時間が与えられた(猶予期間があった)のです。会計の報告を出しなさい。言ってみれば、「引き継ぎのために、帳簿をまとめる時間」が与えられたのです。しかし、この管理人は、その時間を利用して、自分が次に雇ってもらう先を捜す、そのための画策をするのです。この管理人は、主人に借金をしている人たちを、それぞれ呼び出し、こう問うのです。『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』(これは、今で言うと、二千三百リットルだそうです。当時、油は高級品ですから、相当の量、相当の額です)。しかしこの管理人は、(主人の断りなしに、)この借りを、「五〇バトス」、半分にしてあげる。「小麦一〇〇コロス」(今で言う二万三千リットル)、これも、勝手に、八〇コロスにまけてあげる。このようにして、「貸し」を作る、恩を売っていく。しかも、おもしろいのは、この管理人は、わざわざ最初に、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と聞くのです。これは本当は、聞く必要がないのです。ちゃんと証文に書いてある。でも、わざわざ聞いて、「あなたは、こんなに借金がある。それを、わたしの裁量で、まけてやるんだぞ」、そう念を押す。そして、「この恩を、忘れるな」と言って、自分が解雇されたあと、どこかで雇ってもらえるように、画策をするのであります。
もちろん、この管理人が取った行動は、すべて、不正です。いくら管理人だからと言って、主人が貸しているものを、勝手に免除してはいけない。しかも彼は、実質、もう、解任されているわけですから、なおさら、そんな権限はない。しかし彼は、自分の再就職先を確保するために、このような知恵を働かせた。そして主人に、さらなる損害をもたらしたのです。
「なんだこりゃ」と思います。「こんな犯罪行為を、なぜ、イエス様はお語りになったのか」、そうも思います。しかし、(もっと、「なんだこりゃ」と思うのは、このあとなのです)八節。
主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。
「主人はこのことを知って、怒って、彼を、警察に引き渡した」というのではないのです。「彼のやり方をほめた」(もちろん、「ほめた」からと言って、彼を許し、彼を、もう一度、管理人として雇ったとまでは書いてないのですが、)この「ほめる」という言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、「賛美する」という言葉。主人は、彼のやり方を賛美した、「すばらしい!」と言った。私たちは戸惑う、「一体、これは何だろうか」。
私が、奈良に来る前の年ですが、東海教区の青年修養会、その講師に招かれたことがありました。長野、山梨、静岡の青年たちが一堂に集まりまして、聖書の学びをする。そこに、講師として来ていただけないか、と言われたのです。
その修養会、青年たちから、あらかじめ、リクエストがありました。それは、「この『不正な管理人の譬え話』を、みんなで読みたい」というものだったのです。青年たちは、このような言い方をしました。「聖書を読んでいって、一番、スッキリしない箇所がある。それが、この譬え話。だから、ここをみんなで読んで、スッキリしたい! 私たちが、スッキリするように、不正な管理人の譬え話を語ってください」。
私、それを聴きまして、「聖書を読んで、モヤモヤするのも、大事ですよ」と答えたのですが、「是非」と言われて、山中湖の宿泊施設まで出掛けて行きました。泊まりがけの修養会でしたので、時間は、たっぷりありました。そして、グループに分かれて、じっくり読んでいただいた。そしてその時、私が、まずお願いしたのが、「前の章との『つながり』を見つけてほしい」というものであったのです。
この一つ前の章、第一五章には、三つの譬え話が出てきます。「見失った羊の譬え」、「無くした銀貨の譬え」、そして「放蕩息子の譬え」。そして実は、この管理人の譬え話は、それら三つの譬え話の続きなのです。第一六章一節に、こう記されている。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。
先の第一五章は、イエス様が、(直接は)ファリサイ派、そして律法学者たちに語られたものでした。(イエス様は、罪人たちと一緒に食事をしておられた。それを見たファリサイ派の人たちが、「なんで、あんな連中と食事をするのか」と不平を言った。それに対してイエス様は、三つの譬え話をなさった。そしてこの第一六章に入ってきて、イエス様は、今度は、弟子たちにも、この管理人の譬え話をなさる。)
こういう光景を、想像してもいいのです。イエス様は、ファリサイ派の人たちに、あの三つの譬え話をなさった。それを弟子たちは、イエス様の横か、うしろで聞いていた。そしてきっと、「そうだ、そうだ」と心の中で思っていたのです。「そうだ、そうだ、ファリサイ派の人たちよ、これは、あなたがたが、聴くべき言葉だ。しっかり胸に刻みなさい」、そういう思いで聞いていた。また、イエス様が、見事に、ファリサイ派の人たちの罪を指摘なさるので、胸がすく思いで、聞いていた。しかしここで、イエス様が、振り返られたのです。弟子たちの心を見透かすようにして、「わたしの弟子たちよ。あなたがたにも、同じことが言えるのだ」、そう言って、この管理人の譬え話をしてくださった。つまり、この管理人の譬え話は、先の三つの譬え話の続きで、内容としても、つながっている。ならば、そのつながりとは、何か?
青年たちは、ちゃんと見つけてくれました。それは、「失われる」ということなのです。
「見失った羊の譬」、一〇〇匹いた羊のうち、一匹が失われました。「無くした銀貨の譬え」、一〇枚あった銀貨のうち、一枚が失われた。そして、「放蕩息子の譬え」、兄弟のうち、弟息子が父のもとから失われた。そして、この「不正な管理人の譬え」、この管理人も、今、主人のもとから、失われそうになっているのです。(もちろん、彼の場合は、自分が悪い、身から出た錆なのですが、今、失われそうになっていることには、なんら変わりがない。)そして同時に、みな、「失われたものが、見つかる」。(失われたものの側からすると)「見つけてもらう、その喜び」が、それぞれ語られているのです。
こう言い換えてもいいのです。この管理人は、何に、必死になっていたのだろうか。それは、「自分を見つけてもらう、自分を受け入れてもらう」ことです。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。この管理人は、そう言って、自分を迎え入れてもらうために、必死に知恵を働かせ、またその行動に出る。主人は、それを評価する。褒めて、賛美する。そしてイエス様は、言われるのです。「わたしの弟子たちよ。あなたがたも、自分が失われる、その怖さが分かっているか。そして、自分が受け入れてもらう(迎え入れてもらう)、そのために、この管理人のように、必死になっているか」。
八節の後半で、イエス様は、このようなこともお語りになります。
この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
ここで言う「光の子ら」というのは、弟子たちのことです、また私たちのことです。それに対して、「この世の子ら」というのは、「神様を無視し、この世のことを『すべて』として生きている人」のことを指しています。(もちろん、イエス様は、そのような人たちを神様に導きたい、と願っておられるのですが、しかしここでは、)「この世の子ら」と「光の子ら」を比べて、「この世の子らのほうが、かえって、『自分が失われる』怖さを知っているではないか。そして、『自分を、迎え入れてもらう』ために、必死になっているではないか。光の子ら、わたしの弟子たちよ、あなたがたは、どうなのか。あなたがたも、『自分を、迎え入れてもらう』ために、どれだけ、必死になっているか」。そして、(ここが肝心なのですが)、光の子ら(私たちの場合)、迎え入れてもらう先は、「永遠の住まい」なのです。九節。
あなたがたは、永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
「永遠の住まい」、神様のもとに、受け入れていただくために、私たちは、必死になる。イエス様は、そのことを求めておられる。
どうだろうか、と思います。私たちが案外、気にするのは、「自分が、どれだけ、イエス様を受け入れているか」ということです。「自分は、こんなに、イエス様を受け入れている。自分は、ちゃんとイエス様を迎え入れている」、そのことで、何か安心し、また逆に、「まだまだ、自分にはそれが足りない」、そう言って、不安になる。もちろん、それも、信仰の大事な一面なのですが、もっと大事なのは、「神様が、私たちを、受け入れてくださるかどうか」なのです。神様が、私たちを、受け入れてくださる、迎え入れてくださる。そうでなければ、私たちは失われてしまう、永遠に失われてしまう。だから、迎え入れていただけるように、私たちも、この管理人のように、知恵を尽くす、持てる力をすべて使って、必死になる。
じゃあ、具体的に、何をすればいいのか。何に、必死になればいいのか。
先の章の、三つめの譬え話、放蕩息子の譬え話。あの譬え話と、この管理人の譬え話には、実は、もう一つ、共通点があります。それは、何か、と申しますと、「財産」なのです。父親から、財産を分けてもらい、遠い地で、それを全部、使い果たしてしまった弟息子。そして、「わたしには、ちっとも分け前がない」と不平を言った兄息子。(その兄息子に、父親は、「わたしのものは、全部おまえのものだ」と言ってくれる。)そしてこの不正な管理人も、主人の財産に手をつけ、そして自分が生き延びるために、やっぱり主人の財産を利用する。それぞれ違いはありますがみな、「財産」と関わっているのです。(しかも、みんな、父親や主人の財産ですから、自分のものではない財産)。そしてその財産を、自分が、迎え入れてもらうために使った管理人が、褒められているのです。
言ってみれば、イエス様はここで、「財産の使い道」の話をなさっているのです。ここで言う「財産」というのは、お金だけの話ではありません。譬え話の父親や主人は、明らかに、神様を表している。神様からいただける財産、それは、私たちの能力であったり、時間であったり、また健康であったりする。私たちは、たくさんの財産を、神様からいただき、その財産を用いて、毎日を生きている。それらを、何のために使うのか。弟息子のように、ただただ遊びで浪費するのか。また兄息子のように、たくさんの財産が与えられているのに、「自分には、何も与えてもらえない」と、すねるだけなのか。イエス様は言われる。「そうではない。この管理人のように、自分を、迎え入れてもらうために、永遠の住まい、神様に、迎え入れてもらうために、その財産を使いなさい」。
そして、どのような「使い道」が、永遠の住まいにつながるのか、と申しますと、イエス様は、九節で、こうお語りになる。
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。
ここも、少々びっくりするような言い回しですが、この「不正にまみれた富」というのは、富そのもの性質を語っています。つまり、「きれいな富」と「不正にまみれた富」という、二種類の富があるのではなく、「富というのは、どうしたって、不正にまみれてしまう。誘惑がつきまとい、私たちを、簡単に神様から引き離す」、イエス様はそのようなことを、おっしゃりたいのです。(富については、次回の説教で、もう一度、心に留めていきたい、と思っていますが)しかしだからと言って、イエス様は、「その富を、すべて手放しなさい」とは言われない。「富には、誘惑がつきものだから、それらを捨てて、隠遁生活を送りなさい」とも言われない。イエス様が求めておられることは、その「富」を用いるのです。不正にまみれた富で、友達を作りなさい。友達、隣人のために、それらを存分に使う。これも、お金だけの話ではありません。神様から与えられている富、自分の能力、自分の時間、そして自分の健康(体)を使って、隣人に尽くす、誰かを愛する。神様は言われる、「そのために、わたしは、多くの富を、あなたがたに任せているのだ。その富を、隣人のために存分に使いなさい」。
しかも、この九節、イエス様は、非常に不思議な言い方をなさっています。
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
富を使って友達を作り、その富が無くなったとき、その友達が、受け入れてくれる、というのではないのです。「貸し」を作っておけば、友達が、困ったとき、何とかしてくれる、そのような話ではない。隣人のために富を用いていく結果、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」、つまり、神様が、受け入れてくださるのです。
もし仮に、もし仮に、私たちが、隣人のために、富をすべて使い果たしたとしても(お金だけではなく、この時間も、健康も、誰かを愛するために、すべて使い尽くしたとしても)永遠の住まい(神様)が、あなたを迎え入れてくださる!
私たちは、私たちのために、すべてを使い尽くしてくださった方を知っています。ご自分の命までも、使い尽くし、それも、敵であった私たちのために使い尽くしてくださった、その方を知っている。いや、知っているどころか、私たちは、その方と結びつき、その方から、「愛に生きる力」までいただいているのです。
これこそ、「財産」でありましょう。私たちが、イエス様と結びつき、イエス様からいただける信仰、そして、イエス様からいただける愛。これこそ、私たちの財産。その「財産」を、私たちは用いる。友のために用いる。そのようにして、私たちも、永遠の住まいに迎え入れていただくのであります。
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2018年7月メッセージ
礼拝説教「ラザロと金持ち」 牧師 鷹澤 匠
ルカによる福音書 第16章19~31節
「名前に意味を込める」というのは、私たちの国のいい習慣だと思います。例えば、私の名前は、「たくみ」と言うのですが、私の名前は、讃美歌から取られました。イエス様は、大工ヨセフの家でお育ちになった。そのことを歌った讃美歌がありまして、「主は、まずしく低き、たくみとして(大工として)、若き日を過ごされた」、そこから、私の名前は取られたのであります。ですから、私の名前の意味は、言ってみれば、「大工」なのであります。
ただ、(これは、牧師になってから気がついたのですが)私たちが歌う讃美歌、「たくみ」という言葉が、別の意味でも出てくる。むしろ、そちらの方が多いのではないか、と思っているのですが、それは、どこかと申しますと、「あくまのたくみ」なのです。「主、ともにいませば、あくまのたくみ、などかはおそれん」(神様が共にいてくださるから、どんなに悪魔が巧妙で、たくみでも、私たちは負けない!」、そういう意味で、「たくみ」という言葉が出てくる。私は、つい、そのような部分が出てくると、「ごにょごにょ」と歌ってしまうのであります。
そのように、私たちの国では、名前に意味を込める。そして実は、聖書の世界も同じでありまして、おもしろいのですが、ヨーロッパで書かれた聖書の解説書を読んでいますと、時々、このような記述に出会うのです。
「聖書の世界では、名前に意味を込める。これは、今でも、東洋で、見られる習慣である」。
ヨーロッパでは、多くの人たちが、聖書の登場人物を、そのまま子どもの名前にします。もちろんそこにも、親の願いが込められているのでしょうが、私たちの国ほど、意味は多彩ではない。そこで、ヨーロッパの聖書の学者たちは、「名前に意味を込める」、そのような東洋の文化に驚きを持ちながら、「聖書も同じなのだ」と解説するのであります。
今日、私たちが読んでいくイエス様の譬え話。この譬え話にも、名前を持つ人が登場します。その名は、「ラザロ」。私たちは、今日、そのラザロの譬え話を、ご一緒に読んでいきたいと願うのであります。ルカによる福音書第一六章一九節から。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
イエス様は、二人の対照的な人を登場させます。一人は、「金持ち」、しかも、そんじょそこらの金持ちではなく、度を超えた金持ち。それを表す言葉が、「いつも紫の衣を着ていた」という言葉なのです。この「紫の衣」というのは、当時、最高級品だったそうです。地中海にいる「アッキガイ」という貝が出す分泌物で、布を染める。すると、非常に鮮やかな紫色になるそうです。しかし、(貝の分泌物ですので、)大変手間がかかるのです。そのため、紫色の布は、おもに王様に献上された。そしてそこから、「ロイヤル・パープル」という呼び名も生まれたそうであります。ちなみに、その布のために、アッキガイが乱獲され、取れなくなり、段々、紫色の布が作れなくなってしまった。そこから、似た色として、濃い青色が使われ、それが、「ロイヤル・ブルー」の始まりとなったそうです。ですから、そのぐらいの贅沢な服を、この金持ちは、いつも身に着けていた。そして毎日、豪華な食事をして、遊んで暮らしていた、というのです。
一方、その人の家の前に、いつも、横たわっていた人がいました。これが、「ラザロ」です。彼は、気の毒なことに、体中にできものができる病気を患っていて、犬が、そのできものをなめていました。この「犬」は、不衛生な野良犬のことでありまして、本来近寄らせてはいけない動物だったのですが、ラザロには、犬を追い払う力が残っていなかった。病気のため、動くことすら困難だったのであります。そしてそのラザロは、金持ちの食卓から落ちる食べ物で、腹を満たしたい、と思いながら、生きていた、というのであります。
そして、ラザロも、また金持ちも、やがてこの世の人生を終えていく。二二節。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
「アブラハム」というのは、イスラエルの始まりとなった人です。「イスラエルの民族の父」と言ってもいい。ラザロは、死んだあと、そのアブラハムのすぐそばに、連れて行ってもらった、というのです。そして、アブラハムのすぐそば、食卓の特等席に、ラザロは座らせていただく。
一方、金持ちは、陰府で苦しんでいた、炎の中で、もだえ苦しんでいたのです。つまり、二人の境遇は、ひっくり返ってしまった。そこで、金持ちは、天にいるアブラハムに向かって叫ぶのです。「父よ、わたしを憐れんでください。ラザロを遣わし、この舌を冷やしてください」。すると、アブラハムは答える。二五節。
