日本基督教団  大和キリスト教会

日本基督教団
大和キリスト教会

山上の説教1

礼拝説教「怒りを捨てよ」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第5章17~26節 

 
 イエス様がお語りになった『山上の説教』を読み始めました。
 私、小さいときから、親に連れられて教会に行っておりました。そしておそらく、子どもたちが集う教会学校で聞いたのではないかと思うのですが、今日の礼拝の御言をそこで初めて聴きました。そのとき受けた衝撃と申しましょうか、驚きは、今でもよく覚えています。
 特に、二一節からのイエス様の御言なのですが・・、

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 

 子供心に、「これは、まずいことになった」と思ったのです。
 ただ私、一つ、誤解していたことがありました。「兄弟に『ばか』と言う者は・・」、ここの「兄弟」という言葉を、私は文字通り、自分の肉親であるきょうだいだと思っていたのです。
 私、下に妹が二人います。そして小さいときは、よく喧嘩をしました。(一番下の妹は、私と年が一〇離れていますので、その妹とは喧嘩にはならなかったのですが・・)すぐ下の妹、年齢が四つ離れている妹とは、よく喧嘩した。取っ組み合いの喧嘩は少なかったと思いますが、しょっちゅうやったのが、口喧嘩。そして、ひとたび喧嘩になると、お互い、必ず口にするのです。「ばか!」。

 兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡される。

 これは、まずいことになった。私などは、何回、引き渡されることになるのだろうか。子供心に、そのようなことを考えたのを覚えています。
 ただ、教会学校の先生が、私にとって、「福音」とも呼べる良い知らせをもたらしてくださいました。「ここで言う『兄弟』という言葉は、本当のきょうだいのことではない。イエス様は、友達(隣人)のことを『兄弟』と呼んでおられる」。私、それを聞いて、ものすごくホッとしたのを覚えています。私、友達とは仲良くやっていましたので、「ばか」と言うことは少なかった。「ああ、友達のことか。それならよかった」なんて思って、安心したのであります。もちろん、その安心も間違っていたわけですが、いずれにせよ、イエス様のこの言葉は、子供心に鮮烈な、そして強烈な印象を与えた。「イエス様は、なんてことを言われるのか」。
 
 今日の礼拝の御言。これは、子どもであろうが、大人であろうが、聞く者に大きな衝撃を与えるのではないかと思います。そして、どうもそれは、昔から、教会の歴史が始まった頃から、そうだったようなのです。
 聖書というのは、人の手によって書き写されてきました。書き留めたものが朽ちていく、そうなる前に書き写して、次の世代へと伝えていったのであります。その書き写したものを、『写本』というのですが、おもしろいことに、多くの写本を読み比べると、少しずつ違いがあるのです。なぜ違いがあるのかと申しますと、一つは単純に、写し間違えたケースです。似たような単語を写し間違えてしまった。その結果、写本によって食い違いが出てくる。そしてもう一つの理由が、写す人が、思わず自分の解釈を書いてしまったケースがあるのです。聖書を読んで、分からなかったのです。もしくは、納得がいかなかった。そこで思わず、ちょっと言葉を書き直して、または書き足して、「ああ、これなら分かる」と言って、そのまま伝えてしまった。そのようなケースもあるのです。
 そして今日のイエス様の言葉にも、それがありまして、一言、言葉をつけ足した写本が実は数多くあるのです。それは、どういう言葉かと申しますと、「理由もなく」という言葉。
 理由もなく、兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
 気持ちは分かると思います。「腹を立てる者は、だれでも裁きを受ける」、このイエス様の言葉に衝撃を受けたのです。「イエス様、ちょっと厳しすぎませんか。腹を立てることぐらい、誰にでもありますよ。そして中には、『正しい怒り』、『正義の怒り』というのも、あるのではないですか。だから、イエス様、あなたは、ホントウはこうおっしゃりたかったのでしょ! 『理由もなく、兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける』、正当な理由がないのに、意味もなく腹を立てる人は、裁かれる」。
 どうでしょうか。「理由もなく」という言葉は、原文のギリシャ語では、わずか四文字の単語です。しかしその四文字で、随分印象が変わる、衝撃が和らぐ。「そうか、そうか。確かに、理由もないのに怒るのは良くない」。しかし学者たちは語ります。それは明らかに、あとの時代の人たちが書き足した言葉であろう。イエス様は元々そのようなことはおっしゃっていない。
 確かにその通りだと思います。(聖書の学者たちは、丹念な研究を経て、そのように教えてくれているのですが、)私たちも、少し考えれば、これは分かります。なぜならば、「理由もなく腹を立てる」、そのようなことは、私たち、あり得ないからです。みんな、理由があるのです。みんな、「自分は正しい」と思って、腹を立てるのです。子どもが親に腹を立てる。理由があるのです。子どもは、子どもなりの言い分がある。大人が誰かに腹を立てる。それも理由があるのです。そして、(譬えがよくないかも知れませんが)誰かが、カッとなって、人を殺す。そのような人にも、理由がある、その人なりの、またその時なりの正義がある。
 イエス様はお語りになる。どんなに正しい理由があっても、怒りは抑えなければいけない。あなたは、怒りに負けてはいけない。怒りは人を殺す。怒りは、殺人と同等の罪なのだ。
 ただ、一つ、ここで誤解してはいけないことがあります。イエス様が、ここでお語りになった「腹を立てる」という言葉は、元々は、現在形が使われています。つまり、「今、腹を立てている」、「今、怒りを抱いている」。イエス様は、そのことへの警告をここでなさっているのです。つまり、「怒り」という感情が湧いてくる、それ自体をなんとかしなさい、とイエス様は言っておられるのではないのです。
怒りは、沸いてくるのです。誰でも、ついカッとなって、腹が立つ。それに対してイエス様が、「それは、いけないこと! もっと強靱な心を持て。何があっても腹を立てない、何を言われても動じない、そのような心を作れ。怒りもしなければ、喜びもしない。悲しむこともなければ、笑いもしない。そのような境地に達しなさい!」。イエス様は、そのように言っておられるのではない。「今、怒っているならば、その怒りを納めなさい。今、怒りが湧き上がってきたならば、それを抑え込みなさい。そして、心の奥底に、ずっと怒りを抱き、それが炎のようにくすぶっているのならば、早く!、今すぐにでも、その怒りを捨てなさい。怒りに身を任せてはいけない。怒りをそのままにしておいてはいけない!」。イエス様は、そのようにお語りになる。
 
 私たちは、ここで、カインとアベルの物語を思い起こすことができるかもしれません。人類最初の兄弟、カインとアベル。アダムとエバの息子たちの物語です。
 あるとき、二人は、それぞれの収穫物を神様の前に持ってきます。カインは農作物を、アベルは小羊を。すると、どういうわけか、神様は、弟アベルの献げ物には目を留めてくださるのですが、兄のカインの献げ物には、目を留めてくださらなかった。そこでカインは、顔を伏せて怒るのです。激しく怒って、神様の前で顔を上げることができなくなる。
 カインは、弟アベルを野原に連れ出します。そしてそこで、弟を殺してしまう。人類最初の兄弟。本来ならば、互いに愛し合い、また互いに助け合って生きていくはずだった兄弟が、「兄が弟を殺す」という結末を迎えてしまう。
 イエス様の念頭にも、あの時のカインの姿があったのかも知れません。怒りに捕らえられ、怒りに心も、体も奪われてしまい、弟を殺すカイン。「腹を立ててはいけない。怒りに心を許してはいけない。その怒りは、人を殺すのだ。あなたは、人殺しになってはいけないのだ!」。
 
 さらに、イエス様はこのような言葉を続けます。二三節です。

 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

 ここも、なかなか強烈な御言です。「祭壇に供え物を献げようとして」、つまり、「神様を礼拝しに来たとき」という意味です。私たちで言えば、この日曜日、教会堂に足を運んだとき、そのとき、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、まず、その兄弟と仲直りをしてきなさい、と言うのです。つまり、今度は、「相手に怒りを捨ててもらう」話なのです。
 次の話も同じです。

 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。

 これも、相手が、腹を立てているのです。そして、相手が訴えてきたのです。その相手と和解しなさい。裁判が始まる前に、相手に怒りを捨ててもらって、裁判そのものが起こらないようにしなさい。
 これも、強烈な御言です。「イエス様、そんなこと、できるのですか? そんな途方もないこと、私たちにできるのですか?」、思わず、そう言いたくなる。
 
 今日は、礼拝の御言として、第五章の一七節からも読んでいただきました。この一七節から二〇節は、ここから始まるイエス様の言葉の序文、また前文とも呼べる箇所です。イエス様はここから、幾つかの旧約聖書の律法(掟)を取り上げて、「あなたがたは、こう聞いていると思うが、しかし、わたしは言っておく」、そう言って、律法に込められている神様の真の思いを私たちに伝えてくれている。それが、第五章の終わりまで続きます。そして、その一連の箇所の序文・前文が、一七節から二〇節なのです。
 その最初に、イエス様はこのようにお語りになる。一七節。 

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。 

 イエス様が現れたとき、このように思った人たちがいたのです。「このイエス様が来てくださったことによって、もう、旧約聖書の時代は終わった。つまり、旧約聖書にある律法や預言者の言葉、それらは、もう必要なくなった」。それだけイエス様の言葉が、新しく聞こえたのでしょう。新しい掟、新しい時代をイエス様がもたらしてくださった! しかしイエス様は、言われるのです。「そうではない。わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」。
 この「完成」という言葉は、「成就する、実現する」という意味も持ちます。特に、旧約の預言者の言葉は、神様からの約束も含む。その約束が、イエス様によって成就した、実現した。そしてもう一つは、この新共同訳聖書が訳した通り、「完成」、イエス様が来てくださったことにより、律法が、完成するのです。
 ここが、非常に重要なところです。序文というのは、この先に記されていることの急所が記されている。今日の御言もそうでありまして、イエス様が来てくださって、律法が完成する。つまり、律法を完成させる、律法を完成させてくださるのは、イエス様なのです。
どのようにして、イエス様は律法を完成させてくださるのか。それは、私たちを通して、私たちの中で、です。今日の御言で言えば、「私たちが、怒りを収める」、そして、「相手に怒りを収めてもらう」。イエス様が、それをしてくださるのです。私たちを通して、神の律法をイエス様が成し遂げてくださる。そしてイエス様は、そのために、十字架にかかってくださった。十字架の上で祈ってくださったのです。
 イエス様は、いや、イエス様こそ、人々の怒りの中で、殺されていきました。律法学者、祭司長、そして群衆たちは、みんな、イエス様に腹を立て、怒ったのです。そして、「この者は、いらない。この者は、呪われよ。ばか、愚か者」、そのようにののしった。そしてそれぞれ、自分なりの正しい理由(正義)を振りかざし、怒り、イエス様を殺したのです。
しかし、イエス様はその十字架の上で、祈ってくださった。
 「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らないのです」。
 人間の怒りの中で、カインから始まる人類の怒りの真っ只中で、イエス様は祈ってくださる、私たちの罪の赦しを。
 そしてその祈りが、私たちの心を内側から支配するのです。聖霊の働きによって、私たちの心に入り込み、私たちの中にある怒りを、一つ、また一つと、取り除いてくださる。また、私たちの口から、「ばか」、「愚か者」、そのような言葉がついて出てこないようにしてくださる。イエス様は、十字架の上で祈り、そして、私たちの中でも祈ってくださる。「あなたの怒りが、取り去られるように。その怒りが、『赦し』に変えられるように」。
 誰かとの和解も同じです。
 確かに、誰かとの和解は、私たちが自分の怒りを捨てるよりも、何倍も難しいことでありましょう。途方もない、不可能と思える道でありましょう。しかし、その道も、イエス様が整えてくださる。
 「わたしは、罪人であるあなたのために、十字架にかかった。そして、わたしは、罪人であるあの人のためにも、十字架にかかった。だから、和解しなさい。わたしの『赦し』を知るあなたは、自分から謝ることができるだろう。自分から、自ら犯した罪を認めることができるだろう。プライドが邪魔するのか。それとも、まだ、『自分は正しい』と言い張るのか。顔を上げなさい。そして、わたしの顔をもう一度よく見なさい。あなたのために、十字架にかかったわたしの顔を」。
 