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
私、昔、この譬え話を、紙芝居で見たことがあります。その紙芝居は、手作りでありまして、また上手に作ってあって、それだけに、なかなか怖い紙芝居でした。そしてその紙芝居、手が込んでいまして、裏から引っ張ると、登場人物が、ちょこちょこ動くのです。ラザロのできものをなめる犬や、炎の中で苦しむ金持ちが、ちょこちょこ動く。特に、陰府で苦しむ金持ちの姿が、なまなましくて、なんだか怖かったことを覚えています。私たちは思います。「この譬え話は、何だろうか。随分、怖い譬え話。子どもだったら、おびえてしまうような譬え話。イエス様は、この譬え話を通して、何をお語りになりたかったのだろうか」。
聖書を研究している学者たちは、この譬え話について、このようにコメントしています。「当時、イエス様がおられたイスラエル、また近くの他の地域でも、これとよく似た話が、たくさんあった。貧しい人と、金持ちがいて、その二人が死ぬと、立場が入れ替わる。貧しい人は、天で報われ、金持ちは、陰府で苦しむ」。学者たちは言うのです。「イエス様は、当時よくあった、そのような話を、題材とされた(つまり、人々が理解しやすいように、登場人物、また舞台設定を、そのまま使って、お語りになった。)」。
「なるほど」と思います。私たちもこの譬え話を読むとき、気をつけなければいけないのは、「これは、譬え話だ」ということであります。イエス様はここで、「私たちが、死んだら、どうなるか」という話をしておられるのではない。題材や舞台設定はそうなのかも知れませんが、イエス様は、この話を通し、「私たちの死後の世界」を描いみせてくださったのではない。あくまでも、これは、「譬え話」なのです。
そしてその上で、学者たちは、こう言うのです。「しかし、当時、よくある話と比べると、明らかな違いがある。当時よくある話は、『正しい人が、天国に行く。正しい人は、必ずいつか報われる』、そのような話だった。しかし、イエス様の譬え話には、それがない」。
確かに、そうなのです。なぜ、ラザロは、アブラハムのすぐそばに連れて行ってもらえたのか。「ラザロが、特別、信仰深かった」とか、また、「ラザロが、誰よりも、心が清い人だった」とは、言われていない。ラザロが、病気だったことは語られていますが、それ以上のことは、何も語られていないのです。ならば、なぜ、ラザロは、アブラハムのすぐそばへ連れて行ってもらえたのか。
そして、(これも、この譬え話の際立った特徴なのですが)イエス様は、この貧しい人に、名前をつけておられるのです。「彼の名は、ラザロ、アブラハムの胸のそばへ連れて行ってもらったのは、ラザロ!」。
お気づきでしょうか。イエス様は、多くの譬え話をなさいました。しかし、イエス様が、譬え話の登場人物に名前をつけておられるのは、このラザロだけなのです。善いサマリア人も、放蕩息子も、不正な管理人も、皆、非常に特徴的な人たちですが、だれ一人、名前を持っていない。そして、この譬え話に出てくる「金持ち」にも、名前はついていないのです。しかし、ラザロだけは、違う。ラザロだけは、名前を持った人物。そして、この「ラザロ」という名前には、ちゃんと意味がありまして、「ラザロ」、ヘブライ語では、「エレアザル」、その意味は、「神は、助ける」というものなのです。
「エレアザル、神は、助ける」のです。そして実際、、神様が、ラザロを助けてくださった。病で苦しみ、食べるものにさえ困り、そして、野良犬が来ても、動くことができなかったラザロ。そのラザロを、神様が、助けてくださった。神様が、助け、アブラハムのすぐそばに連れて行ってくださった。なぜ、ラザロが? その理由は、一つだけ、「神様が、助けてくださった」からなのです。
一方、金持ちは、どうだったのか。彼は、毎日のぜいたくな暮らしのゆえに、「神様の助け」が見えなかったのです。(ホントウは、彼も助けられていたのです。神様の助けなしてには、誰一人、生きられないのです。)しかし、この金持ちは、「神様の助け」を見ないで、生きた。また、求めずに生きた。そして死んだあと、陰府において初めて、彼は、神様の助けを、呼び求めているのです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」。
「神の助け」、まずは、このことを語っている譬え話なのです。
ラザロの譬え話。私の本棚を調べましたら、ここに関する本が、たくさん出てきました。聖書の解説書、教会で語られてきた説教、そしてまた神学者の考察。この譬え話が、いかに、教会の歴史の中で大事にされてきたか。そして教会が、この譬え話と真剣に向き合ってきたか、その証しだと思いました。そして多くの牧師や神学者たちは、ここから、「貧しい者への配慮」、そして、「貧しい者への支援」ということを、聴き取っていました。つまり、「私たちの家の門の前にも、ラザロはいるだろう」と語るのです。「私たちの家の門の前にも、ラザロはいるだろう。私たちの町の門の前にも、そして、私たちの国の門の前にも、たくさんのラザロがいる」。
そしてある説教者は、「この譬え話は、私たちへの警告だ」と言って、このように語るのです。
「主イエスの語られたこの物語は、けっして富んでいる者はすべて機械的に死後苦しみ、貧しい者も機械的に死後は楽ができるのだ、といおうとしているのではないのです。むしろ自分の生前の生き方が(富を所有していた自分が、その富をもってどういうふうに生きたかという生きざまが)問われて(いるのです。)」。そしてこう語る。
「(この金持ちは)ありあまる富を自分の生活を豊かにすることにばかり用いて、ほんの一部でさえも貧しい者のために使おうとはしませんでした。そういう生きざまについて彼は責任を問われるのです」。
この金持ち、アブラハムから、こう言われています。
「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に、良いものをもらっていた」。
彼が持っていた財産。それは、「もらっていたもの」なのです。誰から。神様からです。その意味で、神様は、彼も助けていた。毎日食事ができるように、着るものに不自由しないように、そして、生活ができるように、神様は、この金持ちも助け続けてくださった。しかし、この金持ちは、その助けを感じることなく、また、「その一部を、ラザロのために使おう」という思いは生まれなかった。
言い訳は、色々できるのです。「父アブラハムよ。そうは言っても、わたしは、あのラザロを、自分の家の前にいることを、許していたのです。ラザロを、追い払うことはせず、たまに、食卓から落ちるパンを、彼が食べることを許可していた。おかげで、彼は、食いつなげたではありませんか!」。それは、そうかも知れない。もしかしたら、私たちよりも、この金持ちの方が、心が広いのかも知れない。しかし、神が助けるラザロを、彼は、助けなかった。神が憐れむラザロを、彼は、憐れまなかった。彼自身、神様から、たくさん助けていただいていたのに、良いものを、有り余るほど、いただいていたのに、(ここでいう「良いもの」は、お金だけではありません。毎日遊んで暮らせるだけの健康、また時間も、彼には有り余っていた。健康や時間も、神様から与えられた「良いもの」であった)にもかかわらず、彼は、それを、自分を楽しませるためだけに、用い続けたのです。
この譬え話、もう「ひと展開」あります。金持ちは、アブラハムにこう言うのです。二七節。
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
ここも、おもしろいところなのですが、この金持ちは、どうも、六人兄弟だったようです。そしてまだ、自分を除いて、五人の兄弟が生きている。「だから、父アブラハムよ、お願いです。その兄弟たちが、自分と同じ場所に来ないように、ラザロを遣わし、その兄弟たちをさとしてほしい」。この金持ちは、そう頼むのです。すると、アブラハムは、
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
「モーセと預言者」というのは、旧約聖書のことです。アブラハムは、「旧約聖書があるではないか。神様の言葉、神様の掟、それを聴けば、おのずと、何をして生きればいいのか、それが分かるはずだ」と言う。しかし金持ちは、
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
金持ちは、神様の掟を否定しているのではないのですが、「彼らは、ただ聞くだけでは、生き方を変えないだろう」と言うのです。「現にわたしが、そうだった」ということでしょう。「わたしも、生前、神の掟を、何度も聴いた。けれども、それで心が動き、そこで生き方を変えようとは思わなかった。だから、ラザロを遣わしてほしい」、そう頼む。しかし、アブラハムは、
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
なんとなく、後味の悪い終わり方です。もう、すべてが手遅れ、この金持ちだけではなく、他の兄弟たちも、結局、救われない。そのような印象さえ受けてしまいます。確かに、この譬え話は、ここで終わります。ある意味、後味が悪いまま、終わる。しかし、「譬え話は、ここで終わっても、実際は違った」ということを、私たちはよく知っているのであります。まことの天の父なる神様が、イエス様を、死者の中から生き返らせてくださった。そして、私たちのもとへ、遣わしてくださった。
イエス様は、すべての富、すべての力を、父なる神様からいただいた神の御子です。「ロイヤル・パープル」、本来ならば、その紫の衣が最もふさわしいのは、イエス様だった。しかし、イエス様は、貧しく、低い者として生まれ、そして、ご自分の持っているものを、すべて、私たちのために、ささげてくださったのです。「ご自分の持っているもの」、最も貴い財産、そのお体、その命までをも、イエス様は、私たち、貧しい罪人たちのために、惜しげもなく、差し出してくださったのです。
モーセと預言者に耳を傾ける。本来、神様の言葉、神様の掟があれば、それで、充分だったのです。しかし、それでは変わらない、それを聞くだけでは、生き方を変えようとしない、それが、私たちの罪人だった。「良いもの」をもらえば、自分を楽しませることにしか使わない。門の前のラザロを、ただ横目で見て、いつのまにか、それを風景の一部にする。ラザロを見ても、ラザロの話を聞いても、心も動かないし、まして体は動かない。私たちは、そういう罪人。心が冷たく、心が冷え固まってしまった罪人。しかし、イエス様が来てくださり、私たちのためにすべてを差し出してくださり、そして、私たちの冷えた罪の心を、徐々に、徐々に溶かし始めてくださったのです。そして今日も、イエス様は、私たちのところに来て、御言によって、聖餐によって、私たちの心を溶かす。
イエス様は、私たちの心に、そして体に入ってきて、そしてこう言われる。「あなたも、愛に生きよ。わたしが、あなたを愛し助けたように、あなたも、だれかを愛し、だれかを助ける者になりなさい」。
金持ちは言いました。
「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。」
私たちが行うこと、また私たちができること、それは、「指先に水を浸し、一滴、助けを求めている人の舌の上に垂らす」、ただそれだけでありましょう。しかし、それだって、立派な「助け」なのです。「神様が助ける」、その一部を、私たちも、そこで、担わせていただいているのです。そして、その私たちの愛の一滴、一滴を、神様がやがて、大きな川としてくださる。そして大きな海としてくださる。私たちも、神様、そしてイエス様の愛の御国に生きるのであります。
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2018年10月メッセージ
礼拝説教「ムナの譬え話」 牧師 鷹澤 匠
ルカによる福音書 第19章11~27節
来週の月曜日、あるミッションスクールから頼まれまして、礼拝説教に出掛けてきます。これは、私にとっても思いがけない依頼でありまして、来週、宗教ウィークだそうです。そこで私だけではなく、日替わりで三人の牧師たちが聖書の話をする。私はそのトップバッターだそうです。
ただその依頼、なかなかハードでありまして、まず、「四〇分、説教をしてほしい」と言われました。私いつも、何分ぐらいでしょうか。意識したことはありませんが、おそらく四〇分はしていないと思います。それもその日、初めて会う高校生たちに、四〇分聖書の話をする。なかなか、大変だと思いました。そして、それに加えてこう頼まれました。「聞くところによると、先生は、カードゲームを作ったとのこと。そのカードゲームを作ったことも、話に入れてほしい」。すでにご存知の方もおられると思いますが、私、数年前、友人の牧師と二人で、聖書を題材に使ったカードゲームを作った。そしてそれを自らキリスト教系の出版社に持ち込んで、製品にしてもらったのです。どうも、そのゲームを通して私の名前を知ったようで、「ゲームの話も、説教の中でしてほしい」と言われたのです。いや、なかなか大変な依頼だなと思っておりましたら、さらにまた注文がつきまして、今年の宗教ウィーク、テーマが、イエス様の譬え話だそうなのです。「ですから、先生、四〇分の説教で、その中でゲームの話をしつつ、イエス様の譬え話を説いてください」。そのように言われたのであります。そして、あらかじめ、聖書の箇所を決めて、先方に伝えなければならない。そこで、ほとんど見通しが立っていないまま、マタイによる福音書の「タラントンの譬え話」を、私選んで伝えたのであります。
「タラントンの譬え話」。今日、私たちの礼拝の御言、「ムナの譬え話」と非常によく似ています。主人が旅に出ることになった。その際、しもべたちを呼んで、自分の財産を託す。そして主人の留守中、しもべたちが、どのような行動をとったか、そして主人が帰ってきてから、主人がそれをどう評価したか。タラントンの譬え話も、ムナの譬え話も、そのようなあらすじなのであります。
しかし、私、今回、ミッションスクールの説教の準備と、今日の礼拝の説教の準備を並行して進めていくうちに、この二つの譬え話、設定は同じでも、中身は大分違うということに気がつきました。私は最初、「イエス様がなさった譬え話を、マタイとルカが、それぞれ違った視点で捉えたのかな」と思っていたのですが、どうもそうではない。イエス様が同じ設定で、別々の譬え話を語ってくださった、そのように考えてもいい2つの譬え話だと思いました。
今日は、ムナの譬え話を、ご一緒に読んでみたいと願います。ルカによる福音書第一九章一一節からです。
人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
これは、当時よくあったケースが、モデルになっているようです。ある立派な家柄の人、いわゆるその土地の名士が、王の位を受けるために、遠い国へ旅立っていく。ユダヤならばユダヤの名士が、ローマまで行って、ローマ皇帝にその位をいただく。しかしその旅は、時間がかかるものだったそうです。ローマまで往復するのも何日もかかりますし、ローマに着いからも、すぐに皇帝に会えるとは限らなかった。何日も(場合によっては、何ヶ月、何年も)ローマで待たされた。そのため主人は、しもべたちにお金を渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言ったのです。ただ、ムナの譬え話では、一〇人に一〇ムナ、つまり、一人、一ムナずつ渡して、主人は旅に出る。
ここが、マタイのタラントンの譬え話と違うところです。マタイでは、しもべたちの能力に応じて、違う額を主人が渡すのです。「ある者は、五タラントン、ある者は、二タラントン、ある者は、一タラントン」。しかし、ルカでは、全員一ムナ。また、ムナとタラントン、お金の額も違いまして、一タラントンは、今で言う五千万円ぐらいだと言われています。非常に高額です。それに比べて、一ムナは、せいぜい一〇〇万円ぐらい。それだけのお金を主人はしもべたちに託していく。そして、一四節。
しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
ここも、マタイにはない部分です。ルカでは、不穏な動きも起こる。この名士を憎んでいた人たちがいた。その人たちが、使者を送り、「この人を王様にしないでほしい」という嘆願を出す。しかし主人は、無事、王の位を受けて帰ってくるのです。一五節。
さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
このように、主人は、それぞれ儲けを出したしもべたちを褒める。しかし、二〇節。
また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
ここに出てくる「布」というのは、首に巻く布、今で言えば、スカーフだそうです。ただ、当時のスカーフは、私たちが想像する今のスカーフよりも、厚手の布で、おしゃれと言うよりも、日焼けから身を守るために、使っていたそうです。このしもべは、主人のムナを、その布に包んで、取っておいた。すると、主人は、烈火のごとく怒るのです。
主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
この譬え話は、何だろうか。イエス様は、この譬えを通して、私たちに何をお語りになっているのだろうか。
この旅に出る主人、この主人は明らかに、イエス様を指しています。そしてしもべたちは、弟子たち、教会、つまり私たちです。一一節で、「エルサレムに近づいておられ」とあるように、この時弟子たちの中では、「イエス様がすぐにでも王様になる」という期待が高まっていました。確かに、イエス様は、王様であり、また神様から王の位をお受けになるのですが、しかし、それは、このとき弟子たちが期待していた形とは違う。弟子たちは、「イエス様がエルサレムに入り、すぐにでも、ローマ軍を追い払い、王になってくださる」と期待していた。しかしイエス様は、十字架におかかりになる。そして、およみがえりの命となり、天に昇り、やがて再び世に来てくださる。しかしそれは、「今すぐ」というわけではないのです。ちょうど、譬え話の主人が旅に出て、しばらく帰ってこないように、弟子たちも待たなければいけない。しかしその待っている弟子たちに、つまり私たちに、イエス様は、ムナを託してくださったのです。ならば、そのムナとは何か?