 私たちは信じたいのです。イエス様を信じたいのです。
 あの人と和解する道は、イエス様が、もう始めてくださっている。
 私たちの中で、それを始めてくださっている。
 

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。

 
 神の御心である律法は、私たちの中で、そして私たちを通して、イエス様が、完成させてくださるのです。
 
 
 メッセージTOPへ
 

2019年6月メッセージ

礼拝説教「主の祈り講解説教 御国を来たらせたまえ」 牧師 鷹澤 匠
 使徒言行録 第1章6~11節

 
 主の祈りの言葉を、礼拝で一つずつ、心に留めています。今日は、「御国を来たらせたまえ」という祈りです。 
 私、生活の中で、主の祈りの言葉を、ワンフレーズだけ祈るということを、よくします。例えば、「御名をあがめさせたまえ」とか、「我らの罪をも赦したまえ」とか。全部ではなく、ワンフレーズだけ、一部分だけ、祈るということが、よくあるのです。そして振り返ってみると、一番よく祈っているフレーズは、「御国を来たらせたまえ」という部分ではないかと思うのです。
 先日、神奈川県川崎市で、通り魔事件が起きました。また、連日のように、子供が虐待され、死亡するニュースがテレビから流れてくる。そのようなとき、私は祈る。「御国を来たらせたまえ。神様、あなたの国が、あなたのご支配が来てください」。
 また、世界各国の紛争の話を聞くたびに、やはり同じような思いに駆られます。ナイジェリア、スーダン、シリア、そして聖書の舞台であるイスラエル、パレスチナも、暴力と武力によって多くの人たちの血が流されていく。「御国を来たらせたまえ。神様、どうか、あなたの国を来たらせてください。あなたのご支配がありますように」。私は、いつも、繰り返し、そのように祈っているのであります。
 そしてこれは、皆様も、同じではないかと思うのです。皆様も、「御国を来たらせたまえ」と、いつも祈っておられる。この祈りの言葉を、直接、口に出す、また出さないは、それぞれであっても、この祈りがいつも胸にある。「御国を来たらせたまえ」という祈りは、そのような祈りではないかと思うのであります。
 今日はご一緒に、この祈りについて、深めていきたいと願います。
 
 まず最初に、マルコによる福音書第一章をお読みいたします。マルコによる福音書第一章一四節、一五節です。

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 マルコによる福音書が記す、イエス様の第一声です。イエス様は、洗礼をお受けになったあと、一人、荒れ野へと行かれました。そこで、四〇日、お過ごしになり、それから、人々の前に現れてくださった。場所は、ガリラヤ。そしてそこで、「時は満ち、神の国は近づいた」と言われたのです。
 「時は満ち」。これは、「ついに、その時が来た」という意味です。「まさに今、神の国が来る(御国が来る)、その時が来たのだ」、そのようにイエス様は言われたのです。
 いつも大胆で、ユニークな説教をすることで、よく知られている説教者がいます。その説教者は、何冊か本も出していまして、この御言を説いている説教も、その本の中にありました。それもまた、とっても大胆でユニークな説教だったのです。このような主旨のことを語っていました。
 「小学生の頃、クラスでお楽しみ会があった。そのお楽しみ会を始めるにあたり、いつも、係の人がこう言った。『これから、お楽しみ会を始めます』。イエス様が言われたことも同じ。イエス様は言われた。『これから、神の国を始めます!』」。
 私、最初、本でそれを読んだときに、「さすがにこれは、軽すぎではないか」と思いました。「お楽しみ会」と「神の国」を一緒にするのも軽いし、「神の国が近づいた」という言葉を、「神の国を始めます」と言い換えるのも、軽い。「聖書を、分かりやすく伝えたい」、その思いは分かるけれども、そこまで軽くしなくてもいいのではないか。私は最初、そう思ったのです。
 しかし、時間が経っても、どうも、その言葉が頭から離れないのです。「神の国を始めます!」、軽いなぁと思いつつも、その言い回しが気になって仕方がない。そして思った。「この言い回しは、『言い得て妙』と言うべきなのではないだろうか。案外、的を射ているのではないだろうか」。
イエス様に先立って、洗礼者ヨハネも、同じことを言っています。ヨハネも、イエス様が現れる直前、「神の国は近づいた」と人々に宣言しているのです。しかし、ヨハネが言った意味と、イエス様が言われた意味は同じか、と言うと、実は、違うのです。
 バスを待つ人に譬えることができるかも知れません。バス停でバスを待つ。しかし、バスはまだ来ていない。「でも、そろそろ来るから、準備をしなさい」。言ってみれば、そう語ったのは、洗礼者ヨハネなのです。「神の国は近づいた。まもなく、救い主が来てくださる。だから、悔い改めて、その時に備えよ!」。
 しかし、イエス様は違う。イエス様は、「神の国は近づいた」と言われて、神の国を始めてくださった。イエス様が、神の国をもたらす救い主その方であったのです。
 イエス様は、奇跡を起こし、大勢の人たちの病を癒しました。これは、神の国が来たことの「しるし」でした。
 またイエス様は、徴税人や罪人、遊女といった、当時、「汚れている」とされた人たちと、喜んで一緒に食事をされました。これも、神の国が来たこと証し。
 そしてイエス様は、弟子たちを招く。そして弟子たちを始め、人々に御言を語ってくださる。これも、神の国そのもの。
 イエス様が来てくださったことにより、神の国が始まった。神様のご支配、愛の支配が始まった。だから、あの説教者が語ったことは、「言い得て妙」。「これから、神の国を始めます!」。あえて言葉を足すならば、「これから、わたしが、神の国を始めます。わたしが来たことによって、神の国が始まったのです!」。イエス様は、そのように宣言してくださったのであります。
 
 イエス様の働きは、ガリラヤから始まりました。そして、やがてエルサレムへと向います。そして、イエス様は、エルサレムで、自ら十字架におかかりになる。これも、神の国のためだったのです。
 そこでお読みしたい聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第三章一節から。

 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 ニコデモという人が出てきます。この人は、ファリサイ派の議員、つまり、イエス様に敵対していたグループの一人でした。しかし、ニコデモは、イエス様の中に、神様の働きを見るのです。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。つまり、ニコデモは、イエス様を通し、御国(神の国)を見る。しかし、イエス様はこう言われるのです。三節。

 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 なんだか、ちょっと冷たい印象を受けます。ニコデモは、勇気を持って、イエス様のもとに来ています。二節に「夜来た」と書いてありますが、ここから、ニコデモは、夜、こっそり来たことが分かります。このことが仲間に知られたら、どんな仕打ちを受けるか分からなかったからです。そのような中、ニコデモは、勇気をもってイエス様のもとに来た。そして、イエス様に、「あなたの中に神の国を見ます!」と、ニコデモなりの信仰告白をしているのです。しかしイエス様は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われる。なんだか、ちょっと冷たい、つっけんどんな印象を受ける。
 しかし、この言葉は、真実なのです。人は、新たに生まれなければ、つまり、人はそのままでは、神の国を見ることもできない。ましてや、神の国に生きる。神の国に入り、その住民として生きることもできない。なぜならば、人は、罪人だから。汚れた罪人は、そのままでは、神の国を見ることも、入ることもできない。そして、イエス様は、その私たちを新しくするために、自ら十字架にかかってくださったのです。十字架にかかり、私たちの罪を清め、私たちを、神の国、御国の一員としてくださった。五節も読むと、

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。

 「洗礼」のことです。私たちは、洗礼によって、イエス様の十字架の恵みにあずかる。そしてそれゆえに、神の国に入ることができる。
 
 次に読みたいのは、使徒言行録です。使徒言行録、第一章六節から。

 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

 話の途中からなのですが、イエス様は十字架にかかり、およみがえりの命となられました。そして四〇日間、弟子たちと共に過ごしてくださった。そしていよいよ、天に昇っていかれます。そして、その直前、弟子たちはイエス様に、こう尋ねたのです。
 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。
 弟子たちは、「神の国、御国が来るのは、今ですか」とイエス様に尋ねたのです。「イエス様、私たちは教えられたとおり、『御国を来たらせたまえ』と祈ってきました。そしてついに、その御国が来るのですね。イスラエルの再建は、今ですね!」。弟子たちは胸を高鳴らせながら、そう尋ねたのです。すると、イエス様は、七節。

 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。

 「その時」は、父なる神様しか知らない。つまり、「それは、今ではない」とイエス様はお答えになったのです。けれども、続けてこうお語りになった。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 ペンテコステの予告なのです。イエス様が天に昇られて一〇日後に、弟子たちの上に聖霊が降る。ペンテコステが起こる。「御国を来たらせたまえ。その御国は、今ですか」、そう尋ねた弟子たちに、イエス様は、「ペンテコステが起こる」というお答えをなさった。
 
 先週は、鄭先生の説教でした。ですから、私、今日の説教の準備を、二週間かけて行いました。二週間前、私は悩みました。主の祈りの連続説教をしている。順番から行くと、次は、「御国を来たらせたまえ」。しかし、次は、ペンテコステ礼拝でもある。そこで私、当初こう考えたのです。「一回、主の祈りの説教をお休みして、ペンテコステは、ペンテコステに関係する箇所を選んで、説教を語ろうか」。
 しかし、「御国を来たらせたまえ」というこの祈りに、心を留めていったときに、この使徒言行録の御言に出会ったのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。ああ、ここで弟子たちが、「御国を来たらせたまえ」と祈っているではないか。そして、イエス様が、「あなたがたの上に聖霊が降る」と言って、ペンテコステの予告をなさってくださっている。「御国を来たらせまえ」、この祈りと、ペンテコステは、密接に関わっている!
 「御言が与えられる」という言い方があるのですが、まさに、「ああ、御言が与えられた」と思いました。この日のために、神様が、この御言を与えてくださった。
 イエス様が来てくださったことによって始まった御国。そしてイエス様が十字架にかかることによって、その御国の扉が開かれた。そして、ペンテコステ、弟子たちに聖霊が降り、教会が、その扉の中へ、御国の中へ、人々を招き始めたのです。神様は、そのようにして、多くの人々を招き、私たちをも招き(すなわち、私たちをも巻き込み!)、御国を造ってくださっている!
 