調べていて、おもしろいと思ったのですが、マタイのタラントンの譬え話から、誰もがよく知る一つの言葉が生まれました。それは、「タレント」という言葉です。私たちがよく使うのは、「テレビタレント」という言葉ではないかと思いますが、辞書を引くと、「才能」という意味が出てきます。そしてこの「才能、タレント」という言葉は、イエス様の譬え話がはじまりだったのであります。
「タラントン」というのは、ただのお金の単位です。しかし、あの譬え話を人々が解釈した。「あそこに出てくるタラントン、それは、才能を意味する。イエス様は、それぞれが、自分に与えられた才能を用いることを求めておられる」、人々はそのように、あの譬え話を読み、その解釈が、そのまま、「タレント」という言葉になったそうであります。(聖書の言葉が、そのまま一般的な言葉になった例は幾つもありますが、タレントの場合、聖書の解釈が言葉になった。とてもユニークな例ではないかと思うのであります。)
しかし、タラントンまたはムナを、必ずしも、「才能」と考える必要はないのです。特にムナの譬え話では、みな平等に一ムナずつ与えられているわけですから、イエス様は、才能の話をしているのではない。ならば、ますます、「ムナとは、なんだろう」ということになる。
そこで、教会はこう考えてきた。「ここで、語られているムナは、聖書の言葉、御言のことではないか。イエス様は、弟子たち(教会)に、御言を託された。そして、『それを使って商売をする』というのは、御言を宣べ伝えること。イエス様は、教会が御言を宣べ伝えることを望んでおられる」。
なるほどと思います。確かに、教会が持っているもの、それは、聖書の言葉、御言であります。それこそが、教会の宝であり、財産。私たちは、その財産を、布に包んで、後生大事にしまっておくのではなく、その言葉を伝える。外に出て行って、宣べ伝える、それが、しもべたち、教会に託された使命。
私が最初に赴任した静岡の教会に、Fさんという七〇代のご婦人がおられました。私が赴任する前、その教会には牧師がおらず、そのFさんが、教会の扉を開け、お掃除をし、近隣の教会の牧師たちに助けてもらいながら、礼拝を守っていました。しかし、礼拝の出席が、三人、四人となり、近隣の教会の牧師たちは、「もう限界ではないか。近くの教会と一緒になったら、どうか。(「近い」と言っても、バスで、一時間かかるのですが)それでも、教会を一度、閉めたら、どうだろうか」。そのような話が出たそうです。しかし、Fさんは、一人、反対をされた。そして、牧師たちにこう言っておられたそうです。「この教会を閉じてはいけません。ここを閉じたら、この地域に住む人たちは、神様の言葉を聴くその機会すら失ってしまうのです。この地域で、まことの神の言葉を聴くことができるのは、ここだけなのです」。
その言葉に、牧師たちも胸を打たれた。そして、神学校に牧師を依頼し、赴任したのが、私だったのであります。
ただ、残念なことに、私、そのFさんとはお会いすることはできませんでした。私が赴任する二ヶ月前に、Fさんは、急性のガンでお亡くなりになった。けれども、私、直接、Fさんとはお会いできませんでしたが、残された教会の方々の中に、Fさんの祈りは引き継がれていました。「まことの神の言葉を聴くことができるのは、ここだけ」。その祈りのもと、私も含めて、その町に御言を伝え続けたのです。
私、主人が、しもべたちにムナを託したというのは、こういうことではないかと思うのです。教会は、イエス様から御言という財産を託された。その財産を託されたのは、教会だけ。そして教会はその財産を用いていく。布に包んで、しまっておくのではなく、外へ行って、それを伝える。そのとき、その財産は、何倍にも膨れあがるのです。
実際、静岡の教会は、小さな教会だったのですが、よく伝道しました。チラシを作り、配った。また、機会があれば、どこへでも私が行って、御言を語らせていただいた。そうしていくうちに、(本当に不思議としか言いようがないのですが、)多くの出会いが与えられ、何年かしたら、小さな礼拝堂が人でいっぱいになった。そしてもうどこからも、「教会を閉じよう」という声が聞こえてこなくなったのであります。
これは、私たちにとっても同じなのです。この大和キリスト教会も同じだと、当然言えますが、私たち一人一人、私たち一人一人も、大事な御言の語り手なのです。あの人に、この人に、私たちが伝える。あの静岡の教会がなくってしまったら、その地域の人たちが、神様の言葉を聞くことができない、それと同じように、私たちがいなけば(また伝えなければ)、あの人も、この人も、一生涯、神様の言葉を聴くことができないまま、終わってしまうかも知れない。「まことの神の言葉を聴くことができるのは、ここだけ。まことの神の言葉を伝えることができるのは、あなただけ」。私たちも皆、同じだと言える。
そして、このムナの譬え話。御言を伝える、それだけではなく、私たちがその御言に生きる、しまっておくだけではなく、実際に用いていく、生きていく。そのことも求めている。
先日、このような質問を受けました。「聖書に書いてあることを、どうすれば、もっともっと実感できますか」。いい質問だと思いました。御言を、識だけではなく、もっともっと実感したい、どうすればいいのか。
色々な答え方ができると思ったのですが、このムナの譬え話で答えるならば、「一ムナを一ムナのままにせず、その御言に生きてみる」ということが言えると思います。礼拝で御言を聴いて、「なるほど、いい御言だ」、そう言って、自分の中だけにしまい込むだけではなく、また自分だけが満足し、そのムナを持っていることで、ただ安心するのでもなく、実際にその通りに生きてみる(いや、正確に言えば、その御言に、生かされていく)、そのとき、ムナは、何倍にも増えるのです。あなたの道を主にゆだねよ。その御言を聴いたならば、実際に、主にゆだねて、生きてみる。すると、私たちは実感する。「ああ、なんて素晴らしい御言なのか、なんて豊かな御言なのか」。敵を赦し、敵のために祈りなさい。その御言を聴いたならば、実際に、そのとおりに祈ってみる。「どうして、あんな人のために」、そのような思いが湧き上がってきても、「しかし、主よ、あなたの言葉ですから」と言って、祈ってみる。そのとき、「ああ、御言が語るとおりだ」と思えてくる。商売のように、すぐに結果が出るとは限りません。しかし、地道に、コツコツ御言に生きていくとき(生かされていくとき)、気がついたら、一ムナが二ムナに、二ムナが、五ムナに、そして、一〇ムナにもなっていく。
どうして、この最後のしもべは、一ムナをしまっておくだけで、商売に行かなかったのだろうか。このしもべは、こう答えています。
あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。
つまりこのしもべは、主人が怖かった。その主人のムナを、失うのが怖かった。考えてみれば、哀れなしもべです。ビクビク怯えながら、主人の帰りを待ったのです。おそらく、布に包んだだけは安心できなかったことでしょう。朝起きて、「あの一ムナは、夜のうちに盗まれていないか」、そう言って、おそるおそる布をあけてみる。昼は昼で、「家に置いたままでは心配だ。だからと言って、持ち歩いたら落とすかも知れない」。そう言って、ムナの心配ばかりをしている。哀れなしもべ。ムナを無くさないように、四六時中、ビクビクして、主人の帰りを待っている。しかしこれは下手をしたら、私たちの姿なのです。よもすると、私たちも、自分の中に、「信仰があるか、どうか」、そのことばかりを気にしてしまう。「自分の中には、ちゃんと信仰があるだろうか。御言を、しっかり保っているだろうか」。しかし、主人が望んでいることは、そのようなビクビクした待ち方ではない。御言を伝える、また御言に生きる。そして何倍にも増える御言の豊かさに、あなたも生きてほしい、生かされてほしい。その喜びを、あなたも味わってほしい。『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。御言は、伝えるためにある。そして、それに生きるためにある。
この譬え話は、少々後味の悪い終わり方をします。二七節。
「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」。
この王様を憎んでいた人たちが、最後に滅ぼされてしまう。私たちとしては、何となく後味が悪い。国民から愛されず、自分の敵を殺してしまう暴君のような印象をつい受けてしまう。しかしそうではないのです。一四節の国民は彼を憎んでいた という言葉は、「ユダヤの指導者たち、そしてユダヤの人たちが、イエス様を憎んでいた」ということと重なるのです。ユダヤの人たちは、神の子であるイエス様を憎み、拒否したのです。十字架にかかるような、無力な王様はいらない。敵を赦し、敵のために祈るような軟弱な王様はいらない。そう言って、神様からの救い主、まことの王を憎み、拒んだ。もちろん、これは、「ユダヤの人たち」という特定の人たちだけが、イエス様を憎み、拒んだのではありません。世はいつでも、イエス様を憎み、そして拒むのです。なぜならば、いつまでも、自分たちが王様でいたいからです。「自分の人生、自分の好きなようにして、何が悪い。自分の時間や自分の体を、自分のために使って、何が悪い。自分の敵と呼びたくなるような奴を、心から憎むほうが、正直ではないか」。私たちは、その世の中で生きていく。イエス様から、御言(ムナ)をいただき、時にイエス様のように憎まれ、拒まれ、ののしられ、それでも、御言を伝え、愛に生きる、赦しに生きる。主人の帰りを待っているからです。わたしのために、十字架にまでかかってくださった主人が帰ってきてくださり、そして私たちに必ず、「良いしもべだ、よくやった」と言ってくださる。私たちは不充分なのです。御言が持つ豊かさに比べれば、ほんの少ししか、ムナを増やすことができないのです。しかし、どれだけ増えたかは関係ない。一〇ムナ増やしたしもべも、五ムナ増やしたしもべも、この主人は同じように褒めてくださる。だから、私たちは、あきらめない。ムナを包んで、しまっておくままにしない。私たちは、御言をこの手にいっぱいいただき、ここから、世に出ていくのであります。
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2018年2月メッセージ
礼拝説教「閉じてしまう扉」 牧師 鷹澤 匠
ルカによる福音書 第13章18~30節
私がここに立つときには、ルカによる福音書を読み進めております。私が赴任してから、ルカによる福音書を読み始めましたので、早いもので、この福音書を読み始めて、二年になろうとしています。二年間、コツコツと、この福音書を読んできて、「ああ、やっぱり、ルカはいいなぁ」と思っています。私、ルカによる福音書が大好きでありまして、もう十数年前になりますが、一度、キリスト教系のラジオ番組を、私、担当させていただいたことがありました。そこでも、私は、ルカを説いた。一年間、ルカによる福音書を説く番組を行ったのです。そして今再び、ルカを説いている。何度、説いても、まだ何度、読んでも、新しい発見、新しい恵みがある。「ルカによる福音書は、いいなぁ」と思うのであります。(まぁ、もっとも、私が説教で、マタイによる福音書を説いていたら、きっと私は、「マタイによる福音書は、いい」と言うに違いないのですが、聖書というのは、どこを読んでも、恵みがある。無尽蔵に、尽きない恵みが湧き出してくるのであります。)
マタイ、マルコ、そして、ルカによる福音書。この三つは、内容がよく似ていますので、「共観福音書」と呼ばれています。イエス様の行ったことや、お語りになった言葉が、この三つの福音書には重なって出てくる。しかし、「じゃあ、まるっきり、この三つは同じか」というと、当然そうではありませんで、それぞれ、特徴があるのです。そして、ルカによる福音書の特徴の一つに、マタイとマルコには出てくる、よく知られた、イエス様のあの言葉が、出てこない、その点を挙げることができるのです。それは、どの言葉か、と申しますと、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
これは、意外なのです。マタイ、そしてマルコでは、この言葉が、イエス様の第一声でした。そしておそらく、イエス様は何度も、この言葉を口にされた。しかし、なぜだか、ルカには、この言葉が出てこない。じゃあ、何か、ルカは、「神の国」には関心がなかったのか。また、「悔い改め」は、特に必要ないと考えたのか。もちろん、そのようなことはありません。実は、ルカはこの言葉を、別の形で伝えているのです。いや、むしろ、「ルカは、別の形で伝えることによって、神の国、そして悔い改めを、強調している」とも言える。
私たちに与えられた今日の御言は、ルカによる福音書第一三章一八節からです。ここも、「神の国」の譬え話です。そして、ここも、「神の国が来たのだから、悔い改めて、福音を信じなさい」、そのような意図が込められているイエス様の言葉だと言える。今日は、その箇所を、ご一緒に心に留めていきたいと願うのであります。ルカによる福音書第一三章八節から。
そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
私、最近まで、「からし種の実物」というのを見たことがありませんでした。ただ、最近、ある方から、本のしおりをいただきまして、そこに、本物のからし種が、何粒か、ビニールで貼り付けてありました(種が、しおりにラミネートされていたのであります)。本当に小さな種でした。一ミリにも満たない。しかし、その種が地に落ちると、二メートルないしは、三メートルくらいの木に成長するそうであります。ただ、聖書の学者たちは言います。その枝には空の鳥が巣を作る、これは、いささか大袈裟ではないか。からし種は、大きく成長するが、枝がそれほど頑丈ではない。だから、鳥が巣を作るまでには至らない。あえて言うならば、からし種の木の下で、鳥が巣を作る。木に隠れるようにして、鳥がそこで、タマゴを暖める。実際、マルコによる福音書では、「葉の陰に空の鳥が巣を作る」となっているのであります。
しかし私、その学者たちの説明を本で読みながら、それは、イエス様の主旨とは、また違うのではないか、と思いました。イエス様は別に、「からし種」という植物の生態を語っておられるのではない。「神の国」の話をなさっている。そしてそれは、実際の「からし種」の成長を、はるかに越えていくのであります。
神の国は、大きくなる。実際のからし種の木(二メートル、三メートル)を遙かに超えて、そこに、鳥が巣を作る。(しかも、この「鳥」という言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、複数形でありまして、つまり、一羽ではなく、たくさんの鳥たちが、その木に巣を作る。)そう、その「鳥」は、私たちなのです。私たちは、「神の国」という大きな木に宿る鳥たち。神の国に宿り、そこで平安を得る、また自由を得る。
当然、私たちは、ここで気になります。ならば、この「からし種」とは何だろうか。やがて、大きな木となる、神の国の元となる、「からし種」とは、何を指しているのだろうか。次の譬え話も、中身は同じです。二〇節。
また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。
「パン種」というのは、イースト菌が入ったパンの元です。ほんのひとかけらでいい、そのひとかけらを粉に混ぜて、練り上げると、大きく膨らむパンとなる。これも、先ほどの譬えと同じ。最初は、小さい。しかし、大きく膨らむ。ここでも、同じ疑問が浮かぶ。ならば、その始まりとなる「パン種」とは、何だろうか。
そのような疑問(御言への問いかけ)を持ちながら、この先を読むと、こう記されているのです。二二節です。
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
からし種、そしてパン種の譬え話。実はこの譬え話は、他の福音書、マタイやマルコにも出てきます。しかし、ルカだけ、大きく文脈が違うのです。(イエス様がお語りになった場面が違う。)もちろん、イエス様は、同じ譬え話を、色々な場面で語ってくださったのでしょうが、じゃあ、ここでは、どういう意味(どういう思い)で、イエス様はこの二つのたとえ話を語ってくださったのか。ルカは記す。「イエス様は、このとき、町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」。
エルサレムというのは、イスラエルの都です。神様を礼拝する神殿がありまた、イスラエルの「祈りの家」です。イエス様は、そのエルサレムを目指す。何のために。エルサレムにおいて、ご自分が十字架にかかるためです。私たちの身代わりとして、十字架で死ぬために、今、イエス様は、エルサレムを目指しておられる。
からし種、パン種、共通して言える点は、大きくなるに際して、種そのものは消えていくという点にあります。もっと聖書的な言い方をしますと、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、ただ一粒のままである。しかし、死ねば、多くの実を結ぶ」。そうなると、ここでのからし種、パン種は、イエス様ご自身だ、ということになる。エルサレムへ向かう。ご自身が死ぬために、死んで、私たちの罪を赦すために、多くの実を結ぶために、エルサレムへと向かう。そこに、神の国の始まりがあるのです。
イエス様が、「神の国」の話をなさった、きっとそれを受けてでありましょう。このような質問をした人がいました。二三節です。
すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。
「救われる」というのは、ここの流れで読むと、「神の国に入る」ということです。「神の国に入ることができる人は、少ないのでしょうか」。すると、イエス様はこうお答えになる。(続きです。)
イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
イエス様は、具体的な人数の話はなさいません。狭い戸口から入るように努めなさい と言われる。そして、二五節。
家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
ここで、イエス様は、「閉じてしまう扉」の話をなさるのです。その扉は、「戸口が狭い」だけではなく、やがて閉じてしまう。しかも、一回、閉じられてしまうと、どんなに呼びかけても、開けてもらえない。「ご主人様、私たちは、あなたと一緒に食べたり、飲んだりしました。また、広場で、あなたの教えを、聞いたこともあるのです」。しかし、主人は冷たく、こう答えるだけ。「お前たちが、どこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。そして、閉め出された人は、外に投げ出され、泣きわめいて、歯ぎしりをする。
私たちは、心が騒ぎます。「これは、どういうことだろうか。イエス様はここで一体、何をお語りになっているのだろうか」。
私、説教を語る者として、時々、「ああ、これは、誘惑だなぁ」と思うことがあります。それは何か、と申しますと、聖書の言葉があり、その言葉が、時に厳しい響きを立てる。読む私たちの立つ瀬を無くすような、まるで救いがないかのような、厳しい響きを立てる。そのような御言を前にして、説教者として、なんとか、それを和らげたいという誘惑に駆られてしまうのです。厳しいのです。聖書が語っていること、イエス様がお語りになっていることは、どう読んでも、厳しいのです。しかしそこで、説教者は、つい、余計なことを考える。「ああ、これを、そのまま語ったら、つまずいてしまう人が出るかも知れない。『せっかく礼拝に来て、平安を得られると思ったのに、随分、厳しいことを言われた。ああ、こんなんだったら、来なければよかった』、そう言われないためにも、厳しい御言を、なんとか、和らげて語りたくなる。「心配しなくてもいいのですよ」と、言ってみれば、取り繕いたくなる。
今日の御言、この箇所も、私、その誘惑との戦いでした。この御言も、厳しいのです。戸口は狭く、しかも、この扉は、いつまでも開いていない、時が来れば、閉まる扉。「どう、語ったらいいのだろうか。どう語ったら、皆様にとって、受け止めやすい説教になるだろうか」、私、一週間、そういう誘惑と戦ってきた。
いや、もしかしたら、これは、説教者だけの誘惑ではないのかも知れません。皆様にもある。例えば、今日の箇所。家で、また礼拝の前に、あらかじめ今日の箇所を読む。「なんだか、今日は厳しい内容だ。でも、鷹澤だったら、ここからでも、何かしらの『恵み』を語ってくれるに違いない。この厳しさを、和らげてくれるに違いない。それを期待しよう!」。それも、「誘惑」なのです。御言を、自分にとって受け止めやすく、そして、厳しさを、和らげたくなる誘惑。
しかし私、説教準備の途中で、腹をくくりました。「厳しい御言は、やっぱり厳しい御言。この厳しさを、受け止めなければならない」。そして私は思った。何よりも、誰よりも、イエス様が、「この厳しさ」の前に、私たちが立つことを求めておられる。神の国の戸口は、狭い。その扉は、いつまでも開いていない。いつか、閉まり、一度閉まると、開けてもらえない。イエス様は言われる、「この厳しさを、あなたも、心に留めなさい。この厳しさの前に、あなたも、立ちなさい」。
私、腹をくくってから、この「厳しさ」の前に、じぃっと立ち続けていきました。イエス様がお語りになるひと言、ひと言、そこから、目を逸らさず(耳をふさがず)、心にとめていった。そうしましたら、ここに込められたイエス様の思い、イエス様の心が、じわっ~と伝わってくるような思いがしたのです。この「厳しさ」というのは、イエス様の、神の国に対する厳しさ、真剣さなのではないだろうか。
イエス様は、今、エルサレムに向かっておられるのです。ご自身が、十字架にかかるため。十字架にかかり、私たちの罪を赦し、そのようにして、神の国の扉を開くため、イエス様は今、エルサレムへと向かう。そしてイエス様は呼びかけておられるのです。「わたしに従って来なさい。神の国、わたしが、その扉を開く、その神の国に、あなたは、入りなさい。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、イエス様は、そう呼びかけておられる、厳しく、そして、真剣に!