 『ハイデルベルク信仰問答』という宗教改革の精神の中で生まれてきた、一冊の教理書があります。「カテキズム」と呼ばれるものです。その『ハイデルベルク信仰問答』は、この祈りを解説して、このように語ります。

問 第二の祈願は、何でしょうか。 (主の祈りの二番目の祈りは何か。)
答 「み国を来たらせたまえ」であります。
  この中で、わたしたちが祈っていることは、
  わたしたちが、ますます、あなたに、服従することができるよう、
  あなたの御言葉と御霊によって、わたしたちを支配して下さいということであります。

 私、最初、読んだときに、「あれっ」と思って、一瞬、把握できませんでした。「御国を来たらせたまえ。これは、私たちが、ますます神様に服従することができるように、との祈り」。
 正直私は、それまでこの祈りを祈るとき、「自分が服従する」ということを考えてこなかった。「自分抜きで祈っていた」とまでは言いませんが、「御国が来るのは、この世界に」と思っていた。もちろん、それはそれで正しいわけですが、しかし、『ハイデルベルク信仰問答』は語る。「これは、私たちが、ますます神様に服従する祈りなのだ」。しかも、その服従は、御言と御霊によって起こる。「あなたの御言葉と御霊によって、わたしたちを支配して下さい」。
 「なるほどなぁ」と思いました。確かに、神様のご支配というのは、御言と御霊(聖霊)によるご支配なのです。つまり、御言を通して、神様は、私たちを捕らえてくださる、なおかつ、聖霊なる神によって、私たちを、がっちりと、つかんでくださる。そして、私たちを内側から変えてくださるのです。どう変えるのか。御言を聴き、その御言に従う者へと変えてくださる。ますます神様に服従する者へと変えてくださる。先ほどのヨハネ福音書のイエス様の言葉で言えば、「神様が、聖霊によって、私たちを新しく生まれさせてくださる」のです。
 こう言い換えることもできます。聖霊なる神様が、私たちの中で働いてくださると、何が起こるか。聖書は語る。聖霊なる神様は、私たちを通して、様々な実りを結んでくださるのです。愛という実り。喜びという実り。そして、平和という実りを、聖霊なる神様が、私たちを通し、生み出してくださる。愛、喜び、平和、まさに、神の国なのです。神様は、御言と聖霊によって、私たちを通し、神の国を造ってくださる。つまり、神様は、私たちを巻き込んで、ご自身の国、御国を来たらせてくださるのです。
 神の国は、もう始まっているのです。教会において、始まっているのです。現に今日も、Eさんが洗礼を、Hちゃんが幼児洗礼を受けた。神様が、Eさんに聖霊を送り、ご自身を信じる信仰を与えてくださった。また、Cさん、Kさんご夫妻の中に、聖霊を送り、「この子を、神様に喜んで、お献げする」という決断を与えてくださった。そしてこれからも、Eさん、Hちゃんを、神様が御言と聖霊によって支配してくださる。ご自身の国、御国へと巻き込んだこの二人を、ご自分の国で生かしてくださる。
 もちろん、私たちも同じです!神様は、私たちをも、ご自分の国へと巻き込んでくださいました。そして、御言と聖霊によって、ますます神様に服従し、私たちを通して、愛という実り、喜びという実り、そして、平和という実りを、神様が結んでくださる。そのようにして、神様が、ご自分の国を来たらせてくださるのです。
 その意味で、ペンテコステは、私たちの中で、すでに起こり続けています。そして今日も、明日も、あさっても、ペンテコステが起こり続けるのです。私たちを通して、私たちの家庭、私たちの職場、そして私たちの学校の中で、神様が、私たちを通し、ペンテコステを起こし、神の国、御国を造り続けてくださる。
 
 『ハイデルベルク信仰問答』は、私たちの服従を語り、次に、神様が悪の支配に打ち勝ってくださることを語ります。そして、最後にこう語るのです。

 そして、あなたの御国の完成がもたらされ、
 そこで、あなたが、すべてにおいてすべてとなられるのであります。

 やがて御国は来ます。私たちも、まことに不完全なものですが、その日には、神様が、私たちを完成させてくださいます。そしてそこで、神様が、すべてにおいて、すべてとなってくださる。
 「御国を来たらせたまえ」。あなたの御言と御霊によって、私たちが、ますますあなたに服従することができますように。
 「御国を来たらせたまえ」。私たちを通し、それぞれの場所に、あなたの御国が来ますように、あなたが、悪が打ち勝ってください。
 「御国を来たらせたまえ」。イエス様が再び来てくださり、完全なあなたの国が来ますように。そこで、あなたが、すべてにおいて、すべてとなってくださいますように。
 
 メッセージTOPへ
 

2019年7月メッセージ

礼拝説教「主の祈り連続説教 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第6章10節

 
  主の祈りの言葉を、礼拝で一つずつ心に留めております。今日は、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」、この祈りに思いを集中させていきたいと願います。
 
 私、「御心」という言葉を、初めて耳にしたとき、ちょっとした衝撃がありました。私は、地元の中学校を卒業したあと、新潟にあります敬和学園というミッション高校に進みました。私、小さいときから親に連れられ、教会には行ってはいたのですが、信仰について、本格的に意識し始めたのは、その高校に入ってからでした。
 高校に入学して、まず驚いたのが、「同い年でありながら、もう洗礼を受けている人たちがいる」ということでした。私が通っていた教会は、三〇人ぐらいの小さな教会で、私と年齢が近い人も中にはいたのですが、皆、当時の私と同じように、洗礼は受けていませんでした。そして、私は勝手に、「洗礼というのは、年を取ってから受けるものだ」、そう思い込んでいたのであります。なのに、敬和に入りましたら、同い年のキリスト者がいる。しかも、何人もいる。本当に驚きました。
 そしてその中に、一人、牧師の息子がいまして、すぐに仲よくなったのですが、その彼が、「御心」という言葉を、よく口にしていたのであります。私にとって、それが衝撃だった。その友人は言うのです。例えば、部活動のレギュラー争いをしている。「神様の御心ならば、自分は、レギュラーになれるだろう」。また大学受験がある。「神様の御心ならば、希望する大学に入れるだろう」。まだ洗礼を受けていなかった私は、「いや、そうではないだろう!」と言って、反論をしました。レギュラーになれるか、どうか。また受験がうまくいくか、どうか。それは、自分の実力次第。部活動ならば、トレーニングを積んで、努力して、そして結果が出る。また受験ならば、勉強して、努力して、合否が決まる。「神様の御心」、また、「御心ならば」、それは、逃げ道ではないか、責任逃れではないか。当時の私は、そう思った。(もちろん、その友人も、努力をして、その上でそう言っていたのでしょうが、)当時の私には、どうも、「御心」という言葉が馴染めなかった。やるべきことをやらないで、責任を神様になすりつけているように、聞こえてしまっていたのであります。そしてそう語る友人に、いつも反論し、困らせていたのです。
 しかし、神様がなさることは分からない。そのような私も、神様に捕らえられ、信仰告白に至る。そして牧師になるために、神学校に進む。それが決まったあと、その友人が、ニコニコ笑いながら、私のもとに来てくれました。そして私の手を、強く握ってこう言ってくれました。「鷹澤、これが、神様の御心だったのだよ」。
 
 もう一つ、「御心」という言葉を巡って、私には思い出があります。
 私が神学校に進み、生まれて初めて、説教をする(礼拝ではありませんでしたが、学生の祈祷会で、聖書に基づく話をする)、そのような機会がありました。私は、緊張しまして、また同時に張り切りまして、何週間も前から、その準備をいたしました。そのとき、私が選んだ聖書の箇所が、先ほど読んでいただいたマルコによる福音書第一章四〇節からの箇所だったのです。その四〇節には、このように記されています。

 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

 「重い皮膚病」、いわゆる「ハンセン病」であります。日本でも、ごく最近まで、誤った知識のもとで、扱われてきてしまった病気であります。そして二〇〇〇年前も、そうでありまして、ひとたび、この病気にかかると、町や村から追放されていた。特にユダヤでは、「汚れた者」とされ、他の人が近づくだけで、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばなければならなかった、そのように法律で定められていたのです。
 その病に苦しむ人が、イエス様のもとに来たのです。そしてひざまずいて、願った。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
私、生まれて初めての説教で、この箇所を選んだのですが、そのとき、大失敗をしたのです。(この失敗談は、一度、ここでお話ししたことがあるのですが、)「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。 ここは、当時、私が用いていた口語訳聖書では、このような訳になっていました。

 「みこころでしたら、清めていただけるのですが」。

 「御心、神様の御心、イエス様の心が、そうであれば、わたしは清めていただけるのですが」、この人はそう願った。しかし私は、ここを読み違えて、説教に臨んでしまっていたのです。どう読み違えていたかと言うと、「清めていただけるのですが」の「が」を、「清めていただけるのですか?」と読み違えていた。
 点々がつくか、つかないか。けれども、それは大違い。「みこころでしたら、清めていただけるのですか?」。当時、私は、このように語りました。「私たちも、神様の御心を問うていこう。『御心でしたら、この道に進みます。御心でなければ、それはそれで、あきらめます』。大事なのは、私たちの思いではなく、神様の御心。この人のように、神様の御心を問うて、神様の御心に素直に従おう!」。(高校生だった頃の私が聞いたら、噛みつかれそうな説教ですが)その時はその時で、そのように語ったのです。
 しかし、説教を語りながら気がついた。「あ、ここは、『か?』ではなく、『が』だ!」。その時気がついても、もう遅い。今さら用意してきた内容を変えられるほどの余裕はなかった。嫌な汗が、脇の下を流れていったのを、今でもよく覚えています。
「御心ならば、この道を進み、御心でなかったら、あきらめる」。確かに信仰には、そのような一面もあります。しかし、ここではそうではないのです。「か?」ではなくて、「が」。「みこころでしたら、清めていただけるのですが!」、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります!」。
 つまり、この人は、イエス様がその心になってくださることを願っているのです。「イエス様、あなたが、その心になってください。いや、あなたの心は、そのはずです! そうですよね、イエス様!」、この人は、必死に懇願している。
 「あなたの御心は、どちらですか? わたしが清くなることですか、それとも、汚れたままでいることですか?」。わざわざ、そのようなことを聞きに来たのではないのです。言い換えれば、この人は、自分の運勢を聞きに来たのではない。「イエス様、わたしの運命は、どちらですか? わたしが清くなることですか?、それとも、このままでいることですか?」。そうではない。この人は、「イエス様、あなたが、『わたしを清くする』、その心になってください。いや、あなたは、すでにその心であるはずだ」、そう訴えた。
 すると、イエス様は、四一節。

 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

 「よろしい」という言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、「わたしは望む」という言葉です。「そう望んでください」と問われ、「わたしは望む。あなたの言うとおり、それが、わたしの御心。さあ、清くなれ!」。しかも、「イエス様は、深く憐れんで、こう言われた」と記されている。この「深く憐れんで」という言葉は、(これも聖書が元々書かれた言葉では)「内蔵が揺り動かされて」という言葉。内蔵、五臓六腑が揺り動かされる。そのぐらい抑えきれない憐れみ。体の中から突き上がってくる憐れみ。「この憐れみこそが、わたしの心。わたしは望む、あなたは、清くなれ!」。
 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。この祈りは、まさに、このことなのです。私たちもこの祈りで願っているのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります!あなたが、そう望んでくださるのならば、この地上を清くすることがおできになります! そして、それがあなたの御心ですよね! 神様、あなたの御心は、憐れみですよね!」。私たちは、主の祈りで、そう祈っている。
 
 ここで、イエス様がなさった譬え話も、思い起こすこともできます。ルカによる福音書第一八章一節からです。

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。

 やもめと裁判官の譬え話です。当時、夫に先立たれた女性は、非常に苦しい生活を強いられました。仕事がない、それだけではなく、社会的な立場も弱く、またそこにつけ込み、財産を奪い取ろうとする人たちもいたのです。この譬え話のやもめも、きっと、理不尽な仕打ちを受けていたのでしょう。そこで彼女は、町の裁判官のもとに行って、自分を守ってもらおうとした(もしかしたら、一度取られた財産を取り戻してもらいたい。そのような訴えだったのかも知れない)。しかし、運の悪いことに、彼女がいた町の裁判官は、神を畏れず人を人とも思わない、つまり、「貧しいやもめを守ろう」などという正義感は、まったく持ち合わせていない悪徳裁判官だったのです。
 しかし、この裁判官はこう言うのです。四節の後半から。

 しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

 おもしろいのです。やもめが、うるさくてかなわない。しつこくて、ひっきりなしにやって来て、うっとうしくてたまらない。だから、裁判をしてやるか、というのです。そして、イエス様はこう言われる、
 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
神様がこの裁判官のように、悪徳裁判官だ、というのではありません。「まして神は」、悪徳裁判官でさえ、しつこいやもめのために裁判をしてくれるのだから、まして神は、日夜祈っているあなたがたのことを、放っておくことはなさらない。だから、(一節にあるように、)「気を落とさずに絶えず祈りなさい」と、イエス様は言われたのです。
 私はこの譬え話も、「御心の天になるごとく」、その祈りをよく表していると思います。「御心の天になるごとく」という祈りは、自分の運命を、仕方なく受け入れるための祈りではないのです。憐れみの神様を信じ、また、神様が正しい裁きをしてくださると信じ、気を落とさずに祈る。あきらめずに、絶えず祈る。「神様、あなたの心は憐れみですよね。どうか、私たちを、またこの地上を、憐れんでください。この地上に、あなたの憐れみ、そしてあなたの正しさがありますように!」。
 
 今年の四月のことですが、大阪堺市にあるキリスト教書店、『びぶろすの森』が、日曜日、私たちの教会まで来てくれました。そして、礼拝後、本の販売をしてくれた。おかげさまで、皆様もよく買ってくださったそうで、店長さんも、随分ご機嫌でありました。そしてどうも、『びぶろすの森』は、それに味を占めたようで、何冊かの新刊本を、事務室に置いていきました。「手にとって読んでもらって、気に入ったら、注文してください」、そのような主旨であります。事務室の通路側のガラスの扉のところに、それらの本が置いてありますので、興味のある方は、礼拝後、見ていただければいいと思うのですが、それに先立ち、さっそく私が、その戦略に引っかかってしまいました。本屋さんが置いていった本を、手に取って、事務室でパラパラと立ち読みをした。そして思わず、一冊、衝動買いをしてしまったのであります。アンゲラ・メルケル、現在のドイツの首相が書いた、『わたしの信仰』という本であります。
 まだ全部読んでいないのですが、いい本に出会いました。メルケル氏が、首相になる前も含めた、信仰に関する講演を集めたものです。「彼女は、牧師の娘であり、キリスト者だ」ということは、聞いてはいたのですが、これほどしっかりした聖書的な信仰に基づいている人だとは、私も、その本を読んで初めて知りました。そしてその講演も、極めて信仰的、また神学的なものでもあったのです。
 メルケル氏は、ある講演の中で、旧約聖書のマラキ書を説くのです。そしてそこに出てくる「正義」という言葉を説く。そして言うのです。(少し長いので、私なりに要約いたしますと)旧約聖書が語る「正義」(ヘブライ語で「ツェダカ」)は、共同体における正義を意味する。それはすなわち、「連帯を実践する」ことでもある。共同体の中には、弱い立場の人たちもいる。日雇い労働者、やもめ、孤児。そのような人たちを常に視野に入れ、責任を持ち、その人たちに寄り添っていく。それが、旧約聖書の語る「正義」なのだ。(そしてここまでは、はっきりは言っていないのですが、メルケル氏の中には、明らかに、「その聖書が語る正義、政治は、その実現の一翼を担う」という考えがある。)
また、高齢化するドイツ社会の問題に対して、メルケル氏はこう語るのです。(カトリック司教の言葉を引用して、)「私たちの命に年月が増し加わるだけでは充分ではありません。むしろ、年月に、もっと命を与えなければなりません」。つまり、長生きするだけでは充分ではない。その長生きの年月に、もっと命が与えられなければならない、人間が人間として生きる命。命ある長生きを、政治は模索していかなければならない。そう言って、メルケル氏は、高齢者の社会参加や、社会保障の話をしていく。
 もちろん、移民政策の是非や、EUにおけるメルケル氏の政治判断など、様々なことが評価されるのは、この先のことでしょう。しかし、私は、メルケル氏の講演を読んで、その底流に、あの祈りが聞こえてきてならなかったのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ!」。ああ、この首相は、祈っている、「天にある神様の御心が、この地上にもありますように」と祈っている。
 
 キリスト教会は、伝統的にこの祈りを、私たちの職業、召命の祈りとして、捉えてきました。「天の御心を地になす」、それは、私たちの役割だと考えてきたのです。つまり、私たちは、「地にもなさせたまえ」と祈って、腕を組んで、ただ眺めていればいい、というのではないのです。ましてや、「神様はご自分の御心を、ちっともこの地上に実現してくださらない!」、そう言って、偉そうにふんぞり返っているのは、もっと違う。神様は、私たちを用いる。私たちを用いて、ご自身の憐れみの御心を、この地になすのです。
 これは、幾らでも事例を挙げることができます。例えば、モーセ。
 旧約の民イスラエルは、元々エジプト奴隷でありました。しかし神様が憐れんでくださり、人々を、エジプトから解放してくださる。そのときも、神様は、「モーセ」という「人」を使うのです。モーセは、最初、神様に反抗します。「わたしが、民のもとに行っても、信頼されません。それに、わたしは、弁も立たないし、指導者には不向きです。だから、どうか、他の人を選んで、遣わしてください」、モーセは繰り返し、辞退する。しかし、神様は言われるのです、「さあ、行くがよい。わたしは必ずあなたと共にいる」。神様は、モーセを遣わして、モーセを用いて、天の憐れみの御心を地上に実現する。
 また、ダビデも、そうでありましたし、預言者たちも、そうであった。神様は、繰り返し、呼びかける、「誰を遣わそうか。誰が、わたしに代わって、行くだろうか」。そして預言者たちは答えてきた、「わたしが、ここにおります。わたしを遣わしてください!」。
 そして、イエス様の弟子たちも、神様に用いられ、天の御心を地になした。そしてさらには、あのメルケル氏も、そして、私たち一人一人も、同じなのです。神様は、私たちを遣わす。ご自分の憐れみの御心、ご自身の「ツェダカ」(正義)をなすために、私たち一人一人を、用いる。
 私たちが自分を顧みるとき、その器の貧しさに愕然とします。自分の欠けの多さ、至らなさ、モーセのように、「わたしには、できません!」と、神様に訴えたくなる。そして何よりも、私たちは、自分の罪の深さを知っている。「神様、あなたが一番、よくご存知です。わたしは、こんなにも罪深いのです!」。しかし、しかし、だからこそ、祈るのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ!」。重い皮膚病に苦しんでいた人のように、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります!」と祈り、「神様、わたしを通し、あなたの御心が、この地になりますように」と、やもめのように繰り返し祈る。
 そして、そのように祈る私たちに見えてくるのは、イエス様のお背中なのであります。イエス様は、ゲツセマネの園で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。
 私たちも、「御心のままに」と祈って、自分の十字架を背負うのです。飲むべき杯を、飲むのです。そのようにして、イエス様に従う。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」、この祈りは、私たちが、十字架のイエス様に従っていく祈りなのであります。
 
 最後に、ヘブライ人への手紙の言葉をお読みします。どうぞ、お聞きください。

 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 この一週間も、神様の御心を果たすために、すべての良いものを、神様が皆様に備えてくださいますように。
 メッセージTOPへ
 

2019年10月メッセージ

礼拝説教「平和を実現する人々は、幸いである」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第5章9節

 
 イエス様がお語りになった八つの祝福の言葉、その言葉を一つずつ、この礼拝で読んできました。今日は、その七つめの祝福の言葉、平和を実現する人々は、幸いである。この言葉をご一緒に、心に留めていきたいと思います。

 平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。

 ある人が、このイエス様の言葉をこのように訳し換えました。「平和を好む人たちは、幸いである」。平和を好む、または平和を愛する。私たち、そのように訳し換えてくれると、どことなくホッとします。私たち誰しも、平和を好み、平和を愛しているからです。ここで言う「平和」というのは、単に、「戦争がない」ということではありません。日常生活を平和に過ごすことができる。家庭の平和、職場の平和、また社会全体が平和であることを私たちも日々望んでいる。「平和を好む人たちは、幸い」、「私も、この幸いを望んでいる」、そう思うのであります。
 しかし、聖書の学者たちの解説を読んでおりますと、どうも、それだけの御言ではなさそうなのです。確かに言語的には、「平和を好む」とも訳すことはできるようなのですが、この言葉の意味はそこにとどまらない。私たちが読んでいるとおり、「平和を実現する」と訳すべきだろう、そのように多くの聖書の学者たちは語るのです。「平和を実現する」、もしくは「平和をつくり出す」。しかも言葉としては、私たち一人一人が、自分から平和をつくり出していく。平和の実現のために努力していく。どうも、そのことを求めているイエス様の御言なのです。ならば、私たちは思う。「平和を実現する」、もしくは、「平和をつくり出す」というのは、具体的に、どういうことを言うのであろうか。
 
 今年も、ノーベル賞、その受賞者の発表がありました。日本人でも、リチウムイオン電池を開発した吉野氏が、ノーベル化学賞に選ばれました。特に、私たちの国からは、その化学賞や物理学賞を取る人たちが多くいる。ですから、その分野におのずと注目が集まります。そして、毎年、もう一つ注目が集まるのは、(これは、日本人が選ばれる、選ばれない、それに関係なく、注目が集まるのが、)「ノーベル平和賞」ではないかと思うのです。今年は、エチオピアのアビー首相が選ばれました。そして、昨年は、コンゴのムクウェゲ医師、そしてイラクの人権活動家ムラド氏が選ばれた。
 毎年、私は思います。ノーベル平和賞の受賞者が決まる。そしてその人が、どのような活動をしてきた人か、それがテレビや新聞で紹介される。私、恥ずかしながら、毎年そこで、「ああ、あの国には、こんな悲惨なことがあったのか」ということを初めて知るのです。
 ノーベル平和賞は、私たちに教えてくれます。世界には、本当に悲惨な地域がある。信じられないような虐待を受けている人たちがいるし、果てしなく人々の争いが続いている国がある。ノーベル平和賞が贈られるたびに、私たちの祈りが、一つずつ増えていくのであります。
 そして私たちは思います。平和を実現する人々は、幸い。このイエス様の言葉は、まさに、そのような場所で活動している人たちにこそ、ふさわしい。悲惨な現実と真っ向から向き合い、平和の実現のために、文字通り命を捧げている。もちろん、ノーベル平和賞を受ける人は、その中のごくごく一握りの人たち。世界には、その名を知られることなく、平和のために命を捧げている人たちが大勢いる。私たちは思う。そのような人たちこそ、イエス様の祝福にふさわしい! 平和を実現する人々に、どうか、神様の祝福があるように!
 