このとき、イエス様に質問した人はこう問いました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。私、思いました。イエス様は、この質問に、非常に深い悲しみ、またその悲しみから来る憤りを覚えられたのではないだろうか。「救われる者は、少ないのでしょうか」。「あなたは、『多い、少ない』を聞いて、どうするのか。わたしが、『少ない』と答えたら、『ああ、それなら、わたしは、ダメだ』と言って、あきらめるのか、『救い』というのは、その程度の問題なのか。また逆に、『救われる者は、多い』とわたしが答えたら、あなたは、どうするのか。『ああ、それならば、もう少しのんびりしていてもいいのだな』と思うのか。それとも、あなたは、ただ、興味本位で、また仲間内で、無益な神学論争をするために、『救われる者の数』を知りたいのか。そのように、神様を試みることは、どれだけ大きな罪であることを、あなたは知らないのか」。イエス様は、この質問に対して、悲しみを覚える。またその悲しみから来る憤りを覚える。そして、譬え話を通して、こう問い返されたのです。「あなたは、どうなのか。あなたは、わたしが、十字架にかかり、そして開く、その神の国に入りたいと願っているのか。他の人のことは、いい。『何人、救われるか』なんてことも、関係ない。あなた、肝心のあなたは、どうなのか!」。イエス様は、そうお問いになる。この譬え話を通し、厳しく、そして真剣に、そう問うてくださっているのです。
私、この説教の準備に際して、このような言葉に出会いました。
もう遅すぎる、ということはある。まさに愛の世界において。「おそくてもよい」というのは、眠っているような愛、どうでもいいような愛である。
私、その言葉を読んで、イエス様が、この譬え話に込めた思いは、まさに、これではないか、と思った。イエス様は、どうしても、何が何でも、今、ご自分に従って来てほしいのです。「いつでもいい」、扉を開けっ放しにして、「この扉は、いつまでも開けておくから、あなたの気が向いたときに、入って来てくれれば、それでいいよ」、イエス様は、そうは言われない。イエス様の愛は、そういう眠っているような、また、どうでもいいような愛ではない。すぐ応じてほしい、どうしても従って来てほしい、なぜならば、わたしが十字架にかかる、ここにしか、あなたの罪の赦しはないのだから。あなたが神様のもとで生きる。罪赦され、神様のもとで平安を得る、自由を得る、それができるのも、ここ、わたしに従う、その道しかないのだから!
先々週から、今週にかけて、三人の方を、天にお送りいたしました。Oさん、Nさん、そして、Aさん。私、その方々が、「お亡くなりになった」という知らせを受け、それぞれの方々の枕元に立ちました。そして、どの時も、まずお読みした聖書の言葉は、詩編第二三編でありました。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。
そして、私、その詩編を読みながら、繰り返し思いました。「主が、私たちの羊飼いでいてくださる。これは、なんて、貴いことだろう」。
主は、私たちの羊飼い、しかも、私たちの主、イエス様は、ご自分の羊のために、命を捨ててくださった羊飼い。私たち羊が、神の国に入る。神様のもとに宿り、神様のもとで平安を(青草の原で休み、憩いの水を飲む、そして魂の生き返りを経験する)、そのために、イエス様は、自ら命を捨ててくださった。イエス様は、そのような羊飼いなのです。
私、こういうイメージを抱いても許されると思うのです。私たち罪人が、神の国に入る、その手前に、大きな地割れがあるのです。「罪」という名の地割れ、神の国の前に広がる、決して自分では越えられない深淵。しかし、羊飼いであるイエス様は、そこにご自分の身を投げ打ってくださったのです。その地割れに、自分の身を横たえ、橋をかけてくださった。そして、私たちに言うのです。「さあ、渡れ! わたしを踏んで、神様のもとへと渡れ!」。イエス様は、そこまで、真剣なのです。そこまで、厳しい思いで、私たちの罪を赦し、私たちを愛し抜いてくださっている。
今日の御言は、このような言葉によって終わります。二九節。
そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
イエス様は、「神の国に、あなたの席もあるのだ」と語ります。そして、そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。
この言葉は、色々な意味で、聖書に繰り返し出てくるのですが、大胆に、こう読んだ人がいます。「先の人であったのに、後になった者とは、イエス様のことではないか。まことの神の子であり、罪なき御方、イエス様、そのイエス様こそ、本来ならば真っ先に宴会の席に着くべきだった。しかし、後の人であった私たちを、イエス様が、その身を犠牲にして、先に席に着かせてくださった。後の人である私たち罪人が先になり、先の人である神の子イエス様が、後になる」。随分、大胆な聖書の読み方です。しかし、私、「ああ、そうかも知れない」と思いました。私たちは、イエス様を犠牲にして、神の国の宴会の席に着く。イエス様の犠牲なくして、私たちの席はないのです。
だから、だから、私たちは、眺めているわけにはいかない。「救われる人は、少ないのでしょうか、多いのでしょうか」、そんな呑気なことを言ってもいられない。私たちは、イエス様に答える、「わたしは、あなたに従います。今すぐ、自分勝手な生き方をやめ、あなたに、あなたが望む生き方に、従います! 主よ、わたしが負うべき重荷を負わせてください。その道が、どんなに狭くても、また、どんなに厳しくても、わたしは、あなたにお従いしたいのです!」。
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2018年5月メッセージ
礼拝説教「計算が合わない神の愛」 牧師 鷹澤 匠
ルカによる福音書 第15章25~32節
聖書を読んでおりますと、何組もの兄弟が出てきます。兄と弟、姉と妹。そしてこれは、「私の印象」なのですが、どうも、聖書は、兄よりも弟に光を当てる。姉よりも妹に優しいような気がするのです。
例えば、人類最初の兄弟カインとアベル。二人とも献げ物を持ってきたのに、神様が目を留めてくださったのは、弟のアベルでした。また、エサウとヤコブという双子の兄弟。本来、家督を継ぐのは、兄のエサウだったはずなのに、結局、弟ヤコブが後継者となる。また、そのヤコブの妻レアとラケル。(この二人も姉妹なのですが)ヤコブに愛されたのは、姉ではなく、妹のラケルだった。まだまだありまして、モーセとアロンも、アロンの方が兄なのに、エジプト脱出の指導者は、弟のモーセ。さらに、イスラエル王ダビデも、八人兄弟の末っ子なのであります。どうも、聖書は、兄よりも弟に光を当てる。姉よりも妹に優しい気がする。ちなみに、私は、三人兄弟の一番上、兄でありまして、聖書のそのような記述を読むと、なんとなく、おもしろくないのであります。しかし、これには、ちゃんとわけがあるのです。古代において、一番優遇されたのは、なんと言っても、長男、兄でありました。昔の日本もそうだったと思いますが、長男は跡取りとして、大事にされた。その点、下の子供たちは、扱いが軽かったのであります。しかし、聖書は語る。「神様は、力がない者、弱い者、そして貧しい者に心をとめる」。だから、兄よりも弟、姉よりも妹に、光が当たる、また優しくしているように見えるところがあるのです。
けれども、もちろんですが、だからと言って、聖書は、兄や姉を軽んじているわけではありません。むしろ、兄や姉に向けた御言、メッセージというのは、聖書に数多くある。そして今日、私たちが心に留めていきたいイエス様の譬え話も、兄に向けられた話なのであります。
私たちは、先週から、「放蕩息子の譬え話」と呼ばれる、イエス様がなさった譬え話を読んでいます。ある人に息子が二人いたという言葉から始まる譬え話でありまして、弟が、父親に向かって、「財産を分けてほしい」と言い出すところから、この話は始まります。
『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』。
死んでから、遺産を引き継ぐのではなく、父が生きている間に、遺産を分けてもらう、いわゆる「生前贈与」を弟が申し出るのです。そして弟は、その財産を受け取ると、さっさと家を出て、遠い国へ行ってしまう。そしてそこで、放蕩の限りを尽くすのです。
(これは、偏見かも知れませんが)私自身、兄の立場から言わせていただくと、「まぁ、こういうことをするのは、弟だろうなぁ」と思うのです。もちろん、一括りにするわけにはいきませんが、兄弟の一番上というのは、どうしても、保守的になる。(私自身もそのつもりなのですが、)保守的で、なかなか思い切ったことができない。その点、下の方が自由に行動する。実は、私の兄弟も、そうでして、なんとなく羨ましくも思うのであります。
しかし、この弟息子、少々遊びすぎた。あっと言う間に、父からもらった財産を使い果たしてしまうのであります。そして、ちょうどその時、その地方を飢饉が襲い、彼は食べるものにも困り始める。そして彼は、ユダヤでは、汚れた動物とされていた豚の世話をさせられる。そしてそこで、我に返るのです。弟息子は、自分の罪に気づき、父に謝る決断をする。そして家に帰るのですが、すると、弟息子も予想していなかったことが、起こります。
弟息子は、重い気持ちで、また足を引きづるようにして家へと向かいます。すると、まだ遠く離れていたのに、父が、彼を見つけ、駆け寄ってくるのです。そして、彼を抱きしめ、彼の謝罪の言葉をほとんど聴かずに、赦してくれる。そして、肥えた子牛まで屠って、祝宴を始めてくれるのであります。これは、弟息子も驚いたと思う。彼は、「雇い人の一人にしてください」と言うつもりだった。しかしこの父親には、そのようなつもりは微塵もない。「わたしの息子!、わたしの愛する子が帰ってきた!」、そう言って、大喜びをするのであります。
そして、この譬え話が、おもしろいのは、実はここからなのであります。そこへ、兄が帰ってくるのです。ルカによる福音書第一五章二五節から読んでまいります。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
この日、兄は、いつもどおり畑へ行って、そして、いつもどおり仕事をし、そして帰ってきました。すると、我が家が、いつもとは随分、様子が違うことに気がつく。楽しそうな音楽が聞こえ、人々が喜び踊る声も聞こえてくる。「これは一体何事か。何のお祝いなのか」。兄は、家のしもべを呼んで、事情を聴きます。すると、あの弟が帰ってきた、というではないか。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は、これを聴いて、怒るのです。二八節。
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
もう随分前になりますが、私が静岡の教会にいたとき、地区の教会の青年たちの集まりがありました。「青年修養会」と呼ばれていたもので、静岡で開催されたのですが、その修養会で、この譬え話が、主題となったのです。
青年たちの集まりです。ただ講演を聴くだけではなく、「自分たちも体を使って、聖書を学んでみよう」ということになりました。そこで、幾つかのグループに分かれて、「この譬え話のその後を、劇にする」という試みをしたのであります。このイエス様の譬え話、話が途中で終わっています。父親が、兄息子に、祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか と言った。しかし、このあと兄が、どうしたかが、書かれていないのです。兄は、父の言葉にさとされて、家に入ったのか。弟とは、再会したのか。青年修養会では、そのことを、劇にしよう、ということになったのです。
おもしろかったのです。特にあるグループの劇が、非常に良くできていた。その劇は、兄息子が父親から諭される場面から始まります。そして、兄は、父親に対して怒って、「納得いかないよー」と言って、家を飛び出してしまうのです。せっかく、弟息子が帰ってきたのに、それと入れ替わるようにして、今度は、兄が、家を飛び出してしまう。そして、兄は、静岡にありますA神社へ行くのであります。(実はその劇、あらかじめ、入れなければいけないキーワードというのが決まっていまして、名所、A神社を劇の中に登場させなければいけなかった。ですから、かなり強引なのですが、兄息子は、父のもとから飛び出し、A神社へ行く。)すると、見るからに怪しげな神主が出てくるのです。その神主は、兄息子に、「あなたには、悩みがありますね。正直に言ってごらんなさい」とか言うのです。そこで兄は、自分の身に起こったことを話す。「弟が、放蕩に身を持ち崩して帰ってきた。それを父が、なんの咎めもなく、赦してしまった。いや、赦すどころか、子牛まで屠って、祝宴を始めた。自分は、納得がいかない。自分は、長年父に仕えてきたのに、子山羊一匹すらもらえなかった。こんなことがあっていいのか!」。兄は、そのように神主に告げる。するとその神主は、こう言うのです。「兄よ、あなたは、正しい。間違っているのは、弟、また、父親。弟息子は、必ず天罰を受け、そして真面目なあなたは、天の報いを受けるでしょう!」。兄は、それを聞いて、納得するのであります。「やっぱり、そうですよね!」とか言って、納得をする。そして兄は、そのままA神社に仕えていくのですが、しかし、どうしても、父のことが気になる。「自分は本当に正しいのか。自分は、このままでいいのか」、そのような思いを持ちながら、劇は終わっていくのであります。
念のため申し上げておきますが、あくまでもこれは、青年たちが即興で作った劇でありまして、実在するA神社とは、何の関係もありません。
私、その劇を見て、「この譬え話の主旨を的確に捉えている」と思いました。兄息子は、なぜ、怒ったのか。また、何に対して、腹を立てたのか。もちろん彼は、弟にも腹を立てたと思うのです。父の財産を無駄使いして、のこのこ帰ってきた弟。その弟にも、兄は、腹を立てた。しかし、ここまで怒っているのは、その弟を赦してしまった父に対してなのです。納得がいかないのです。父の愛(この父は、神様を譬えていますので、)神様の愛に、納得がいかない。父は言いました。「祝宴を開いて、楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」、父にとって、息子が見つかったことを喜ぶのは、「当たり前」、赦すのも、「当たり前」。しかし、兄は、この「当たり前」に、つまずいた。「納得がいかない。こんな、理不尽なことはない!」。
書き写した本と書いて、「写本」と呼ばれるものがあります。昔は、印刷技術がありませんでしたので、聖書も、人の手で書き写されて、伝えられていきました。そして私たちが手にしている聖書は、学者たちが研究をして、一番古い写本(つまり、元に一番近いであろう、と思われるもの)を翻訳しています。しかし世界には、たくさんの写本がありまして、もちろん、大事なところは、ほとんど差がないのですが、ところどころ、小さな違いがあるのです。そしてその違いは、当時の人たちが、「聖書を解釈した」、その結果、生まれた違いではないか、と考えられている。
このイエス様の譬え話。この兄のセリフなのですが、ある写本では、少しだけ違う言葉が使われています。二九節の言葉なのですが、私たちの聖書ではこうなっています。
しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
この「宴会をする」という言葉なのですが、ある写本では、「朝食のために」となっているのです。「友達との朝食のために、あなたはわたしに、子山羊一匹すらくれなかった」。私、それを知って、最初に思ったのは、「この兄は、朝っぱらから、友だちを呼んで、子山羊を屠って食べたいのか」ということです。「そんなことをしたら、さぞかし胃がもたれるに違いない」。しかし、どうも、そういうことではなさそうで、「あの弟息子に比べれば、わたしは、朝から、子山羊を食べる資格があるはずだ。お父さん、わたしは、そのぐらい、あなたに忠実に仕えてきました!」、どうも、そういう解釈をした時代があったようなのです。
なるほど、と思いました。確かにそうでしょう。この兄は、「弟には、その資格がないけど、わたしには、その資格がある」と思っていたのです。「父に愛される資格」です。「父に愛され、報われる資格」。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。そして今日だって、お父さん、畑に行って、土まみれになって働いてきたのです。この手を見てください。土が染みついているこの手が、あなたに、何年も仕えてきた何よりもの証拠です!」。兄は、そう言った。それなのに、この自分には何も与えられず(実際は、そんなことはなかったのですが、少なくても兄は、そう感じていた。自分には何も与えられず)、あのただただ身勝手に生きてきた弟が赦される、なおかつ、子牛まで屠ってもらえる! こう言い換えてもいいのです。兄にしてみると、この父の愛は、「プラスマイナスの勘定が合っていない」のです。自分は、子山羊一匹もらえないのに、あの弟が、赦される。計算が合わない、こんな不公平なことはない、こんな理不尽な愛はない!」。兄は、そう言って、怒った。父の愛、神様の愛に、腹を立てたのです。そして、これは、私たちにもある「思い」なのです。
恐ろしいことでもあるのですが、私たちも、下手をすると、神様を、「自分たちの計算が合う、辻褄が合う方だ」と考えてしまいます。「わたしは、これだけやったのだから、神様が、これだけ報いてくださるはずだ。あいつは、あんなにひどいことをしたのだから、神様は、それ相応の罰を与えてくださるはずだ」。プラスとマイナス、計算(辻褄)を、神様が合わせてくださる、そして、「そうでなければ、困る」と考えるのです。なぜならば、この世界は、矛盾で満ちているからです。正しい人が、必ずしも、報われるとは限らない。悪い人が、必ずしも罰を受けるとも限らない。だから、神様が、プラスとマイナス、辻褄を、必ずどこかで、合わせてくださる。それがあってこそ、この世界が保たれるし、そしてこの世界で生きる「わたし」も、保たれる。私たちは、下手をすると、そう考える。しかしそれは、青年たちが考えた「怪しげな神主」が語る神様と、それほど変わらないのです。私たちが安易に納得できてしっまう神様は、おっかないのどえす。つまり、それは、「人間が考える辻褄合わせの神様」、「人間が造り出した偶像の神様」なのです。そして、もっと恐ろしいのは、私たちは、「神様が、そのような神様でないと、腹を立ててしまう」ということです。神様が、弟息子のような者を、謝罪もろくに聴かずに赦してしまうと、その神様が許せなくなる。「そのような愛の神様であっては困る」と思う。「愛の神様」では、世界の辻褄が合わなくなるし、その秩序も保てなくなるし、そこで生きる「わたし」も、保っていけなくなる。そこで、私たちは、自分まで否定された思いになり、さらに自分が失われていく恐怖を感じ、その恐怖が、実は、イエス様を十字架につけたのです。