 確かに、この祝福の言葉には、そのような一面もあるのです。そして、今も働いてくださっているイエス様が、そのような人たちを支え、そして祝福してくださっている。だから私たちも、祈りによって、また支援することによって、その方たちの活動を支えていきたい。そのようにして、私たちも、平和を実現する、その一端を担いたいのです。
 しかし、イエス様のこの祝福の言葉は、ただそれだけではないのです。イエス様はここで、私たち一人一人が、平和を実現していくことを求めておられる。自分の日常の中で、家庭の中で、職場の中で、またそれぞれ置かれた場所に置いて、私たちも、平和の建設者となることをイエス様は求めておられるのです。
 
 「平和」という言葉。この言葉は、ヘブライ語で、「シャローム」と言います。そして、「シャローム」という言葉は、聖書の舞台イスラエルでは、ごくごく当たり前、とても日常的な言葉でした。どのぐらい日常的かと申しますと、イスラエルの挨拶の大半が、この「シャーロム、平和」という言葉が使われていたのです。
 私たちは、時間帯によって挨拶を使い分けます。朝は、おはよう。昼は、こんにちは。夜は、こんばんは。しかし、イスラエルでは、朝昼晩、挨拶は、すべてシャロームなのです。「シャローム、あなたに平和がありますように」。ちなみに、「さようなら」も、シャロームです。別れる相手に、「シャローム、あなたに平和がありますように」、言ってみれば、その人の祝福を祈りながら、お別れをする。とても素敵な挨拶だと思います。そして、イスラエルの人たちにとってみれば、そのぐらい、「平和」というのは、日常的な言葉。逆に言えば、この日常的な言葉をごくごく当たり前に交わし合えることが、「平和」だと言えるのであります。
しかし、それが言えない状況も、しばしば聖書には登場するのです。
 
 旧約聖書にヨセフという人が出てきます。ヨセフは、一二人兄弟の下から二番目で、父親のヤコブから溺愛を受けます。すでに年をとっていた父ヤコブは、ヨセフが可愛くて仕方がない。ほかの子供たちを差し置いて、ヨセフにだけ、裾の長い上等な服を与えます。「裾が長い」ということは、牧畜や畑仕事ができない、ということです。裾が長ければ、どうしたって、汚れてしますから、ヨセフは、そのような手を汚す仕事、汗を流す仕事、それらはしなくてもいい。ヨセフは、そのような特別扱いを父から受けるのです。当然、ほかの兄弟はおもしろくない。ヨセフをねたみ、憎み、結果、兄たちは、ヨセフと「穏やかに話すこともできなかった」と、聖書に書いてあるのです。そして、この「穏やかに話す」という言葉が、原語では、「シャロームを言えない」という言葉なのです。目に浮かびます。朝起きて、顔を洗うとき、水場にヨセフがいても、兄たちは、シャロームと言えない。夜寝るとき、ヨセフが隣りの寝床に入ってきても、シャロームと言えない。ごくごく当たり前で日常的な挨拶、しかも相手の平和を祈る挨拶、その挨拶、祈りをすることもできないぐらい、兄たちはヨセフを憎んだのです。
 悲しいかな、これは、私たちも分かるところではないかと思います。私たちも、誰かと人間関係がこじれてしまうときがある。そのとき、シャロームと言えなくなってしまうのです。いや、シャロームと言えないどころか、できれば、その人と顔を合わせたくない。どうしても、顔を合わせなければならない場合は、形だけの挨拶や会話にとどめたい。「シャローム、あなたに平和がありますように。あなたの平和を心から祈ります」、私たちも、ヨセフの兄たちの気持ちがよく分かる。また身に覚えがあるのであります。
 しかし、イエス様は言われるのです。「平和を実現する人々は、幸いである」。「あなたがたは、平和を実現する、平和をつくる者になりなさい」。
 
 さらにイエス様は、このような話もなさいました。マタイによる福音書第五章二三節からの箇所、ここはご一緒に読んでみたいと思いますが、マタイによる福音書第五章二三節から。

 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
「祭壇に供え物をする」、全く同じではありませんが、私たちで言うところの「礼拝」です。礼拝に来て、祈るとき、兄弟が(だれか他の人が)自分に反感を持っているのを思い出したならば、まず行って、その人と仲直りをしてきなさい、と言うのです。供え物(礼拝)は、それからだという。

 これも、厳しい話です。もし仮に、これが、このような話だったら、まだ受け入れ易いのかも知れません。礼拝に来て、祈りをする。そのとき、自分が、まだ誰かに腹を立てていたならば、「あの人のことは、赦せない!」、自分がそのような憎しみを、まだ抱いていたならば、神様の前で、その人を赦してあげなさい。イエス様のゆえに赦してあげなさい。これだって、なかなか厳しいことですが、まだ理解できる。しかしイエス様が、ここで語っておられることは、さらにその上を行くのです。誰かが自分に反感を持っている、それに気がついたならば、その人のところへ、自分から行って、自分から赦してもらいなさい。つまり、自分が赦すだけではない。相手に自分を赦してもらう。しかもそれを自分からする。次も同じです。二五節。

 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。

 裁判で訴えられたときの話です。なぜ、この裁判が起こったのかは分かりません。自分が悪いのか、それとも相手が悪いのか、いずれによせ、何かトラブルが起こった。そのとき、その裁判所に着く前に、赦してもらいなさい、というのです。裁判所まで、どれだけ距離があったか、それは分かりません。しかし、迷っている暇などなかったことでしょう。ぼやぼやしていると、すぐに着いてしまう。裁判所に着いて、裁判が始まったら、もう遅い。だから、それまでに赦してもらいなさい、和解しなさい。イエス様はそのように言われるのです。
 なんて難しいことを、イエス様は言われるのかと思います。「平和を好み、平和を愛する」、それだけならば、私たちにもできるかも知れない。しかし、イエス様がここで求めておられることは、(じっとしていて、そこで平和の有り難さを喜ぶことだけではなくて)自分から行って、平和をつくる。自分から行って、和解する。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。あなたたちは、平和を実現する者になりなさい!」、そのようにイエス様は言われるのです。
 
 そして、もちろんですが、イエス様は私たちに、ただ命令するだけではありません。イエス様は私たちを、平和をつくるために、送り出してくださるのです。最初から「無理だ」と言って、あきらめたくなる私たちの背中を、イエス様が大きな力で押してくださる。
 そこで、もう一箇所、「平和」、「シャローム」という言葉が出てくる箇所を読んでみたいと思うのですが、ヨハネによる福音書第二〇章一九節から。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 イエス様がおよみがりになった時の出来事です。イエス様は、ユダヤの指導者たちに逮捕され、エルサレムの郊外、ゴルゴタの丘の上で十字架につけられました。そして十字架の上で息を引き取り、お墓に葬られたのが、金曜日の夕方だったのです。
 しかし日曜日、女性の弟子たちが、イエス様の遺体をきれいにするために、墓に向かうと、墓の入口が開いていました。そしてお墓から、イエス様の体が消えていた。男性の弟子たちも、それを確かめに行くのですが、しかし男性たちは情けない。自分たちが逮捕されることを恐れて、家に固く鍵を閉め、そこに閉じこもっていたのです。
 そこへイエス様が入って来てくださる。およみがりとなったイエス様が、家の中へ入ってきて、弟子たちの真ん中に立ち、あの挨拶をしてくださったのです。「シャローム、あなたがたに平和があるように!」。
 印象深いと思います。イエス様のほうから来てくださいました。しかも、イエス様が会いに来てくださった弟子たちは、イエス様を裏切っているのです。イエス様が逮捕されるやいなや、弟子たちは、我先にと言わんばかりに逃げてしまった。あんなにイエス様に愛されていたのに、その愛をいとも簡単に裏切ってしまった。ですから、本当ならば、弟子たちのほうが、おわびに行くべきだったのです。例えば、イエス様のお墓に行って、その墓にすがりつくようにして、「イエス様、お赦しください」と言わなければいけなかった。それなのに、弟子たちは、ただ家に閉じこもっていただけ。その弟子たちのもとに、イエス様はご自分から来てくださり、「シャローム。平和があるように」と言ってくださったのです。「平和があるように。わたしは、あなたたちとの間に、もう一度、平和をつくる。あなたたちを赦して、まことの平和をつくる」。
そしてイエス様は、弟子たちを遣わしてくださる。二一節。

 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 イエス様が弟子たちを遣わす。その目的は、はっきりしています。「罪の赦し」を告げるためなのです。その人のもとに自分から行って、「あなたの罪は、赦された」と言うのです。そのとき、もちろん、同時に告げなければいけないことは、「わたしの罪も、赦されたのだ」ということです。「わたしの罪も、イエス様の十字架によって赦していただいた。あなたも同じ!」。これが、平和なのです。ただ、人間同士の平和ではなく、神様と私たち、神と人間との間に打ち立てられた、揺るがないイエス様の平和。この平和が、弟子たち、そして私たちの背中を押す。「平和を実現する」、その一歩を踏み出す背中を押す。
 
 今日は、逝去者記念礼拝です。天に送った親、兄弟、そして愛する子どもたち、そして信仰の先輩たちのことをおぼえて、私たちは神様を礼拝しています。私たちの思いは、さまざまです。懐かしい思い、感謝の気持ち、そして、「もう少し話がしたかった、あのことも、このことも分かち合いたかった」、そのような思いが、私たちの中に湧き上がってくる。そしてその思いの中の一つに、「ちゃんと謝りたかった」、そのような気持ちもあるのではないか、と思うのであります。「あの時、感情にまかせて、喧嘩をしてしまった」、「あの時、あんなひどい言葉を言ってしまった」、そして「あの時、もっともっと、よくしてあげればよかった」。
 イエス様は先ほどの言葉の中で、こう言われました。「まず行って兄弟と仲直りをし」。しかし、天に送った人のところへ、私たちは、今行くことはできない。「あのことを謝りたい」、そう強く願っても、今すぐ行くことはできない。しかしイエス様は、その方たちと、私たちとの間にも、「平和の実現」を願っておられるのです。