この譬え話。そもそもは、ファリサイ派、そして律法学者たちが、イエス様を批判したことから始まりました。イエス様は、当時、「汚れた者」とされていた徴税人や罪人たちと、一緒に食事をされた。それを見たファリサイ派、律法学者(当時の信仰の指導者たち)が、不平を言ったのです。「この人は、なぜ、あんな連中と食事を共にするのか」。つまるところ、「あんな連中は、一緒に食事をする価値がない。その資格がない。彼らは、愛される資格など、とうの昔に失った連中なのだ」。まさに、ファリサイ派、律法学者たちは、兄の姿そのものであった。そしてやっぱり、彼らも、イエス様の愛につまずいたのです。そして、イエス様が指し示してくださった神様が、そのような愛の御方であると困る、と思った。結果、イエス様を十字架につけていく。イエス様を十字架で無き者にし、「愛の神様」を殺し、自分たちが望む世界の均衡を保った。聖書は語る。「ここに、私たちの罪がある。神様を神様としない、それどころか、自分たちの理想の神、偶像の神様を造る、私たちの罪がある」。
しかし、神様は、私たちの予想に反して(いや、予想を超えて、私たちの計算式など、木っ端微塵に吹き飛ばした)愛の御方であったのです。弟息子を赦す。謝罪の言葉もほとんど聞かず、憐れみ、赦す。そして、肥えた子牛まで屠る、いや、それどころか、この愛の神様は、ご自分の御子を、私たちの身代わりとして、十字架で屠ってくださったのです。そのようにして、神様は、ご自分のもとへ、ご自分の愛のもとへ、兄を招く、そして、私たちを招く。
最後に、兄を招く父の姿に心をとめて終わりたいのですが。この父親は、祝宴に入ってくることができない兄のもとへ、自ら足を運びます。二八節です。
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
この「なだめる」という言葉は、「かたわらに来て、呼びかける」という言葉です。この言葉の通りです。この父は、兄のすぐそばまで来てくれて、「さあ、中へ入ろう。わたしが開いた愛の祝宴に、あなたも、おいで」と言ってくださる。
しかしこの時、この兄の心は冷え切っていました。彼は、弟のことを、「弟」とは呼ばないのです。三〇節。
ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。
なんて、そらぞらしい言い方、冷たい言い方。「あんなやつは、わたしの弟ではない。あなたの息子かも知れないが、わたしはもう、あいつを兄弟とは認めない」。しかし、父は、まるでその言葉を打ち消すように、こう言うのです。三二節。
だが、お前のあの弟は、死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。
「あの者は、お前の弟ではないか、お前の兄弟ではないか。その兄弟が見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。「当たり前」、この「当たり前」に、父は、兄を招く。この兄も、大事な父の息子。「この愛に、あなたも生きよ!」と招くのです。
私たちも同じです。私たちに対しても、神様が、ご自分の愛に生きるように、と招いてくださっている。私たちのかたらわらにも、神様が来てくださり、こう呼びかけてくださるのです。「子よ。わたしの子よ。あなたも、わたしの愛に生きよ! 『プラスだ、マイナスだ』と考える愛ではなく、それらの計算式を全部吹っ飛ばして、すべてを赦す、そのわたしの愛に、あなたも、生きよ!」。
青年たちが作った劇は、残念ながら、ハッピーエンドとはいきませんでした。兄は、納得がいかず、家を飛び出して、もやもやした気持ちのまま終わる。しかし、当然ですが、それが、この譬え話のすべての結末ではありません。この結末は、私たちが作る。そして私たちは、青年たちが作った劇の兄とは、別の道を行くのです。私たちは、愛の神様のもとにとどまる。なぜならば、神様が、私たちに、こうも呼びかけてくださっているからです。
子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
私たちは、いつも、神様と一緒にいる。そして、神様のもの、神様からいただいたもの、それらを、全部、自分のもののようにして使うことができる。神様の愛を用いる。神様の愛を、まるでお裾分けをするように、この愛に生きることができる。私たちは、私たちは、神様のもとで生きる息子、また娘なのであります。
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2018年3月メッセージ
礼拝説教「あなたも憐れみに生きよう」 牧師 鷹澤 匠
ルカによる福音書 第15章1~10節
牧師になるための学校、神学校には、夏期伝道実習というのがあります。学校で言うところの「教育実習」でありまして、夏の間、指定された教会に行って、住み込みで、約ひと月、研修を行う。教会のお手伝いをしながら、その教会の牧師から色々なことを習うのであります。
その夏期伝道実習は、「卒業までに二回、行くように」とされていまして、私の場合、学部の三年生と大学院の一年生の時に実習に行きました。そして初めて、学部の三年生で実習に行った教会は、山形県の鶴岡という町にある教会だったのであります。そして私、そこで生まれて初めて、日曜日、説教壇に立って、礼拝説教をしました。
よく覚えています。もちろん正確ではありませんが、そのとき語った内容を今でも思い出せる。そして、説教をすることに大変大きな喜びを感じたことをよく覚えているのです。初めての説教。当然、緊張もしました。しかし、私の場合、緊張よりも嬉しさが、その時まさっていたのです。と言いますのは、実は私、その頃、神学校の勉強に少々疲れを覚えていました。神学校では、学年が下の間、神学の基礎となる哲学や語学を学ぶ。私、それらを学びながら、「一体これらは何の役に立つのか」という疑念が生じていたのです。「本当にこれらは、教会の伝道に必要なのか」。神学校で学んでいることの意味が、一回よく分からなくなってしまった。そこで私、通常、四年生で行くはずの夏期伝道実習を、一年前倒しして、三年生の時に行かせていただいたのであります。そして、教会の現場に飛び込み、また、教会に生きる方たちと多く接して、段々と自分の思いが回復していった。「ああ、やっぱり私は、教会で働きたいのだ。聖書、御言を語りたいのだ」、その思いが沸々とよみがえってきて、そして初めての礼拝説教に臨んだのです。嬉しかった。御言を語ることに喜びを感じた。それが、「初めて」という緊張をも吹き飛ばしてくれたのであります。
そして実は、そのとき説教した聖書の箇所が、今日の御言、ルカによる福音書第一五章一節からだったのであります。あれから、二七年経ちました。そして今日もう一度、この御言を語ることができる、しかも、皆様と共に聴くことができる、その幸いを神様に感謝しております。
ルカによる福音書第一五章、一節から、もう一度、お読みいたします。ルカによる福音書第一五章一節から。
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
このルカによる福音書第一五章には、三つの譬え話が出てきます。新共同訳聖書の表題を追っていただければいいと思いますが、「見失った羊の譬え」、「無くした銀貨の譬え」、そして、「放蕩息子の譬え」です。どれもよく知られた譬え話でありまして、特に三番目の「放蕩息子の譬え話」は、教会に通い始めたら、すぐに覚える、またすぐに覚えていただきたい譬え話でもあります。そしてそれらの譬え話が語られる、そのきっかけが、今お読みした一節、二節でありました。
イエス様はこのとき、食事をしていたと思われます。そしてその食事の席には、大勢の徴税人や罪人たちがいた。「徴税人」というのは、今で言えば、税務署に務める人たちです。ただ、当時のユダヤは、戦争に負けて、ローマ帝国に占領されていました。従って、税金を収める先が、その敵国であるローマだったのです。そしてその税金を集めるのが、徴税人たちだった。
ローマは、税金を集めるために、少々独特な方法を取りました。ローマにしてみると、占領している地域から税金を集めるには、反発を覚悟しなければいけない。そこで、ユダヤならばユダヤの中で、税金を集めてくれる人たちを募集したのです。「徴税」を権利にしまして、その権利を高く売った。その代わりに、手数料は自由に決めてもいい、ということにしたのです。その結果、どうなったか。簡単に想像がつくと思います。徴税の権利を買った人たちは、元を取り返すために、相当高い手数料を取ったのです。しかも、バックにはローマがついていますので、払う方は文句が言えない。そのため、徴税人たちは、私腹を肥やし、その代わりに人々の反感を買う。ローマへの怒りの矛先が徴税人たちに集まっていったのです。
ファリサイ派や律法学者たち、彼らは、信仰の指導者です。そして、ユダヤの独立を強く願っていた。当然、徴税人は許せないのです。「あんなヤツらは、もはや同じ民ではない。民の恥、民の汚点。あんな裏切り者たちに天国の居場所はないだろう!」。そのようなことまで考えて、徴税人を忌み嫌った。しかしその徴税人たちが、イエス様のもとに集まっている。
そして、「罪人たち」(何かしらの罪を犯して、社会から白い目で見られていた人たちも)、イエス様のもとに集まっている。ファリサイ派、律法学者たちは、それを見て眉をひそめたのです。そして、このような不平を言った。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。「なんで、あんな連中と」ということです。「なんで、あんな連中と食事を共にするのか!」。
それに対して、イエス様は、譬え話をしてくださったのです。それが、三節から。三節。
そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
イメージ豊かな譬え話です。実際ここから、数多くの讃美歌が作られ、また、子ども向けの絵本や紙芝居などが生まれていきました。一〇〇匹、羊を持っている人がいた。しかしそのうちの一匹が、いなくなってしまった。すると、その人(その羊飼い)は、九十九匹を野原に残し、いなくなった一匹を捜しに行く。そして見つけたら、近所の人たちまで集めて、大喜びをした、というのです。私も、何度も、教会学校や他の場面で、この譬え話を子供たちに語ってきました。そしていつでも、子供たちは喜んで聴いてくれた。それだけイメージが豊かで、また印象深い譬え話。
さらに、イエス様は、このような譬え話もしてくださいました。一節飛ばして、八節。
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
今度は、一〇枚の銀貨を持っている女性です。やはり、そのうちの一枚が無くなり、必死になって捜す。そして見つけると、先ほどと同じように、近所の人たちまで集めて大喜びをするのです。
こちらは、少しだけ分かりにくいかも知れません。なんで銀貨だったのか。しかも、なぜ、女性が主人公だったのか。実はこれは、簡単に説明がつきまして、銀貨一〇枚というのは、「単なる生活費だった」とも考えられるのですが、もう一方で、「結納の品だった」とも考えられるのです。結婚するとき、当時の女性たちは、実家から銀貨一〇枚を持参した。しかも、それに穴を開けて、糸を通し、首飾りのようにして持ってきた。(銀貨一〇枚というのは、それほど大きな額ではなかったようですが、一つのしるしとして持ってきた。)それが、何かのはずみで、糸が切れて、バラバラになってしまったと考えられるのです。そして、当時の家には電気がありませんから、ともし火をつけ、ほうきで家を掃いて、丹念に捜す。きっと、ほうきで掃いた先で、「チャリン」という音がしたのでしょう。その音を頼りに、無事、銀貨を見つけることができたのであります。
イエス様は、このような譬え話をなさり、そしてこう言われたのです。七節。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
そして、一〇節。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
イエス様は、言われる。「天は、喜んでいる」。具体的なことです。徴税人や罪人たちが、わたしのもとに来て、悔い改めが起こっている。そのことを、天が喜んでいる。ファリサイ派、律法学者たちよ、あなたがたは、眉をひそめる。しかし、天は(神様は)、このことを何よりも大きく喜んでおられるのだ! イエス様は、そうお語りになるのです。
ある人が、こう言いました。「イエス様は、ここで、天を開き、天を見せてくださっている」。いい表現だと思いました。
家のようなものを想像していただけるといいと思うのです。ある家の中から、笑い声が聞こえる。また陽気な歌や音楽が聞こえる。「何をしているのだろう」と通りがかりの人たちが足を止める。すると、そこで一瞬、その家のドアが開いたのです。すると中では、お祝い、パーティーが行われていたことが分かる。そしてそれが、徴税人や罪人(罪人たち)が、神様のもとに戻って来た、そのことを祝うパーティーだったのであります。イエス様は、ここで、天を開き、天の様子を見せてくださった。「天は、とっても喜んでいるのだ!」。
このイエス様の譬え話。一つは、明らかに、ファリサイ派、律法学者たちへの反論として語られました。「あなたがたは、そう考えるのかも知れないけれども、天は、こう考えている」、その反論として語られた。しかし、実は、それだけではないのです。イエス様はこの譬え話を、特徴的な語り方をしてくださっています。それは、どういう語り方かと言うと、聴いている者たちに、問いかける語り方、そして、同時に、「強い同意」を求めている語り方なのです。
全体としてそうなのですが、例えば、四節。「一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。この最後の部分、「捜し回らないだろうか」。これは、問いかけです。そして、「強い同意」も求めている。「あなたがたも、捜し回るでしょ。捜し回って、当然でしょ!」。六節もそうです。「見つけたら、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。当然、当たり前のこととして、見失った羊を見つけたら、みんなを呼んで、「一緒に喜んでほしい」と言うでしょ!
「さあ、そうだろうか」と私たちは思うのです。これは、私たちの問題です。私たちが、このイエス様の問いの前に立たされる。「あなたは、どう思うか。あなたも、当然そう考えるでしょ。また、そのようにするでしょ!」。イエス様は、私たちにそう問いかけておられる。
聖書というのは、もちろん、聖書そのものもおもしろいのですが、その解釈の歴史というのも、おもしろい、また楽しいものであります。このイエス様の譬え話、特に、見失った羊の譬え話も、色々な解釈がなされてきました。特に、人々の関心を集めてきたのが、「九十九匹を野原に残し」という部分でありまして、これを巡って、様々な解釈が起こった、つまり、「これで、本当に、いいのか」という疑問が生まれたのです。
例えば、このように読んだ人がいました。「一〇〇匹もの羊の群れを世話するとき、羊飼いが、たった一人だったとは考えにくい。クリスマスに出てくる羊飼いたちのように、羊飼いたちは、必ず何人かで羊の群れの世話をした。だからこの時も、一人の羊飼いが、いなくなった羊を探しに行き、他の羊飼いたちは、残りの九十九匹の番をしていたのだ。九十九匹も、安全に守られていたのだ」。ある人はそう読んだ。
また、これは、ある国の子ども向けの讃美歌が、そうなっているそうですが、「この羊飼いは、いなくなった一匹を捜しに行く前に、まず、九十九匹を安全な場所へと連れて行った。安全な場所、羊小屋へ連れて行き、鍵も閉め、それから、いなくなった一匹を探しに行った」。(ちなみにこれは、明らかに解釈のしすぎでありまして、イエス様は、九十九匹を野原に残してと語っておられる。この「野原」という言葉は、元々は、「荒れ野」という言葉で、危険な獣も多い荒れ野に、九十九匹を残していった。)さらには、私、「実は、犬がいたのだ」という説明も聞いたことがあります。「羊飼いは、必ず、牧羊犬を連れていた。その犬に、残りの九十九匹を託し、いなくなった一匹を捜しに行った」。
どれも、気持ちは分かるのです(そう考えたくなる気持ちは、分かる)。なぜならば、私たちだって思うからです。「確かに、一匹の羊を追い求める羊飼いの姿は、美しいかも知れない。しかし現実問題、残りの九十九匹は、どうするのだ。たった一匹のために、九十九匹を犠牲するのか。いや、むしろ、羊全体に責任を持つ羊飼いならば、九十九匹のために、一匹を犠牲にすることも、時に必要なのではないだろうか!」。
これらは、何か。「九十九匹」を巡る解釈の歴史、また、私たちも、どこか納得がいかない、これらは一体何か。
これらはすべて、イエス様から、「当然、当たり前でしょ」と言われて、素直に、「はい、そうです、アーメン」と言えない私たちの姿なのです。イエス様が、天のドアを開けて、天を見せてくださった。しかし、そのとき、私たちと、天とのズレが明らかになったのです。天の感覚、天の考え、そして天の喜び、それらと私たちとの間にズレがあった。そしてそのズレが、私たちの「罪」だったのです。
どういう「罪」、また、どういうズレか。
(実は、このことについては、今日の説教、一回だけで、すべてを心に留めることはできません。この第一五章を読みながら、繰り返し、心に留めていかなければならないこと)しかし、今日の御言に従って、今日は一つだけ、心に留めるならば、イエス様が示してくださった「天」、その天の心は、「憐れみ」だった。その「憐れみ」と、私たちとの間にズレがあった。いや、「ズレ」なんてものではない、「大きな隔たり」があった。その隔たりが、私たちの罪の深さだったのです。
「九十九匹を野原に残して」、これは、「天の憐れみ」以外なにものでもないのです。「一匹いなくなった、一匹が失われた」、そのことに対して、羊飼いは、もう居ても立ってもいられないのです。じっとなんかしていられない。もう他のことは考えられず、一匹のために、飛び出していくのです。「憐れみ」が、そうさせる。まるで火がつき、憐れみが、体の中で爆発するように、この羊飼いは、一匹の羊を捜し求めるために飛び出していくのです。イエス様は言われる、「天は、(天の父なる神、そしてわたしは)そういう憐れみを抱いてるのだ。徴税人、罪人、そして、あなたがた一人一人に対して、憐れまずにはおられないのだ!」。
そしてイエス様は言われる、「捜し回らないだろうか」。あなたも、この憐れみに、生きてほしい。天の憐れみ、父なる神、そしてわたしのこの憐れみに、あなたも、生きてほしい! つまり、イエス様は、ファリサイ派、そして律法学者、そして私たちが、この一匹を捜す羊飼いになることを求めておられるのです。
「憐れみのなさ」、それが、私たちの罪です。一匹失われても、どうってことない。仕方がない。いやむしろ、あの人は、自分から出て行ったのではないか。自業自得と言えるのではないか。そう言って、憐れみどころか、冷たく、ひえた心を持つ。それが、私たちの罪です。イエス様が示してくださった天と、いかにズレているか、大きく隔たっているか、それこそ、天と地ほどの差がある。それが、私たちの罪の深さ、そのぐらい私たちは、神様のもとから、失われてしまっている。そしてイエス様は、その私たちをも、探し求める!
私は思いました。イエス様はここで、ファリサイ派、律法学者たちの不平を聞き流されてもよかったのではないか。「また言っている。いつまで経っても、物わかりの悪い連中だ」、そう言って、あっさり聞き流してしまわれてもよかった。しかし、イエス様はそうはなさらない。見失った羊の譬え、無くした銀貨の譬え、そして放蕩息子の譬え、こんなにも素晴らしい譬え話を、続けて語り続けてくださる。私は、あっと思った。まさにここに、失われた羊を捜す羊飼いの姿があるではないか!