 平和を実現する人々は、幸い。

イエス様は、約束してくださっています。天において、私たちは再びその方と会うことができる。しかも、会う場所は、イエス様の前。イエス様によって、お互いの罪を赦していただいて、その赦しの中で、しかも、神様の子どもとして、神様の食卓につく。その神様の食卓において、私たちは、その方とお互いに、「シャローム」と言うのです。「あなたに、平和があるように」、お互いに、「シャローム」と言い合って、イエス様の前で和解する、真の平和の実現をそこで経験する。
 そして、私たちは、その天の食卓を見据えつつ、今共にいる人たちと、「平和」をつくり、「平和」に生きるのです。
 自分から行くのです。自分から平和をつくりに行くのです。その道は、簡単ではありません。その道は平坦でもありません。イエス様が十字架を背負ってくださった、その道と同じだからです。たくさんの侮辱や、心ない言葉が飛んでくるかも知れません。黄金の冠どころか、茨の冠をかぶらされるかも知れません。しかし私たちは、それでもその道を行く。イエス様が十字架にかかってくださったからです。そして、およみがえりとなってくださったイエス様が、私たちに、「シャローム」と言ってくださったからです。そのイエス様に背中を押され、また、「神の子。わたしの子」、そう呼んでくださる、天の父なる神様を信じ、私たちは、平和をつくり出す道へと足を踏み出す。
 「シャローム、あなたに平和があるように」、今週も、その一言が言えますように!
 メッセージTOPへ
 

2019年9月メッセージ

礼拝説教「憐れみ深い人々は幸いである」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第5章7節

 
 先週の週報にすでに報告が載りました。鄭先生と数名の青年たちが、この九月の始め、韓国研修旅行に行ってきました。そして、みんな、本当にいい顔をして、帰ってきました。
研修旅行については、改めて報告会があるようですが、私は皆様に先立って、鄭先生と何人かの青年たちから簡単な報告を聞きました。とてもいい出会いがあったようです。ご存知の方も多いと思いますが、韓国には大きな教会が多く、教会によっては青年たちが何百人と集まるところもある。私たちの教会から行った青年たちも、そのような教会を幾つか訪ね、通訳を介しながら色々な話をしてきたようです。そして互いに刺激し合い、互いに祈り合ってきた。そして向こうの教会の青年たちから、言ってみれば、「信仰の火」をもらって帰ってきたのであります。いい顔をして帰ってきた、また、いい顔になっている、それは、信仰の火が内側で燃えているからなのでありましょう。
 確かに、信仰というのは、誰かから、またどこかから、火をもらうことでもあります。これは、皆様も大いに思い当たると思います。私たちは、自分一人で神様を見いだし、自分一人でイエス様を知ったのではない。誰かの中に燃えている火を分けてもらった。誰かの中に宿っている信仰を自分も宿すようになった。そしてこれは、最初のきっかけだけではなく、信仰の生活をしていく上でも、そのことを繰り返す。私たちは信仰の歩みにおいて、時に、強い風が吹いてきて、火が消えそうになってしまうときがある。また、油が尽きそうになり、火が弱るときもある。しかし私たちは、礼拝に集うのです。ここに来て、みんなと一緒に讃美歌を歌い、祈り、そして何よりも神様から御言をいただいて、イエス様との出会いを経験する。そのようにして、私たちも火をともすのです。また火を大きくするための油をいただく。私たちは毎週ここで、神様から信仰の火をいただいていると言ってもいいのであります。今日も私たちは、神様から御言をいただく、信仰の火を、またその油を、いただきたいと願うのであります。
 
 今日、私たちに与えられた御言は、マタイによる福音書第五章七節であります。もう一度お読みしますと、このような御言です。マタイによる福音書第五章七節。
 

 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは、憐れみを受ける。

 
 これは、イエス様がお語りになった祝福の言葉です。イエス様は、憐れみ深く生きている人たちを、ここで祝福してくださっている。その人たちは、憐れみを受ける。ここは正確に訳と、「将来、憐れみを受けるであろう」という言葉でありまして、「将来、いつか必ず、神様があなたがたを憐れんでくださる。だから今、憐れみに生きよ!」、イエス様はそう語っておられるのです。
 色々なことを考えさせられます。イエス様はよくよくご存知であったのでしょう。憐れみに生きることは、必ずしもこの世で報いを受けることではない。私たちが誰かを憐れんだとしても、その憐れみが、必ずしもその人の心に届き、その人からいつも感謝されるとは限らない。また、辛抱強く、人を憐れむ生き方をしていても、それで損ばかりをする時もある。でもイエス様は言われる。「あなたは、憐れみに生きなさい。憐れみ深い心に生きなさい。将来必ず神様が、あなたを憐れんでくださるのだから!」。イエス様はそのようにお語りになって、私たち一人一人を憐れみに生きるようにと招いてくださっているのです。
 ならば、イエス様がここで求める「憐れみ」とは何だろうか。どのような憐れみの心に、私たちが生きることをイエス様は求めておられるのだろうか。
 
 聖書に登場する「憐れみ」、その代表例とも言えるのが、イエス様がなさった譬え話、「善いサマリア人の譬え話」です。このような譬え話です。
 ある旅人がいた。その人は、旅の途中で強盗に襲われ、身ぐるみ剥がされ、大きな怪我を負ってしまう。そして人里離れた場所で、動けなくなってしまい、死をも覚悟する。するとそこへ、神殿に仕える祭司が通りかかる。しかしその祭司は、倒れている旅人を見ると、道の向こう側を通って、どこかへ行ってしまった。次に、やはり神殿に仕えるレビ人が通りかかる。祭司もレビ人も、普段人々に憐れみを説いていた。しかしそのレビ人も、見て見ぬふりをして、素通りしてしまう。そして最後に、サマリア人が通りかかる。当時、サマリア人とユダヤ人は、敵対関係にあり、互いに嫌悪し合っていた。しかしそのサマリア人は、旅人を見ると、憐れに思い、駆けよってきて、介抱する。そして旅人を自分のろばに乗せ、宿屋まで運び、その治療費も宿の主人に渡す。イエス様は語る、「このサマリア人の姿こそが、憐れみ深い人の姿。憐れみ深い人々は、幸いである、あなたも、行って、同じことをしなさい、あなたも、善いサマリア人になりなさい!」。
 しかし、私たちは戸惑ってしまうのであります。確かに、あの譬え話に登場するサマリア人の姿は、美しい姿だと思う。何も顧みず、ユダヤ人・サマリア人という隔ての壁も超えて憐れみに生きる。「ああ、わたしも、できることならば、あのように美しく生きたい。憐れみに生きたい!」、私たちもそう願うのですが、そこで、自分の醜さも同時に突きつけられる。自分は、そんなに美しくない。倒れている人を見ても、そんなにすぐには体が動かない。私たちは、憐れみに生きた善いサマリア人の譬え話を聴いても、かえってそこで、自分の醜さを知る。自分はいかに憐れみが乏しいか、自分はいかに憐れみがないか、冷たい心の持ち主か。言い換えれば、私たちはそこで、自分の罪を見るのです。そして、不安になるのです。憐れみ深い人々は、幸い、私たちはイエス様がここで言われる「幸い」の中に入れるのだろうか。いや、自分には、この「幸い」に入る資格が、到底ないのではなかろうか。
また、私たちはそこで、開き直るようにして、自分に言い訳をし始めるのかも知れません。「善いサマリア人の譬え話。イエス様、あの話には現実味がありませんよ。誰にだって、それなりの事情があり、『助けたい』という気持ちを持っていても、それができないこともあるでしょ。祭司やレビ人だって、きっと果たすべき務めがあったのだろうし、もっと重要な用事を抱え、道を急いでいたのかも知れない。第一、『助けよう』と思っても、そのための力がない人もいる。イエス様、あんな美しい理想的な話をされても、私たちは困ってしまうだけ。人間、憐れみだけでは生きていけないし、世間はそれだけでは渡ってはいけない!」。私たちはややもすると、そのように開き直ってしまう。憐れみを退け、自分の正義を主張する。
 
 そこで私、聖書における「憐れみ」という言葉を改めて調べてみました。新約聖書が書かれているギリシャ語ですと、この言葉は、私たちが受け取っているとおり、「憐れむ」という意味なのですが、聖書の学者たちは、この言葉は、旧約聖書にまで遡る必要があると語っていました。そして、旧約聖書における「憐れみ」という言葉は、「ヘセド」という言葉でありまして、調べてみて、非常におもしろいことが分かったのです。この「ヘセド」という言葉は、「憐れみ」という使われ方もしているのですが、箇所によっては、「正義」、もしくは「まこと」という使われ方もしているのです。「憐れみ」、「まこと」。私たちの感覚ですと、正義を貫くとき、どこかで憐れみは犠牲にしなければいけない、と考える。正しく物事を進めるためには、同情や愛はいらない。また逆に、憐れみを優先すると、多少は正義を曲げざるを得ない、そのようにも考える。しかし旧約聖書では、同じ言葉が使われているのです。「憐れみ」と「正義」、(特に、旧約聖書では、「ヘセド」という言葉は、神様に対して使われているのですが、)神様にとって、「憐れみ」と「正義」というのは、一つのこと。これは、どういうことか。
 
 そこで今日、私たちは、民数記を読んでみたいのですが、旧約聖書、民数記第一四章にこのような場面があります。民数記第一四章一一節から。
 

 主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。」

 話の途中からです。このとき、イスラエルの民は、エジプトを脱出して、荒れ野を旅していました。そしていよいよ、その旅の目的地、約束の地カナンに近づいてきたのです。そこで、民の指導者モーセは、各部族から代表者を選び、カナンへ偵察に行かせます。そしてその偵察部隊は、四〇日間、カナンを見て廻るのですが、帰ってきて、人々にこのような報告をしたのです。第一三章三二節。

 イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」

 「ネフィリム」というのは、巨人のことなのです。「神様が私たちに約束してくださっていた地カナンには、巨人のように大きな人たちが住んでいる。彼らは強く、我々を食い尽くすに違いない」。
 怖かったのです。他の報告では、「町という町が城壁に囲まれ、武装している」という報告もあり、恐ろしさのあまり、彼らには、カナンの住民が巨人に見えた。だから、「行くのは、やめよう」という報告をしたのです。すると、民たちは動揺し、「エジプトに帰ろう」と言い出すのです。「神様は、我々を殺すために、エジプトから連れ出したのか!」。
 それを聴いて、神様がお怒りになったのが、先ほど読んだ一一節、一二節なのです。「この民は、いつまで、わたしを侮るのか。わたしがおこなってきた数々のしるし(奇跡)を忘れてしまったのか」。
 確かに、神様は、エジプト脱出のために、一〇の災いをエジプトで起こしてくださった。また、エジプト軍に追われたときも、海を二つに割って、逃がしてくださった。そして、荒れ野で、パンを、水を与えてくださった。「それらのしるしを目の当たりにしておきながら、まだ、あなたがたは、わたしを信じることができないのか!」。神様は、そう言ってお怒りになる。そして、荒れ野でこの民を滅ぼし、モーセ、あなたから、もう一度民を作り直す」、そこまで言われるのです。するとモーセは、神様に訴えるのです。一三節です。

 モーセは主に訴えた。「エジプト人は、あなたが御力をもって、彼らのうちからこの民を導き上られたことを聞いて、この地方に住む者に伝えます。彼らは、主よ、あなたがこの民のただ中におられ、主よ、あなたが目の当たりに現れられること、また、あなたの雲が民の上にあり、あなたが、昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって先頭に進まれることを聞いています。もし、あなたがこの民を一挙に滅ぼされるならば、あなたの名声を聞いた諸国民は言うことでしょう。主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、と。
 ほんとに、おもしろい箇所なのですが、モーセは、神様のプライドに訴えかけるのです。「神様、もしここで、あなたが民を滅ぼしたならば、笑われるのは、神様、あなたですよ」とモーセは言うのです。「主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、神様、そう言われて、馬鹿にされるのは、あなたですよ!、あなたの面子が丸つぶれになるし、あなたの評判もガタ落ちになる、それでもいいのですか!」。モーセはそう言って、神様に訴えていく。そして、一七節。
 今、わが主の力を大いに現してください。あなたはこう約束されました。『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である』と。どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」

 モーセが訴えかけたのは、神様の「慈しみ」なのです。「あなたは、慈しみに満ちている方ではありませんか!」。そして、この「慈しみ」という言葉が、「ヘセド(憐れみ)」という言葉なのです。
 印象深いと思います。モーセは、民を執り成して、祈っています。しかしモーセは、「神様、彼らにも、いいところがありますよ」と言って、執り成しているのではないのです。「イスラエルの民も、探せば、いいところが、幾つかあります、だから、それに免じて赦してください」、モーセは、そんなことは祈らない、いや祈れない。モーセが一番よく知っていた。イスラエルの民は、繰り返し罪を犯してきた。「またか」と言いたくなるほど、神様に反抗し続けてきた。だからモーセにしてみても、これ以上、民を弁護することはできない。しかしモーセは、「神様、それでも、あなたは慈しみに満ちている方! 憐れみ深い方! だから、赦してください、憐れんでください。どうか、あなたが、あなたであることを最後まで貫いてください!」。そう祈って、赦していただくのです。二〇節。

 主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう」。

 「ヘセド」というのは、こういうことなのです。神様は、憐れみ深い方。その神様が、神様であることを貫く。「民を憐れむ」という神様のまこと、その正義を全うする。そのとき、イスラエルの罪は赦される。そして私たちの罪も、神様のヘセドのゆえに赦されたのです。
 
 先週私たちは、この礼拝で、ぶどう園の労働者の譬え話を聴きました。私ではなく、鄭先生の説教でしたが、先週礼拝が終わったあと、何人かの方たちから言われました。「先生が、初めてこの教会で説教なさったときも、この譬え話でしたね」。覚えてくださっている方がいて、嬉しく思ったのですが、私が初めてこの教会の礼拝で説教をしたのは、今から四年前、赴任する前に、一度お邪魔して、説教をさせていただいた、通称、「お見合い説教」と言われるものをおこなったのです。そのとき、私が選んだ御言が、ぶどう園の労働者の譬え話だった。先週、鄭先生が語る説教を聴きながら、私も懐かしく思いました。
 そして実は私、もう先週には、今日の説教の準備を始めていましたので、頭の中にずっと、憐れみ深い人々は、幸いであるという御言がありました。そして、ぶどう園の労働者の譬え話を聴きながら、「あ、ここにも、神様のヘセドがある。神様の憐れみ、神のまことがある」、そう思って、説教を聴いていたのです。
 このような譬え話でした。ぶどう園の主人が、収穫の季節、労働者を町の広場に雇いに行く。朝六時、九時、一二時、そして午後三時、さらには、夕方五時にも、広場に行って労働者を雇うのです。そして日が暮れて、労働者たちにその日の賃金を支払う。そのとき主人は、朝早くから働いた人たちにも、夕方一時間しか働かなかった人たちにも、みんな同じ報酬、最初に約束した一デナリオンずつ渡すのです。朝から働いていた人たちは、主人に文句を言います。「まる一日働いた私たちと、一時間しか働かなかったあの連中とを、あなたは同じ扱いにするのですか!」。すると、主人は答える。「友よ、わたしは、不当なことはしていない。あなたとも一デナリオンの約束をしたではないか。わたしは、あの最後に来た者たちにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。
 なぜ、夕方雇われた人たちも、同じ一デナリオンをもらえたのか。それは、主人の憐れみ(ヘセド)なのです。夕方一時間しか働かなかった人たち、間違ってはいけないのは、その人たちは、夕方まで家でのんびりしていて、そして夕方、ノコノコ広場に行ったら、運良く雇ってもらえたのではないのです。彼らも朝から待っていた。必死に仕事を待っていた。そして仮に、主人から声がかからなければ、その日の収入はなかったのです。収入がなければ、その日、食べるものが買えない。自分だけではなく、自分の子供たち、家族も食べることができない。だから、主人は言う、「わたしは、あの者たちにも、支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか!」。
 神様のヘセド(神様の憐れみ、神様の正義)というのは、人間の常識を超えるのです。人間の計算もくつがえす。「夕方一時間しか働いていないのに、一デナリオン」、そんなのおかしいではないか。不公平ではないか。主人は言う、「それが、どうした! わたしは、憐れみたいから、憐れむのだ。わたしは、どうしても、あの人たちに一デナリオンを支払ってあげたいのだ!」。

 このぶどう園の譬え話を説教したある牧師は、こう言いました。
 「神は不公平な御方、そう、神は憐れみ深い御方!」。
このような主旨なのです。もし神様が、私たちが考えるような公平で、公正な御方ならば、誰が天国に行けるのか。神様の愛、その憐れみに、誰が価するのか。「自分は神の憐れみに、充分価する、それだけのことをしてきたし、それだけの資格がある!」、誰が胸を張って、そう言えるのか。誰も、神様の憐れみに価することはしていないし、してこなかった。しかし神様は、私たちを憐れんでくださったのです。自分のもの自分のしたいようにして、ご自分の御子キリストを私たちの身代わりとして、十字架につけてくださった。罪のないイエス様が、私たち罪人の身代わりとなって殺される、本当に不公平、本当に理不尽、だからこそ!、私たちは救われた、私たちの罪は赦された! 「神は不公平な御方、そう、神は憐れみ深い御方!」。
 そして、(ここが、あの譬え話の急所だと私は思うのですが)その憐れみ(ヘセド)に、主人は、朝早くから働いていた人たちも、招き入れているのです。「友よ」と、あの主人は語りかける。「友よ。わたしの友よ、あなたも、わたしと同じ憐れみに生きてくれないか。あなたも、わたしと同じ憐れみの心を持ってくれないか。『わたしは、あの人に比べて、一日中働いて、損をした、割を食った』などと言うのではなく、夕方雇われた人たちと一緒になって、喜んでくれないか。『ああ、よかったね。私たちは、なんて憐れみ深い主人に雇ってもらえたのか。私たちはmこの主人に、朝から雇ってもらえた。そしてあなたも、夕方雇ってもらえた。この憐れみ深い主人に感謝しよう!一緒になって、感謝し、主人の憐れみの深さを一緒になって喜ぼう!』。朝早くから働いた者たちよ、わたしの友よ、どうか、あなたも、そう言える者になってほしい。あなたも、憐れみに生きる者になってほしい。そこにこそ、神の祝福があるのだから!」。
 

 憐れみ深い人々は、幸いである。

 私たちも、憐れみに生きるのです。常識を超えるような憐れみの主人を知っているから、またその主人に、私たちも憐れまれたから、私たちも、憐れみに生きる。そうなのです。私たちは、「憐れみ」という炎を、神様からいただくのです。そしてその炎を、火を、私たちも燃やし、また誰かの心にも、その火をともす。もう計算しなくていいのです。これをしたら、見返りがあるとか、ないとか。憐れみに生きることは、得なのか、損なのか。いちいち、しかめっ面をしながら、電卓を叩く必要はない。憐れみ深い人々は、幸い !、その人たちは、憐れみを受ける。 私たちは、もう、十字架という憐れみを受けているし、また今も、十字架の憐れみを受け続けているし、そして最後は、天において、イエス様のゆえに赦される。だから、今、憐れみに生きる! 憐れみ深い人々は・・、憐れみに生きるあなたは!、まことに幸いなのであります。
 メッセージTOPへ
 

2019年8月メッセージ

礼拝説教「心の貧しい人々は幸いである」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第4章23節~第5章3節

 
 
 今日から、山上の説教、その冒頭にある「八福」と呼ばれている箇所を、礼拝で心に留めていきたいと思います。
 五月から、私たちは、「主の祈り」の言葉を、この礼拝で心に留めてきました。そして前回、その学びを終えた。そしてここで、四月まで読みすすめてきた、「ルカによる福音書」に戻ってもよかったのですが、ただ、ルカによる福音書の続きが、イエス様の受難とおよみがえりの箇所なのです。どうしようかなぁと私、散々迷ったのですが、イエス様の受難とおよみがえりの箇所は、レントやイースターの時に読もう、そのときまで待とう、と思いました。そこで私、今回、「山上の説教」、その冒頭にある「八福」の言葉を選ばせていただいたのであります。
 マタイによる福音書、第五章三節から一二節のところには、「幸いである」という言葉が、八回ないし九回続けて出てきます。そのため教会は、ここを昔から、「八福」、もしくは「九福」という呼び方をしてきました。イエス様が語ってくださった「幸い」、祝福の言葉。もちろん、イエス様の言葉は、すべてが特別で、すべてが大切ですが、教会はこの八つないし九つの祝福の言葉を、昔から特に大切にしてきました。私たちは今日から、しばらくのあいだ、この祝福の言葉を一つずつ、礼拝で心に留めていきたいと願う。そしてイエス様が語る幸い、その祝福の中を歩みたいと願うのであります。
 
 今日は、「八福」最初の幸い、「心の貧しい人々への幸い」です。イエス様は、このようにお語りになりました。マタイによる福音書第五章三節。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。