ファリサイ派、そして律法学者、そして私たちも、神様のもとから失われれた羊なのです。憐れみを忘れた、冷えた心しか持てない失われた羊。その私たちのために、これらの譬え話をしてくださる。繰り返し、御言を語り、「あなたも、あなたも、羊飼いになってほしい」と語りかける。そして、イエス様は、そのために、最後は十字架にまでついてくださったのです。イエス様は、そこまで、その私たちを深く憐れんでくださった。また、私たちを憐れまずにはおられなかった。
イエス様は語る。十字架にかかってくださった、まことの羊飼い、イエス様が今日も語る。「あなたも、憐れみに生きてほしい。わたしと同じ羊飼いになって、一人が失われたら、わたしと一緒に、見つけ出すまで捜し回ってほしい。そして見つけたら、わたしと一緒に喜んでほしい。わたしと一緒、天と一つとなって、あなたも、喜ぼうではないか。そして、その喜びこそが、あなたにとっても、最上の喜び、いのちの喜び。その喜びに、わたしが、あなたを生かすのだ」。イエス様は、今日も私たちに、そう語りかけてくださっているのです。
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山上の説教5
礼拝説教「求めなさい。探しなさい」牧師 鷹澤 匠
マタイによる福音書 第7章7~12節
イエス様がなさった『山上の説教』を読んでいます。
今日は、(いや、「今日も」と言うべきかも知れませんが、今日も)大変よく知られた聖書の言葉が出てきます。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
私、新潟県にあります敬和学園というミッション高校の出身であります。その高校では、毎朝、礼拝がありました。今では立派なチャペルがあるようですが、私がいた頃は、体育館。全校生徒が体育館に集まり、クラスごとに並んで、床に座る。そして説教を聴く。一五分か長くても二〇分ぐらいの礼拝でしたが、それが、毎朝ありました。
その礼拝では、洗礼を受けているキリスト者の教師が、礼拝説教を担当しました。しかし時々、高校生(生徒)も、説教を担当することがあったのです。まぁ、「説教」と言うよりも、聖書の言葉を自分なりに読んで、今考えていることを述べる、今思っていることを語る。そんな感じの説教でした。
しかし、高校生であった私たちは、先生が語るときよりも、先輩や友人が語るときのほうが、はるかに真剣に耳を傾ける。そして、そのように真剣に聞いた話というのは、いつまでも覚えているものであります。
そして、生徒(高校生)が選ぶ人気ナンバーワンの聖書の箇所が、今日の礼拝の御言でした。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。
皆様も、なんとなくでも想像がつくと思います。高校生です。それなりの時期が来ると、みんな、自分の将来を考え始める。この先、どのようにして生きていこうか。仕事は、勉強は・・。また、自分はどんな自分になりたいのだろうか。そのような時期を迎える高校生にとって、このイエス様の言葉は、心に響くのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」。中には、「自分には、どうしても行きたい大学がある。その門を叩いて、叩いて、それでも開かなければ、足で蹴破ってでもいいから、その大学に入る」、そういう話をした先輩もいました。そうかと思うと、「『求めなさい』と言われるけれども、正直、何を求めていいのか分からない」、そのようなことを語った友人もいた。私もうなずきながら、それらの話を聞いたのを覚えています。いずれにせよ、このイエス様の言葉は人気だった。高校生だった私たちの心に響くものがあったのであります。
同じように、この御言に色々な思いを抱いてこられた方も多いと思います。人によっては、この御言に背中を押された。またいつも、背中を押してもらっている。そのような方もきっとおられることでしょう。
ある牧師が、この御言を説教で説きながら、羽仁もと子という人の文章を引用していました。ちょうど私が、この春、皆様にお配りした修養会の資料、『キリスト者の生活』、そこにも引用させていただいた文章です。このような文章です。
「私たちの精神生活の二つの動力の一つは『やってみよう』と自ら励ます力で、一つは『駄目だ』と抑える力です。私たちの中にある『やってみよう』という動力は、実に私たちの造られたままの本体です。ひたすらにそれに従って生きる時に、あふるる恩寵の中に不思議な心の歓びを経験します。しかし駄目だ駄目だとささやくものも、また確かに私どもの内部に住んでいるのをどうしましょう。鉛のように重いのは人の世ではないでしょうか。今私たちの中に巣くっている『どうせ駄目だ』という動力は、健全な呼吸をする力を蝕んでいく黴(ばい)菌(きん)と同じことです。罪と称するのが適当だと思います。」(抜粋)
私、名文だと思います。私たちの中には、二つの動力がある、と言うのです。機械で言えば、二つのモーターがある。一つのモーターは、「やってみよう」というもの。でも、もう一つは、「どうせダメだ」というもの。そして、「やってみよう」という動力(モーター)が動くとき、私たちは心の喜びを経験する。なぜなら、それが、神様に造られた人間本来の姿だから。しかし、「どうせダメだ」という動力が動くとき、世の中は鉛のように重くなる。「どうせダメだ」という動力は、ばい菌であり、罪と呼ぶべきものだろう。羽仁もと子という人は、そのように書くのであります。
羽仁もと子は、明治生まれで、大正、昭和と生きたキリスト者です。私、以前、この人について講義をする機会がありまして、一度丁寧に調べたことがありました。びっくりしました。実に色々なことをやっている。日本人初の女性ジャーナリストであり、やがて、『婦人の友』という雑誌を刊行し、その読者に支えられながら、学校まで作った。また、自然災害が起これば、今で言うところの『災害支援』を全国展開でおこなったり、また、日本に家計簿を普及させたのも、羽仁もと子であります。「神様は、一人の人の人生に、よくこれだけのことをさせたな」、そのように思えるほど、羽仁もと子は色々なことをした。まさに、「やってみよう」の塊のような人だったのです。もちろん、中には、うまくいかなかったこともあったはずです。事業を展開し、早々に撤退したものもあったはずです。しかし、「やってみよう。それが、神様に造られた人間の姿なのだから!」、今日の御言で言い換えれば、「求めなさい、そうすれば与えられる」、その御言に、羽仁もと子は生きたのであります。
そして、それは、私たちも同じなのであります。
「求めなさい、そうすれば与えられる」。
当然、「やってみること」は、人それぞれ違います。神様に与えられている使命、場所、また与えられている力も、人それぞれ違うからです。しかし、イエス様は私たちにも、「求めなさい」と言われる。イエス様は、私たちの背中も押す。だから、「どうせダメだ」ではなく、「やってみよう」と言って、私たちも、一歩、踏み出すのであります。
このように、このイエス様の御言を、広い意味で受け取ることは、充分可能です。またそれも、イエス様の意図に沿った聖書の読み方だと思います。しかし、(これは、毎回申し上げていることですが)この御言にも文脈がある。私たちは、「この御言が山上の説教の中にある」、そのことも大事にしなければいけない。
聖書を研究している学者たちは、この山上の説教の全体の構造を分析します。そして、多くの学者が、「この七節から一二節をもって、一旦、山上の説教の本文が終わる」と考えます。山上の説教そのものは、もう少し続くのですが、この先は、言ってみれば、「エピローグ」、結語のような部分で、この七節から一二節で、一旦本文が終わる。そのように多くの学者は考えるのです。そして、この終わりの部分は、「ここまでのことを踏まえて、最後にイエス様が、どうしてもお語りになりたかったこと」、「これを語らずには、終われない」、イエス様がそう思われたこと、私はそう読んでもいいと思うのです。そうなってくると、この部分を読むためには、山上の説教全体を視野に入れる必要が出てくる。
山上の説教、一昔前は、『山上の垂訓』と呼ばれていました。「垂れる・訓示」と書いて、「垂訓」です。ただ今は、『山上の垂訓』と呼ぶ人はほとんどいなくなりました。一つの理由は、「垂訓」という言葉が、今ほとんど使われなくなった、通じなくなったためです。そしてもう一つの理由は、山上の説教は、ただの訓示(教え)ではない。山上の説教は、イエス様による祝福の言葉から始まり、また、この説教の中でイエス様は、主の祈りも教えてくださっている。山上の説教は、決して「教え」ばかりが並んでいるのではない、よって、「垂訓」よりも、「説教」と呼ぶにふさわしい。
私も、それでいいと思います。「山上の説教」は、説教です。しかし、そうは言っても、「垂訓」、イエス様はここで、私たちに信仰の生き方を教えてくださっている、その「教え」の部分が大半を占めていることは、誰が読んでも明らかなのです。イエス様は、この山上の説教において、私たちの生き方、私たちの在り方を示してくださった、そして私たちが、そうなることをお命じになっておられる。そして、私、「その中身は、大きく二つある」と思っているのです。一つは、「人を愛すること、もしくは、人を赦すこと」。
イエス様は言われました。「兄弟に腹を立てるな」、「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」、「あなたの敵を愛せよ」、そして、「人を裁いてはならない」。
「人を愛しなさい、人を赦しなさい」。それが、一つ目のこと。
そしてもう一つは・・、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」、そして、「思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。
もう一つは、「人ではなく、神様を見ること」なのです。私たちは、ついつい、人の目が気になってしまいます。人の評価が、人がどう思うかに、心が取られる。また、自分の目も気になる。「自分が、自分をどう見ているか」。そして、(結局同じことなのですが・・)私たちは、自分の悩みに捕らえられると、それがすべてになってしまうのです。しかしイエス様は、「そうであってはならない」と繰り返しお語りになってきたのです。「人ではなく、自分でもなく、神様!、神様に目を向けなさい。神様に向かって、善行をおこない、神様に向かって祈りをし、そして、神の国と神の義を求めなさい」。
しかし、どうでしょうか。私たち、しばしば、それができなくて、立ち尽くしてしまうのであります。どうしても、愛せない、赦せない。また、どうしても、人の目から自由になれず、また自分の悩みに心取られて、そこから動けない。まるで、大きくそびえ立つ壁を目の前にするように、その壁の向こうに行けなくて、途方に暮れて、立ち尽くしてしまうように。
けれども、イエス様は言われるのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。
そして、イエス様は、このようにお語りになる。九節からです。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
イエス様はここで、物をねだる子どもを譬えに用います。子どもがお腹を空かせて、親にパンをねだる。また魚を求める。そのとき、あなたがた親は、子どもにパンの代わりに石を与えることはしないだろう。魚の代わりに蛇を与えるはずがないだろう。親ならば、子どもに必ず良い物を与える。ましてや、天の父なる神様は、求めるあなたがたに良い物を与えてくださる。つまり、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」というのは、神様に向かってすることなのです。それは、祈ることと言ってもいい。神様に、祈り求めなさい。おねだりをする子どものように、神様にお願いしなさい。
ある人が、ここで、このようなことを言いました。
「ここでの『求めなさい』というのは、勧めではなく、命令である」。
「勧め」というのは、「やってみたら、どうですか。やったほうがいいですよ」というものでしょう。しかし、「命令」というのは、必ず、やらなければならないことです。やってもいいし、やらなくてもいい、そのようなものではない。そして、この「求めなさい」というのは、命令だとその人は言うのです。
「ああ、そうか」と思いました。私たちは、壁の前で立ち尽くす。「どうしても、愛せないし、赦せない」。また、「人の目から自由になれないし、この悩みから動けない」、そう言って、立ち尽くす。しかし、その私たちに、イエス様は命令されるのです。「求めなさい! 探しなさい! 門をたたきなさい! あなたには、神様がおられるではないか。その神様は、求める者に良い物を与えてくださる父なる神様ではないか! これは、わたしの命令である、神様に、求めなさい!」。
私たちは、その命令を聞いて、またその命令に従って、祈るのです。「神様、あの人を愛し、また赦すことができるその力を、わたしに与えてください」。また、「神様、どうか、他の人の目、人の評価から自由になることができる、その力を与えてください。そして、この悩みに打ち勝つ力、それをあなたが与えてください」。それは、「信仰をください」という求めだと言ってもいい。また、「愛する心を与えてください」という祈りだと言ってもいい。そしてそれらは、羽仁もと子が言う、私たちを内側から動かす、「やってみよう」という動力でもある。私たちは、それらを神様からいただいて、一歩、踏み出す。赦す一歩、また、神様にゆだねる一歩。
そして、私は、その求め(祈り)というのは、「子どもがするおねだり」に極めて近いと思っているのです。
パンを欲しがる自分の子供に。
この「欲しがる」という言葉を、私は、「おねだり」と表現しているわけですが、私、最初、「おねだり」という言葉を、今日の説教に使ってもいいのか、迷いました。と言いますのは、日本語の辞書を引きましたら、「ねだる」という言葉は、漢字にすると、「強い」という字に、請求の「請」の字で、「強請(ねだ)る」と書くそうなのです。つまり、ねだるというのは、強く請求すること。そして、(私も驚いたのですが)その「強請(ねだ)る」という漢字は、「ゆする」とも読むそうなのです。
「ゆする」というのは、私の中では、ほとんどいいイメージがありません。「暴力で、ゆすられて、お金を取られる」、そのようなイメージしかない。ですから、今日の説教で、「おねだり(ねだる)」という言葉を使うか・どうか、正直、迷った。しかし、今日の御言を思い巡らしながら、「でも、私たちの求め、そして私たちの祈りは、まさに、『おねだり』ではないか」と思ったのです。
「無いものねだり」などという言葉もありますが、私たちは、時に、自分の中をいくら探しても、何も見つからないことがあるのです。「あの人を赦す」、そのような心が、自分の中に一欠片も見つからない。「門をたたけ」と言われても、悩みの大きさに打ちひしがれ、叩く元気さえない。だから、神様に求めるのです。「無いものねだり」、子どもが親にねだるように、神様に、「どうか、その力をわたしにください」と祈る。「信仰を、愛を、そして、『やってみよう』という動力を、神様、あなたが、わたしに与えてください」。
そして、イエス様はこの箇所の最後に、このように言われる。一二節。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
この一二節は、山上の説教全体のまとめだと言われています。イエス様が私たちに求める生き方は、とどのつまり、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にする」。自分がしてもらいたいと思うことを、自分が、人にしてあげる。そのような生き方をイエス様は私たちに求めている。
私たちは、何をしてもらいたいのか。結局、私たちは、何を求めているのか。私たちは、人に、そして神様に、愛してもらいたいのです。人に、そして神様に、赦していただきたいのです。それを、私たちが、人にする。私たちも、人を愛し、人を赦して、生きていく。自分から、してもらいたいことを人にする。そして実は、私たちはそのことを、心の底で強く願っているのです。なぜならば、それこそ、神様に造られた本来の私たちの姿だからです。そして、これこそ律法と預言者、つまり、これこそ、聖書が語っていることなのです。
どうしたら、そのような人間になれるのか。イエス様、神様が望み、そして、実は私たち自身が、最も願っているそのような人間に、どうすればなれるのか。
「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる」。
「求めなさい」。それは、イエス様の命令。貴い、貴い、聖なる命令なのであります。
山上の説教4
礼拝説教「明日のことまで思い悩む」牧師 鷹澤 匠
マタイによる福音書 第6章24~34節
だから、明日のことまで思い悩むな。
イエス様がお語りになった言葉です。
明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
私も、大好きな御言の一つです。そしておそらく、皆様の中にも、この御言を大事にしておられる方が大勢いらっしゃると思います。そして、もし、今日初めて、この御言を聴いた方がいるならば、「どういう思いで聴きましたか」ということを是非聴いてみたい。そしてこの御言を聴いて、少しでも心に動くものがあれば、それはとても嬉しいことであるし、「もう信仰の芽吹きが始まっている」、そう言ってもいいと私は思っています。そのような御言を今日、皆様とご一緒に心に留めることができる。私にしてみれば、この御言を説くことができる。その幸いをまず神様に感謝したいと思います。
そして今日の聖書の箇所、「思い悩むな」という言葉が、三回繰り返されるのですが、それとセットになって、一緒に繰り返される言葉が、もう一つ、出てきます。それは、「だから」という言葉なのです。
二五節。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
三一節。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」
そして、三四節。「だから、明日のことまで思い悩むな。」
イエス様は必ず、「だから」と言ってから、「思い悩むな」と言っておられる。つまり、私たちが思い悩まなくてもいい根拠がある。思い煩いから解放される理由がある。その「根拠」、その「理由」は何か。
川を遡るようにして、「だから」という言葉の先を追っていくと、「富」の話が出てくることに気がつきます。今日は、その二四節から読んでいきたいと思います。マタイによる福音書第六章二四節。イエス様は、このようにお語りになります。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
イエス様は、一九節から、富の話を始めました。「あなたがたは、地上に富を積んではならない。・・富は、天に積みなさい」、イエス様はそのように言われ、そして、二二節から目の話をなさる。これも話の流れの中で読むと、「あなたは、何を(または、どこを)見ているか」という話でありまして、「ちゃんと天を見ているか。地上ばかり見ていないで、天を(神様を)見上げなさい。そうすれば、目にともし火がともり、体全体が明るくなる」。イエス様はそのようにお語りになったのです。そしてそのすぐあとに、先ほど読んだ二四節、「神と富、二人の主人に仕えることはできない」と言われた。「神様と富。あなたの主人は、どちらか一人だ」と。
このイエス様の言葉、もしかしたら、このように考えることもできるのかも知れません。「神と富。そもそもこの二つを並べてもいいのだろうか。天地をお造りになり、そして今もこの世界を支配しておられる神様、その神様とこの世の富をそもそも比べること自体、おかしいのではないか、神様に対して失礼にあたるのではないか」。もしかしたら、そのように考えることもできるのかも知れません。
しかし皆様は、そうは考えないでありましょう。私もそうです。私の中でも、またきっと皆様の中でも、この二つは、残念ながら並んでしまう。また、情けないことに並んでしまう。もちろん、「神様と富が、同等だ」とは言いたくはありません。私たちは神様だけを主人としたい。しかし、生活の中で、この世を生きる中で、富がまるで私たちの主人のような顔をする。富が、あるときは、私たちを屈服させ、またあるときは、私たちの方から富に対して、しっぽを振る。二人の主人は、私たちの中で、残念ながら並び立つ。その意味でも、イエス様は本当に私たちの弱さを知っておられた、私たちの不信仰をよくよくご存じであった。そうとも言えるのであります。
私の神学校時代の後輩でもあり、友人でもある牧師が、今、広島で伝道をしています。もう一〇年ぐらい前になるのですが、その友人が、『信徒の友』という月刊誌に文章を寄せていました。その月の『信徒の友』は、献金についての特集号でありまして、友人も、献金についての文章を寄せていたのです。「ああ、コピーを取っておけばよかったな」と今になって思うのですが、とてもいい内容だったことを覚えています。そして細かいことは忘れてしまったのですが、今でも覚えているフレーズ、焼き付くように残っているフレーズがあるのです。それは、こういう文章なのです。
「私たちは、お金に負けてはいけません」。
私たちは、お金に負けてはいけない。献金というのは、その証しでもあるのだと言うのです。
「確かに」と思った。そして私、そこで思わず、こんなことまで思い出しました。私が初めて赴任した教会は、静岡県の御前崎にあった教会でした。小さな町の小さな教会で、礼拝の出席も、当時は一〇人に満たないぐらいでした。そして、(以前にも紹介したことがありますが)私、その教会の近所の男の子たちと仲良くなりまして、毎日、その子たちが遊びに来ていました。しかし日曜日は、礼拝がありますので、一緒には遊べない。そこで、時々ではありましたが、男の子たちも、大人の礼拝に出席していたのであります。
おそらく、彼らが初めて礼拝に出たときだったのではないかと思います。男の子たちは、妻の横に座って礼拝に参加していたのですが、彼らにとってみれば、初めての礼拝、なにもかも新鮮で、緊張して静かに座っていました。しかし献金になった。そこで献金箱がまわってきて、妻は、財布から千円札を取り出し、その献金箱に入れたのです。そうしましたら、それを見ていた男の子たちは、思わず大きな声でこう言ったのです。「あー、もったいね!」。
私、今でも時々ですが、献金をお献げするとき、その時のことを思い出す。初めて見た献金を彼らは、「もったない」と思った。じゃあ、わたしは、どう思っているのだろうか。もちろん、毎回、「もったいない」と思いながら、献金しているのではありません。しかし、全くその気持ちがないか。また、もしかして、「もったいない」、そう思わない額、もったいなくない額、つまり、あまり懐が痛くならない額を、お献げしているだけではないか、「いや、そんなことはない。神様に対して、そのようなことがあってはならない」。時々私、そのようなことを考える。
献金は、神様への感謝であり、献身のしるしです。しかし、私の友人の言うとおり、確かにそこには、お金との戦いがあるのです。そして、私たちは、お金に負けてはいけない。
二四節にある「富」という言葉。この言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、「マンモン」という言葉が使われています。
その「マンモン(「マモン」と言ったりすることもあるのですが・・)という言葉は、元々はヘブライ語、そしてイエス様が実際に口にしておられたアラム語から来ている、と学者たちは解説します。
少しややこしい話になりますが、新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。マタイによる福音書もそうです。しかし、イエス様ご自身は、また当時のイスラエルの人たちも、ギリシャ語ではなく、アラム語を使って話をしていました。ですから、イエス様がお語りになったこの山上の説教も、元々は、アラム語で語られ、それをこの福音書を書いたマタイが、ギリシャ語に翻訳した。しかし、この「マンモン」という言葉。この言葉は、マタイが、あえてイエス様が言われた通りの言葉の響きをそのまま残したのではないかと言われているのです。そして、この「マンモン」という言葉は、ある説によると、「アーメン」という言葉に起源を持っているそうなのです。
「アーメン」。私たち、祈りの最後にそのように口にします。そしてそれは、「確かに、その通りです」という意味です。そして、(これは、信仰とは別のところで)昔の人々は、富のことを、「アーメン」と呼び始めた。富こそ、確かなもの。お金こそ、変わらないもの、間違いがないもの。その「アーメン」から、「マンモン」という言葉が生まれたのではないかと言われている。
そうなってくると、ここでのイエス様の言葉は、ますます私たちに迫ってくるのです。「あなたは、神様に、『アーメン』と言うのか。それとも、この世の富に、『マンモン、アーメン』と言うのか」。
もちろん、イエス様がおっしゃりたいことは、「神様こそ、『アーメン』にふさわしいお方」ということです。「あなたがたが、『アーメン』と言って、お仕えできる主人は、神様をおいて他にない! 虫がついたり、さびたり、また盗人の手が及ぶような地上の富が、『アーメン』、確かなものであるはずがない。神様、神様こそが、『アーメン』にふさわしいお方。『アーメン』と言って、すべてをゆだねることができる主人。あなたがたのまことの主人は、神様だけなのだ」。そして、そのイエス様が、ここまで繰り返し語ってきてくださったのは、「そのまことの主人である神様は、あなたがたの父なのだ」ということなのです。
「だから」という言葉を遡っていくとき、私たちは、もっと遡る必要が出てきます。イエス様は、この山上の説教で繰り返し、「あなたがたの天の父」ということを語ってきてくださった。「あなたがたの天の父が完全」、また、「隠れたことを見ておられる天の父が、あなたに報いてくださる」。
「天の父」、あなたがたを子どもと見なさしてくださる天の父。あながたのことを本当の自分の子どものように愛してくださる天の父、その天の父が、あなたがたの主人!
神様という主人は、無慈悲で冷酷な方ではないのです。「しもべなんて、いくらでもいるのだから、一人ぐらいいなくなってもかまわない」、そのように考える主人ではない。また、「このしもべは、もう役に立たないから、見捨ててしまおう」、そのようなことを言う主人でもない。まるで本物の父親のように、いや、本物の父親など、到底及びもしない大きな愛をもって、私たちを大事に大事にしてくださる。そしてこの主人は、なんと、自分のまことの子ども・イエス様を捨ててまで、私たちしもべたちのことを愛してくださった方なのです。その父なる神様が、あなたがたの主人。あなたがたを支配し、あなたがたを常に配慮し、そして最後の最後まで、あなたがたを愛し抜いてくださる。だから、イエス様は言われる、だから、思い悩むな!」。二五節。
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな!
「だから」の中身は、天の父なる神様なのです。あなたの主人は、父である神様。だから、思い悩むな。
そして、イエス様は、ここから、鳥の話をなさいます。二六節。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
今日の箇所ですが、とても内容が豊かですので、今週と来週、二回に分けたいと思います。来週は、このあとに出てくる「野の花」に焦点を当てていきます。今週は、鳥の話。イエス様は、「鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。でも、神様が養ってくださっているではないか」と言われる。
最近、ちょっと困っていることがありまして、教会の敷地内に、カラスが群れで生活するようになってしまいました。昨年と今年、教会の裏の敷地の一番高い木の上に、カラスが巣を作りまして、そこで何羽もひなをかえしました。それが今、群れになっていまして、朝起きると、修祷館の屋根に、七羽か八羽、ずらっと並んでいるのです。そして、園庭の畑を荒らしたり、なり始めている柿の実をついばんだり、そしてよくやられるのが、どこから持ってくるのか、色々なゴミを教会の前庭に捨てていくのです。こないだ、びっくりしたのは、わりと立派な魚のお頭が、骨になって落ちていました。「やれやれ」と思って、私拾って、ゴミ箱に捨てたのですが・・。
しかし、今日の御言、「空の鳥をよく見なさい。あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」、この御言を心に留めながら、教会のカラスを見たとき、ちょっとだけ、(本当にちょっとだけですが・・)カラスもいとおしく見えました。「ああ、神様は、このカラスたちも養ってくださっている。しかも、教会で、養ってくださっている!」。
このような話も、聞いたことがあります。鳥というのは、とにかく食べ物の消化が早いそうです。空を飛ぶために、少しでも体重を軽くしなければいけない。だから、何かを食べても、体の中にためることはせず、すぐに消化する、糞として出してしまう。
全部の鳥がそうではないのでしょうが、特に体の小さな鳥は、そうなのでしょう。鳥は、倉を持って食物をためないどころか、自分の体の中でも、食べ物をためることはしない。だから、四六時中、食べ物を探し続けなければならない。しかし、神様が養ってくださっている。イエス様は言われる、「神様が、ちゃんとあの鳥たちさえも、養ってくださっているではないか。ましてや、あなたがたのことを、神様がお見捨てになるはずがないではないか」。
そして、イエス様はこう言われるのです。(「野の花」のことは、来週読みますので、)三三節。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
「神の国」というのは、「神様のご支配」という意味です。今日の御言で言えば、「神様が、私たちの主人」ということ。そして、「神の義」というのは、「神様の正しさ」という意味で、「神様が、私たちにとって、ずっとずっと、正しく主人でいてくださる」ということです。つまり、「いつまでも、いつまでも、神様が正しく、揺らぐことなく、わたしの主人でいてくださる、愛の主人でい続けてくださる」。それを求めなさいというのです。つまり、「わたしの主人は、神様。神様が、わたしを見放すことも、見捨てることもしない」、それを求める、そこにとどまり続ける。「神様が、主人」、同時に、「神様が、わたしの父」というところに、私たちは、踏みとどまり続けるのです。
イエス様は言われる。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
明日のことは、私たちの主人に、おまかせするのです。私たちは、その日その日の苦労、その日その日に、主人から与えられた自分の務めを果たせばいい。明日のことは、主人が考えてくださる。そしてその主人は、私たちが負いきれない、背負いきれない重荷を負わせるはずはない。だから、今日の苦労は、今日でおしまいにする。明日は明日で、その主人から、ふさわしい務めをいただけばいい。
「思い悩むな」。先に紹介した私の友人の言葉で、ここを言い直すならば、こういうことになるでしょう。
「私たちは、悩みにも、負けてはいけません」。
私たちは、お金にも負けないし、悩みにも、負けない。そして、私なりにその言葉を補足させてもらえるならば、そこで、本当に負けないのは、私たちの主人、神様なのです。
神様が、「わたしを信頼しなさい。これらのものはみな加えて与えられる」と言ってくださっている。しかも、私たちの魂に、神様が訴え続けてくださる、「わたしがいるではないか。だから、お金に負けるな、悩みに負けるな」。そしてその神様が、私たちを圧倒し、奮い立たせ、私たちに、「アーメン」と言わせてくださっているのです。「アーメン、神様、あなたこそ、確かなお方です。わたしの悩み、明日へのわずらい、すべて、あなたにおゆだねいたします。あなたが、わたしの唯一の主人なのですから!」。
ある人が、「この『思い悩むな』という言葉は、命令形だ」ということに、とてもこだわっていました。「思い悩まなくてもいいのだよ」とか、「もう思い悩む必要はないのだよ」という語りかけではなく、この言葉は、ある意味、非常に厳しい命令、主人からの命令だ、とその人は言うのです。
私、どう違うのかなと思いながら、この一週間、そのことに思いを寄せ続けました。そして、御言を繰り返し心にとめながら、段々、「こういうことではないか」と思った。私たちは、明日のことを思い悩む。しかし、本気で、私たちのことを考え、明日のことも含めて、最後まで心配してくださっているのは、神様なのです。そしてその神様が言われる。「わたしは、あなたのことをちゃんと考えている。明日のことも、その先も。それなのに、なぜ、あなたは、必要以上に心配し、おびえ、悩み、恐れるのか。そんなに、わたしが、信頼できないのか。わたしには力がなく、またあなたを簡単に捨ててしまうような愛のない者だと言いたいのか。これは、命令である。わたしのしもべであり、我が子のように愛しているあなたへの命令である。思い悩むな! 明日のことまで思い悩むな! あなたの主人は、わたしなのだから。あなたの父は、わたしなのだから!」。
私たちは、今日、この神様の御声を聴いたのであります。
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山上の説教3
礼拝説教「神様が見ていてくださる」牧師 鷹澤 匠
マタイによる福音書 第6章1~14節
今日は、礼拝の中で田澤先生の就任式もおこないました。私たちがこの先生をお迎えできたこと、また主が、先生をこの教会に遣わしてくださったことを心から感謝したいと思います。
その田澤先生へのメッセージも兼ねて、このようなエピソードを紹介することから、今日の説教を始めたいと思います。
少し前の話ですが、私、ある牧師の書斎を見せてもらう機会がありました。小さな部屋でしたが、牧師の書斎らしく本棚に囲まれ、そして部屋の奥に机が置いてありました。その牧師はいつもその机に向かって、祈ったり、説教の準備をしたりしているのでしょう。そしてよく見ると、その机の向こうに一枚の紙が貼ってあったのです。間違いなく、机に向かって座るとき、おのずと目に入る位置。そしてそこに、聖書の言葉が大きく書き記されていました。それはこのような言葉でした。
「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」。
イエス様が、弟子のペトロをお叱りになったときの言葉です。あるときイエス様は弟子たちに、「自分はやがてエルサレムに行き、十字架にかかる」という予告をなさる。それを聴いた弟子たちは動揺する。すると、弟子のペトロが、イエス様を脇に連れ出し、「そのようなことは言ってくれるな」と言って、イエス様をいさめ始めたのです。ペトロのイエス様への思いやりか、それとも他の思惑があったのか・・。するとイエス様は、ペトロに向かって厳しい語調で言われました。「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」。
その牧師は、その言葉をいつも見えるところに貼っていた。明らかに、自分への戒めとして、警告として。「あなたは、今日もちゃんと、神様のことを思っているか。人間のことを、人の目、人の声に、振り回されてはいないか」という意味で。
今日の就任式にあたり、私が、田澤先生に伝えたいことは、このことであります。私が、この三ヶ月、田澤先生と共に教会に仕えてきて、「ああ、本当にいいなぁ」と思うのは、「先生は、とてもよく人の話を聞くことができる」ということであります。人の話を聞くことができ、そしてその人に共感することができる。もちろん、田澤先生の努力もあってのことでしょうが、私は、それは、神様が田澤先生に与えてくださった賜物だと思っています。そして、先生が、これから牧会者として立っていくとき、大いに神様から用いていただける賜物となる。でも、(先生ご自身もよく分かっておられると思いますが)それだけでは、牧会者の役割は果たせない。牧会者はそこで、神様の言葉を取りつがなければいけないからです。人の声、人の思い、それをしっかり聞くことは重要。でももっと重要なことは、神様の声、神様の思いを伝えること。つまり、伝道師・牧師は、常にあのイエス様の戒めの前に立つのです。
「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている。あなたは、神様を第一にしているか。人に引っ張られ過ぎてはいないか」。
伝道師、牧師の戦いは、そこにある。
もちろん、このことは、伝道師・牧師だけに限った話ではありません。イエス様に従う私たちは皆、同じ戦いを強いられます。なぜなら、私たちの耳には、普段、数限りない人の声が入ってくるからです。中には、私たちの心を喜ばせる声もあります。また逆に、私たちの心を騒がせ、不安にさせ、場合によっては、私たちを怒りに駆り立てる声もある。そしてその声に、私たちは、下手をすると、惑わされ、踊らされ、そして神様が望まない道へと逸れてしまう。私たちは誰しも、「あなたは、神様のことを思っているのか、人間のことばかりを思ってはいないか」、そのような問いの前に立たされるのであります。だから、私たちは今、ここにいる、と言ってもいい。私たちは、ここで、心を静め、神様の声を聞く。聖書を通して、神様の心を知る。今日もご一緒に、聖書の御言に耳を傾けたいと願うのであります。
マタイによる福音書第六章一節からが、今日の御言です。マタイによる福音書第六章一節。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
イエス様がなさった『山上の説教』を読んでいます。今日の箇所から新しい段落に入ります。そしてこの段落は、第六章の一八節まで続きまして、イエス様は、この箇所で三つの信仰の習慣についてお語りになっていくのです。先日、教会研修会の資料、『読みもの』を皆様にお配りしました。『キリスト者の生活』という題で、私たちの信仰生活において心掛けたい習慣を、六つ、私なりに書かせていただきました。「祈り、感謝、言葉、そして、御心に生きること、愛に生きること、礼拝」。もちろん、その六つですべてを網羅したわけではありませんが、「まずこれを」という思いで、書かせていただきました。同じように、当時も、信仰生活において大切にされた習慣が幾つかありまして、そのうちの三つをイエス様はここで取り上げる。それは、「施し、祈り、断食」なのであります。
私たちは、その三つを、何週かに分けて、読んでいきたいと思うのですが、まず最初に知っておかなければいけないことは、「イエス様は、その三つを否定した、退けたのではない」ということです。「施し、祈り、断食」(断食は、今は大分、形が変わっていますが、)当時大切にされたその習慣は、今の私たちにとっても、大事なもの。イエス様は決して、「施し、祈り、断食」を否定して、それらを退けたのではない。
しかし、それらをおこなうに際して、あなたがたは、よくよく注意しなければいけないことがある、気をつけなければいけないことがある。それをしないと、施しも祈りも断食も、全く意味をなさなくなる。イエス様は、そのことをお語りになる。そして、(その注意しなければいけないことというのは・・、)「人の目」なのであります。
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
二節から、具体的な話が始まる。二節。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
施しというのは、当時の人たちの感覚では、二種類ありました。一つは、神様への献金です。会堂やエルサレムにある神殿で、献げ物をする。神殿では、牛や羊を献げたり、またお金を献げた。そして、もう一つの施しは、貧しい人たちへの支援。今で言えば、募金。そして、どうも当時、それらをわざわざ人前でする人たちがいたようなのです。
人からほめられようと会堂や街角でする。わざわざ、人目のつくところで、他の人たちにアッピールするようにして、献金をしたり、募金をしたりする。さらに・・、
自分の前でラッパを吹き鳴らす。
これは、一つは、比喩だと言われています。「人々にアッピールしながら施しをする、それはまるで、ラッパを吹き鳴らしているようだ」。そのような比喩として、イエス様がお語りになった。しかしもう一つの可能性は、実際にこのようなことがおこなわれていた、とも考えられているのです。
エルサレム神殿です。神殿には、今で言うところの献金箱が設置されていた。そこに、多くの額の献金を献げる人がいたら、係の人が、わざわざその人の名前とその金額を読み上げていた可能性もあるのです。「ただいま、何々様から、これだけの献金をいただきました!」。そしてその時に、ラッパも吹き鳴らしたのではないかと言われている。イエス様は言われるのです。彼らは既に報いを受けている。人から褒められて、自分の名前が人々の前でたたえられて、それでもう充分、その報いを受けている。
私たち、ここを読んで、ちょっとホッとするのではないかと思います。「さすがに、わたしは、ここまではしていない」と思うからです。「教会で献金をするとき、また募金をするとき、『人から褒められよう』とは思っていない。自分ができるだけの、精一杯のお献げ物を神様にしているだけ」。実際、そのとおりでありましょう。そして私たちの教会も、このようなイエス様の言葉を踏まえて、献金には気を配っている。例えば、私たちの教会では、「誰が、いくら、神様にお献げしたか」、それは、一切公表しない。牧師も知らないし、長老も知らない。ただ会計の責任を負う長老とその仕事をしてくださっている方だけが知っている。しかしそれも、決して人に漏らしてはいけないことになっているのです。だから教会には、ラッパはない。献金のたびに、ラッパを吹き鳴らすなんてことは、考えられないのであります。
しかし、ここで、イエス様がお語りになっていること、施し、献金において、注意すべきこと。それは、私たちにも、よく分かるところではないかと思うのです。私たちも、「人の目」、「人の声」、そして、「人から褒めてもらうこと」、それらをとても気にするからであります。
「偽善者」という言葉が、二節に出てきます。この言葉は元々、「俳優」という意味で使われていた言葉だったそうです。ちなみに、一節の「見てもらおうとして」という言葉は、「シアター」(劇場)という言葉の元になった言葉でありまして、舞台の上で、自分とは違う人を演じる俳優。そこから、「偽善者」という言葉ができたようなのです。
なるほど、考えてみると、今日のイエス様の言葉は、演劇の舞台のようなイメージなのかも知れません。俳優が舞台に立ち、演技をする。献金、施し、(そして、「施し」というのは、愛の行為でもありますので、)愛の行いをする。当然、献金も、施しも、そして愛の行いも、素晴らしいことです、神様が望んでおられることです。しかしそのとき、「人の目」を気にし始めたとき、また、「人から褒められる。賞賛」を期待し始めたとき、それは、まるで舞台俳優のようになってしまう。つまり、観客のまなざしが気になるのです。観客が、喜んで自分に拍手を送ってくれるか・どうかが、気になって仕方がなくなる。そして、拍手がないと、むなしい気持ちになるし、また苛立ちさえ覚えてしまう。
さらにイエス様は、このように言われます。三節。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
驚くようなイエス様の一言です。自分のしていることを、自分にも知らせるな、ということです。つまり、舞台のイメージで言うと、舞台の上の自分を見ている客席に、もう一人の自分が座っているです。そしてそのお客である自分が、自分のすることを褒める。「あなたは、よくやっている。あなたがしたことは、賞賛にあたいする!」。そして懸命に、自分で自分に拍手を送る。
イエス様は言われるのです。「それも、やめなさい。あなたは、それも、する必要はないのだ」。なぜならば、四節。
あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
「隠れたことを見ておられる父」。つまり、神様が、あなたを見ていてくださる。しかも、父として、あなたをご自分の子どもとして受け入れてくださった父として、神様が、あなたを見ていてくださる。そして、父なる神様は、あなたに報いてくださるのだ。それでいいではないか。それで充分ではないか。いや、それこそ、最も大事なことではないか。イエス様はそのようにお語りになる。
先ほど、「偽善者」という言葉の説明をいたしました。「偽善者」は、元々、「俳優」という言葉からできた、と。そのことを元にして、このように、聖書の言葉を深めた人がいました。その人はこのように言うのです。
古代ギリシャにおいて、舞台に立つ俳優は、仮面(マスク)をかぶっていた。日本で言うと、能面のようなもので、その仮面をつけかえることによって、一人で何役も演じた。「偽善者」という言葉は、その仮面を付け替える役者から来ている。我々は、偽善者と聞くと、よほど悪い人を考えるが、仮面をかぶり、別の役を演じるのは、我々がいつもしていることではないか。人前で仮面をかぶり、それで自分を隠し通している。
(その人は、そのように語り、そしてこう言うのです。)
「しかし、我々、仮面の下では、ひとりぼっちなのである。」
うっと思いました。私たち誰しも、仮面をつけている。人の目が気になり、人前で別の自分を演じる。しかし、仮面の下では、ひとりぼっち、寂しく孤独に苦しんでいる。
確かにそうだな、と思いました。そしてそこで、私が思ったことは、「だから、誰かに褒めてほしい」ということです。孤独だから、ひとりぼっちだから、自分がしていることを誰かに認めてもらいたい。施し、愛の行い、「あなたは、よくやっているね」。そう言って、評価してほしい。最低でも、その愛の行いをした相手から、「ありがとう」の一言が欲しい。しかし、それがかなわないと、私たちは、自分で自分を褒めるしかなくなる。
そう考えていったときに、私は、あっと思いました。イエス様は、そのような私たちの孤独を本当によく知っていてくださったのではないか。仮面をかぶり、その下で孤独に苦しんでいる、その私たちの寂しさを、イエス様は、とてもよく理解してくださっていたのではないか。だから、この一連の言葉をお語りになった。そして、力強く言われる。「あなたは、孤独ではない! 父なる神が、あなたの隠れているところも、すべて見ていてくださる。人から褒めてもらえなくても、また自分で自分を褒めることをしなくても、神様、あなたの天の愛するお父さんが、あなたのことをちゃんと見ていてくださっているし、あなたのための報いをちゃんと天で用意してくださっている。だから、人から褒められようと思って、施しをするな。自分で自分を褒めるのも、もうやめよ。人ではなく、神様。神様のことを思い、神様のことを第一にしてごらん。神様は、あなたがたを愛しているまことの父なのだから」。イエス様は、私たちにそのように言われる。
ある説教者が、この箇所の説教を語り、その説教の最後のほうで、このように語っていました。
「キリストの十字架を思い起こすことなしに、この御言を読むことはできない」。
私、どういうことだろうと思って、もっと詳しく知りたかったのですが、その説教者は、それ以上のことはあまり詳しく語っていませんでした。おそらく、聴き手への投げかけ。「それぞれ、イエス様の十字架を思い起こしながら、今日の御言を読んでごらん」、そのように投げかけて、説教を終えたのかも知れません。
そこで私、それを受け止めまして、今日の御言をイエス様の十字架を思い起こしながら、何度も読んでみたのです。そして思ったのは、「人から全く褒められずに、それどころか、あざけられ、笑われ、そして地上では、何の報いも受けなかった。それこそが、イエス様であり、イエス様の十字架であった」、改めて、私そのことを思ったのです。
まさに、イエス様こそが、最大の施しをしてくださった方なのです。神の身分でありながら、しもべの身分となり、私たち罪人たちのために、ご自分の身を献げてくださった。イエス様が、ゴルゴタへの道を十字架を背負いながら歩いたとき、誰一人として、「ああ、なんて素晴らしい愛の行為をしているのか」とは言わなかった。しかし、天の父なる神様は、そのイエス様に報いてくださった。イエス様をおよみがえりの命とし、ご自分のもと、天に引き上げ、あらゆる名にまさる名をイエス様にお与えになってくださった。
その父なる神様に、私たちもいつも、見ていただいているのです。その神様に、私たちも、愛され、期待され、そしてその神様が、私たちを褒めてくださる。私たち、これ以上、何を望むのか。
私たちも、イエス様のように自分を施す歩みをする。
人から褒められなくても、この世で報われることがなくても、「神様、イエス様、あなたが見てくださっていますね。神様、イエス様、あなたが喜んでくださっていますね」、私たちは、それで充分なのであります。
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山上の説教2
礼拝説教「積極的な愛」 牧師 鷹澤 匠
マタイによる福音書 第5章38~42節
イエス様がお語りになった『山上の説教』を読んでいます。
ある人が、この『山上の説教』について、このような趣旨のことを述べています。
「『山上の説教』の解釈の歴史は、人類の言い訳の歴史」。
一つのユーモアで、ちょっとした皮肉を込めているのですが・・。教会は、歴史の中で、イエス様がお語りになった『山上の説教』を受け止めてきました。その時、解釈もしてきた。しかしその人は言うのです、「それは、私たち人類の言い訳の歴史だったのではないか」。
こういうことなのです。今日、私たちは、このようなイエス様の言葉を受け止めます。
悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
このイエス様の言葉。本来、何の解釈もいらないのです。悪人、私たちに危害を加えてくる悪い人、そのような人たちに、あなたたちは手向かってはならない。その人が右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。何の解釈もいらない。誰でも聞けば分かる。しかし人類は、懸命にこの言葉を解釈し続けてきたのです。「このようなことが、私たちにはできるのか? いや、できないよね。じゃあ、イエス様はここで、何をおっしゃりたかったのだろうか。こうではないか、ああではないか・・」。解釈を施し、この言葉を受け止めやすいようにしてきた。そして、「せめて、これぐらいならば、私たちにも可能ではないか」、そのように繰り返し考えてきた。しかし、その人は言うのです。「結局それは、イエス様の言葉を実行に移さない、そのための言い訳だったのではないか。山上の説教の解釈の歴史は、人類の言い訳の歴史」。
今日、私はこの御言を説くために、ここに立っています。そして今日の説教が、言い訳の歴史の新しい一頁にならないことを祈っています。また今日、私が皆様に、「結局、このイエス様の御言を、皆様は、実行しなくてもいいのですよ。実行しなくても、赦されているのですよ」、そのような間違ったメッセージにならないことを、また皆様も、そのようなメッセージを期待しないことを祈っています。そのことを踏まえながら、今日、ご一緒に、このイエス様の言葉に耳を傾けていきたいと願います。
イエス様は、この言葉をこのように語り始めました。三八節からです。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
「目には目を、歯には歯を」。これは、旧約聖書の言葉です。しかし、あれっと思われた方もいたかも知れません。私たちは、中学生ぐらいでしょうか、歴史の時間に習う。「目には目を、歯には歯を」。それは、古代バビロニアの『ハンムラビ法典』の言葉。
確かに、その通りなのです。古代バビロニアの石碑から、当時の法律が刻まれた石が見つかりました。そしてそこには、「目には目を、歯には歯を」と書かれていた。そしてそれは、『同害法』、同じ害を与える、それ以上の害を与えてはいけない、そのような法律だったのだろうと言われているのです。
「目には目を、歯には歯を」、そう聞くと、何だが物騒な響きがします。「やられたら、やり返す」。まるで、復讐を促しているようにも聞こえる。しかしそうではないのです。もし、誰かに目を傷つけられたら、相手の目を傷つける、それだけにしなさい。もし、歯を一本折られたら、相手の歯を一本折る、それで終わりにしなさい。それ以上の復讐は禁止。必要以上の仕返しも禁止。『ハンムラビ法典』も、そして聖書も、そのような主旨でその掟を持っているのです。
ただ、研究者によると、『ハンムラビ法典』は、あくまでも同じ身分の人たち同士に当てはめられた法律だったそうです。つまり、自由人と自由人の間で成り立った法律。しかし、旧約聖書は違いまして、旧約聖書は、身分に関係なく、その掟が適用された。例えば、主人が、自分の奴隷を傷つけた。殴って、歯を折ってしまったら、主人はちゃんと償わなければいけない。(実際に、歯を折り返したのではなくて、「賠償」、それに見合うお金を奴隷に支払った。)その意味において、旧約聖書における「目には目を、歯には歯を」という掟は、貧しい人たちを守るためのものでもあった。
しかし、イエス様は言われるのです。
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
イエス様は、復讐そのものを禁止する。そして・・、
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
ここもなかなか、強烈なことをイエス様はおっしゃっているのです。「訴えて」とあるのは、裁判のことです。当時、貧しい人たちに、わざと借金を負わせる人たちがいたようなのです。わざと最初から返せないような借金を負わせて、そして裁判をして、その人の持ち物をすべて取り上げてしまう。そして持ち物がなくなると、その人自身を奴隷として売り飛ばしてしまう。そのような悪人、また悪行が、この言葉の背景にあると言われているのです。
もちろん、神様は(またイエス様も)、そのような悪を黙認しているわけではありません。神様は貧しい人たちの叫びをお聞きになる。そして貧しい人たちの祈りに答えてくださる。しかし、イエス様は言われる、「あなたがたが、もし、そのような不当な目に遭ったら、仕返しを考えてはいけない。下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。
そして、次も・・、
だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
当時、イエス様たちがおられたユダヤは、ローマ帝国の植民地でした。そして、ローマ軍が常に駐留し、兵士たちは、自由にユダヤの人たちをこき使うことができた。どうも、最初は、郵便のために馬を借りる仕組みだったようなのです。しかし、ローマ兵たちはそれを悪用し、例えば、重たい荷物があれば、道端にいるユダヤ人たちに運ばせた。その人が、仕事をしていようが、また怪我をしていようが、それはおかまいなし。そして、ユダヤの人たちにしてみれば、その荷物を運ぶことは、耐えられない屈辱だったのであります。「自分たちは、ローマに負けて、今、ローマの奴隷とされている」。そのことを否が応でも思い知らされる。
もちろん、これも、人々が虐げられることを、神様がよしとしているわけではありません。しかしイエス様は言われる。「もし、だれかが、一ミリオン(一.五キロ)行くように強いてきたならば、喜んで一緒に、二ミリオン(三キロ)行きなさい」。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
どういうことなのだろうか、と思うのです。「イエス様、厳しすぎませんか」、私たちは、そう言いたくなる。そして、解釈が欲しくなる。例えば、「これは、ある特定の人たち(特別に、神様に身を献げた人たち)だけが、守るべき掟。一般の人には、ここまで求められていない」。または、「これは、私たちに、罪を自覚させるための掟で、『ああ、わたしは、まだまだなのだな』、そう思えれば、それで充分」。何かしらの解釈を施して、なんとか、この御言をやり過ごしたい。私たちもつい、そのような気持ちになる、言い訳を見つけたくなるのです。
しかし、私たちは一度、そのような思いを止めなければいけません。ああだ、こうだ言うのを一旦やめて、心を落ち着かせなければいけません。そして、もう一度、このイエス様の言葉を受け止め直していく。そのとき、ある一つのことが見えてくるのです。それは、イエス様がここでお語りになっていることは、なんて積極的なのかということです。
もし、私たちが、右の頬を打たれたら、(実際に打たれる場合もあるでしょうし、言葉によって打たれることもあるかも知れない。)そのとき、私たちは、どうするか。また、私たちは、普段どうしているのか。私たちは、大抵そこで、我慢しているのではないかと思うのです。ぐっとこらえて、怒りを腹の奥に沈めるようにして、また、「いつか見てろよ、いつか見返してやる」、そのような気持ちを懸命に抑えながら、我慢する。耐えて、耐えて、忍耐する。それが私たちではないかと思うのです。
もちろん、「忍耐」も、信仰から来るものです。神様の助けによって、私たちは、怒りを抑え、苦しみに耐えることができる。しかし、イエス様がここでお語りになっていることは、一歩、前に出ることなのです。だれかが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。そして、一ミリオン強いる者には、二ミリオン行きなさい。一歩、前に出る。自分から一歩踏み出し、そして相手を赦す、相手を愛する。イエス様は、そのような積極的な赦し、愛を語っておられる。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師。アメリカのアフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者だった人として、よく知られている牧師がいます。そのキング牧師がおこなった説教の中に、「あなたの敵を愛せよ」という説教があります。なんと言っても、キング牧師がした説教の中で有名なのは、「わたしは夢を見る」という説教(演説)なのですが、私は、「あなたの敵を愛せよ」という説教も、歴史に残る名説教だと思っています。
その説教をキング牧師は、このような話から語り始めます。
「あなたの敵を愛せよ」。ある人々は、言う。「主イエスは、理想主義者だ」と。しかし、わたしは言う。「主イエスこそ、まことの現実主義者である」と。
つまり、こういうことなのです。ある人々(聖書を馬鹿にする人々)は、「『敵を愛する』などという教えは、絵に描いた餅に過ぎない。主イエスは、できもしないことを、理想として述べただけだ」と言う。しかし、キング牧師は言う。「いいや、イエス様こそ、まことの現実主義者(リアリスト)」。そう言って、このように語っていくのです。(私の言葉で、要約して紹介しますが・・)
「現代世界は、もはや、行き詰まりに直面している。憎しみが憎しみを生み、争いが争いを生む。悪の連鎖は止まらず、滅びという奈落の底に向かって、加速している。この行き詰まりを突破する道は、どこにあるのか。暗闇を駆逐する方法は、どこにあるのか。それは、主イエスが語るとおり、『敵を愛すること』、敵を愛し、敵を赦すことしか、この世界が先に進む道は、もはや残っていない。その意味において、主イエスは、極めてこの世界をよく知る現実主義者だった!」。
キング牧師がその説教を語ったのは、一九六〇年代です。あの時は、世界が行き詰まっていて、今は、そうではないのか。もちろん、誰一人、そのようなことは言えません。このコロナ・ウイルスの流行。コロナという病がもたらした一つのことは、私たちの世界のますますの行き詰まりだった。今こそ、互いに助け合わなければいけないのに・・、今こそ、愛し合い、祈り合わなければいけないのに、世界は、憎しみに満ちている。また、このコロナのストレスに耐えられなくて、一所懸命、憎しみのはけ口を捜している。誰かの頬を打ち返したくて、しかも何倍にもして、打ち返したくて、それが抑えきれずにいる。
私たちもです。私たちも、心の奥底に憎しみを持つ。その憎しみが、このストレスの中で、息を吹き返す。そしてひとたび、それが息を吹き返すと、「目には目を、歯には歯を。いや、それだけでは足りない! わたしが受けた苦しみ、この無念を晴らすためには、目どころか、鼻も口も、足も手も、打たなければ、気が済まない」。そのような憎しみが、私たちの心の中で増幅し、それが、今にも破れ出ようとしている。
キング牧師が語るとおり、この世界も、私たちも、行き詰まっている。憎しみに支配され、神様に背を向け、「滅び」という奈落の底へと自分から滑り落ちようとしている。
しかし、イエス様が、この世界に、そして私たちの前に立ちはだかってくださったのです。そして今も、両手を広げ、私たちが奈落の底へ向かうのを食い止めてくださっているのです。イエス様が手を広げ、私たちをじぃっと見つめる。そして、静かに語りかける。「自分から、赦してごらん。自分から、愛してごらん。右の頬を打たれたら、左の頬を。下着を取る者には、上着を。そして、一ミリオン強いる者には、一緒に二ミリオン行きなさい」。
そしてイエス様は、私たちに言われる。「わたしは、そうした。あなたの罪が赦されるために」。
そうなのです。私たちは、イエス様の右の頬を打ったのです。目隠しをさせ、イエス様を殴った兵士たち。それは、私たちの姿です。また、私たちは、イエス様を訴え、その下着を奪ったのです。イエス様を裁く大祭司カイアファの姿、また、「イエスを十字架に」と叫ぶ、あの群衆の姿が、私たちです。そして、私たちはイエス様に強いた。一ミリオン、ゴルゴタへと向かう道を。しかし、イエス様は、私たちのために喜んで、左の頬を差し出してくださり、下着どころか、上着を(義の衣を)与えてくださり、そして、十字架を背負って、ゴルゴタへの道を歩んでくださった。
イエス様は、私たちを見つめる。また、両手を懸命に広げ、いや、その釘を打たれて、穴が空いている両手で、私たちを抱きかかえるようにして、イエス様は言われる。「赦しなさい。愛しなさい。そのための一歩を、今、踏み出しなさい」。
「できる」とか、「できない」とか。「これは、単なる理想であって、現実的には無理だ」とか、そのような言い訳や議論を、イエス様は待っておられるのではないのです。イエス様は、私たちが赦し、愛するための一歩を待っておられる。
「あなたには、できる。あなたなら、できる。わたしが、あなたのために、十字架にかかったのだから」。
私たちは、今日、そのイエス様の言葉を聞いたのであります。
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