 もしかしたら、「八福」の中で、この最初の幸いが、聞く私たちを、最も戸惑わせるかも知れません。「心の貧しい人が、幸い?」。私たちがむしろ期待する言葉は、このような言葉ではないかと思うのです。「心の豊かな人は、幸い!経済的に、多少貧しくても構わない。でも、心さえ豊かならば、人生を幸せに過ごすことができる。『ボロをまとえど、心は錦』、ああ、心の豊かな人は、なんて幸いなことでしょう!」。もしここが、そのような言葉だったら、私たちも、戸惑わない、納得がいくのです。そしてもっと言うならば、こういう言葉ならば、私たちをもっと満足させたかも知れません。「どんなにお金を持っていても、心が貧しい人は、なんて不幸なことか。それに比べて、『信仰』という豊かな心を持つ人は、なんて、幸いなことか!」。しかし、イエス様はそうは言われなかったのです。「心の貧しい人々は、幸い。天の国は、その人のもの」。これは、どういうことなのだろうか。
 
 ここの「貧しい」という言葉ですが、聖書が元々書かれた言葉を調べてみましたら、「非常に貧しい状態」を示す言葉でした。変な言い方ですが、ちょっとやそっとの貧しさではない。そしてさらに調べましたら、元々この言葉は、「恐れて縮こまる」という言葉から来ているようなのです。そしてある人は、このような説明をしていた。「これは、道ばたに縮こまり、物乞いをしている人の姿から来ている」。なるほど、確かに、物乞いをする人は、堂々と道の真ん中ではいたしません。恐れて縮こまり、道の端っこで小さくなって、物を乞う。そのぐらい貧しい、そのぐらい悲惨な状態。しかも、ここでイエス様が言われている「貧しさ」は、表面上の貧しさではない。内面の貧しさ、「心の貧しさ」。
 私たちも色々な場面で、心の貧しい人に出会います。例えば、人の悪口ばかり言う人。相手を思いやることなく、人の欠点ばかりをあげつらう人。そのような人は、「心が貧しい」と言えるでしょう。「人の悪口を言って、自分はあの人よりはマシだ」と、結局自分を持ち上げているだけ。また、心が狭く、常に自分の利益ばかり考えている人も、「心が貧しい」と言える。そして、神様や人に対する感謝の気持ちがなく、いつも、不平不満ばかりを口にする。そのような、心の貧しい人と一緒にいると、こちらまで、心がすさんでくる。また、あとでどっと疲れる。
 いや、決して人ごとではないでありましょう。私たちも、自分自身、ふっと気づくと、自分の心の貧しさが、おもてに現れてしまう。気がつけば、ささいなことに苛立って、配慮のない言葉を口にしている。すさんでいる自分の心の内側を、そのまま汚い言葉や、乱暴な行動に移している。「ああ、またやってしまった。また、同じ過ち、罪を犯してしまった」。私たちも、自分の心の貧しさに、うんざりする。「どうして、こんなにわたしは、心が貧しいのか」と辟易とする。私たちは思う。それのどこに、「幸い」があるのだろうか。心の貧しい人が、なぜ、幸いなのだろうか。
 
 この祝福の言葉を含め、この第五章から始まるイエス様の言葉は、「山上の説教」と呼ばれています。この「山上の説教」は、まずは、誰に語られたのか、最初の聴き手に心を留めてみるというのも、とても大切なことでしょう。そしてそれは、第四章二三節からの箇所に記されているのです。第四章二三節からを読んでみますと、こう記されています。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

 これは、イエス様が、ガリラヤに登場した、ほぼその直後の出来事です。イエス様の噂は、瞬く間に広がりまして、ユダヤを超えて、さまざまな地域から、大勢の人たちが、イエス様のもとに集まってきました。そして特に、ここに記されているように、病に苦しむ人たちが大勢集まってきていたのです。
 ここも、聖書が元々書かれた言葉で調べてみましたら、幾つか興味深い言葉がありました。二四節に、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」という言葉があります。ここに出てくる「苦しみ」という言葉は、非常に辛い苦しみを表している言葉なのですが、その意味の一つに、「拷問」という意味もあるのです。「拷問」です。強烈な言葉。しかも、そのあとの「悩む」という言葉も、強い言葉で、「押さえつけられていて、動けない」という言葉なのです。病を始めとして、苦しい悩みというのは、そういうものでありましょう。動けないのです。ぎゅうと押さえつけられていて、自由に動けない。また、肉体や心の痛みが去らなくて、まるで、「拷問」を受けているような日々が続く。きっとこのときも、一日二日ではなく、何年何年も、病に苦しめられてきた人たちが、集まってきていたのであります。中には、すでに医者から見放されている人もいたに違いない。幾つもの医者を周り、また怪しげな占い師などにも頼り、高額な治療費だけを取られてきた人もいたに違いない。そして、ここには、その病を負っていた人たちの家族もついてきていたはずなのです。家族も、苦しい生活を強いられてきたのです。病にかかった家族を癒すために、家族も一緒に苦しんできた。また、その病にかかった人が、我が子だったとしたら、その親が負う苦しみは、あたかも、拷問のような苦しみでありましょう。その人たちを、イエス様は、ご覧になったのです。第五章一節です。

 イエスは、この群衆を見て、山に登られた。

 イエス様は、この群集を見て、また、この群集のために、山上の説教を語ってくださったのです。また、マタイによる福音書は、「群集」という言葉も使いますが、二三節にあるように、「民衆」という言葉も使います。この「民衆」という言葉は、元は、「民」もしくは、「国民」という意味でありまして、つまり、イエス様のもとは集まった人たちを、マタイは、「イエス様の民」として見ている。イエス様の民、神の国の民、イエス様は、そのご自分の民を、じぃっと見つめながら、山上の説教を、そして祝福の言葉を、お語りになってくださったのです。そして例えば、イエス様は、人々の悲しみを見つめながら、「悲しむ人々は幸いである」と語ってくださった。「あなたがたは、大きな悲しみを背負って、今ここにいるね。今までずっと、悲しみをこらえて来たのだね。そのあなたたちに、祝福があるように。神様の幸いがあるように!」。そして、同じようにイエス様は、今、目の前にいる人たちの中にある、「心の貧しさ」も、見て取られたのです。
 これは、厳しいことかも知れません。私たちは、自分が窮地に追い詰められたとき、心の貧しさが、おもてに出てしまいます。ここに集まった人たちも、追い詰められていた、それゆえに必死であった。「イエス様、わたしを救ってください。わたしの病を、一番に治してください」。病の子どもを連れてきた親たちも必死だったに違いない。「イエス様、この子を看てください。他の人たちを差し置いてでも、この子の病気を治してください!」。苦しみは、人をわがままにします。そのわがままが、当然の権利であるかのような錯覚を抱かせます。そして、人は苦しいと、どんなことをしても、それは許されると思ってしまう。心の貧しさは、「人間の醜さ」を生むのです。
 そしてイエス様は、そのような表面にあらわれ出た「心の貧しさ」だけではなく、私たちの心の奥底にある、また、私たち誰もが持っている、「根源的な貧しさ」を、じぃっとご覧になるのです。
 「心の貧しい人々」。ここでの「心」という言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、「霊」という言葉です。実は、この先の八節にも、「心」という言葉が出てきます。「心の清い人々は、幸いである」。この八節の「心」と、三節の「心」は、原語では、別々の言葉が使われていまして、私たちが普段、口にする「心」という言葉は、どちらかと言えば、八節に近いのです。「心で感じる」とか、「心が動揺する」とか言ったときに使われる「心」という言葉は、八節の方。一方、三節の「心」は、元の言葉が、「霊」という言葉で、私たちの内側すべてを表している。
 聖書は語ります。私たち人間は、元々は土のかたまりだった。そこへ、神様がご自身の息を吹き込んでくださり、生きる者となった。そのときの「息」という言葉が、「霊」という言葉でありまして、私たちは、神様の息(神様のいぶき)によって、生きる者とされたのです。ですから、本来の私たちというのは、私たちの中で、神の息吹が息づいているのです。神様からいただいた霊が、私たちの中で呼吸している、息をしている。そしてその霊が、自由に息をしているときに、私たちは、人を愛するのです。また、神様を愛し、神様を礼拝する。しかし、イエス様は、ご覧になる。「あなたがたは、なんて心が貧しいのか。本来、息づいているはずの霊が見られない。もっと自由に息をしているはずの霊が、ほとんど息をしていない。『貧しい』、恐れ縮こまっている。あなたがたの霊は、なんて小さく縮こまっていることか!」。イエス様は、私たちが持つ本当の深刻さを、ご覧になる、また、本当の悲惨さをご覧になる。そして言われるのです。「心の貧しいあなたがた、あなたがたに、祝福があるように。神様からの幸いがあるように!」。
 
 先週の日曜日まで休暇をいただき、ゆっくりさせていただきました。この休暇を使いまして、私、学生時代の友人に何人か会ってきました。中には、卒業以来、つまり二四年ぶりに会ってきた友人もおりまして、学生時代を懐かしく思いました。
学生時代、私はよく友人たちと議論をしました。教会のこと、伝道のこと、神学的なテーマを巡って。神学校で受けた講義も、もちろん、力になりましたが、私はおそらく、授業よりも、友人たちと重ねた議論の中でこそ、神学を学んできたような気がします。
 その中で、よく友人たちとした議論の一つが、「山上の説教」を巡ってでありました。イエス様がお語りになった「山上の説教」をどう読むか。どう読んで、どう捉えていけばいいのか。例えば、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、その言葉も、「山上の説教」の言葉です。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」、これも、そうです。それら一つ一つの言葉を、どう読んで、どう捉えていけばいいのか。友人たちとよく議論した。また議論をするために、お互いによく本を読みました。
 実際私たち神学生の小さな集まりだけではなく、教会はその歴史の中で、「山上の説教」の読み方を巡って、たくさんの議論を重ねてきました。そしてたくさんの書物を生んできた。そして今思う、私が考える一つの急所は、「山上の説教は、イエス様がお語りになった言葉。この『イエス様がお語りになった』という一点を抜きにして読むとき、山上の説教は、読めなくなる。本来の意図が変わってくる」、私は、そう思っているのです。
 「山上の説教」の言葉は、単なる格言や金言、また知恵の言葉ではないのです。確かに、世の中には、役に立つ言葉がある。また、「なるほど」と思わせる、いい言葉がある。そして下手をすると、山上の説教の言葉も、その一つとして読まれ、その一つとして、考えようとする。しかし、そうではない。「山上の説教」は、あくまでもイエス様が、群集(ご自身の民)を見て、語ってくださった言葉なのです。そして、「心の貧しい人々は、幸い」、この言葉も、まさにそうなのです。
 「心の貧しい人が、なぜ、幸せなのか」、これを、イエス様から切り離し、単独の言葉として、「ああだ、こうだ」と考えても、分からないのです。ロジック、理屈をこね回し、「心が貧しいと、こういう『いいこと』がある」とか、「心が貧しいと、こういうメリットがある」とか、そういう受け取り方をしていると、この言葉の本来の意図を見失う。(実は教会も、似たような受け取り方をした時代もありまして、「自分の心の貧しさを自覚している、そのような謙虚な人は、幸いだ」、そう考えた時代もあった。しかし、「心の貧しさ」自体には、なにも価値がないし、何の美徳もない。「貧しい心」というのは、人間の醜さ以外の何ものでもないのです。)あくまでも、この言葉は、イエス様が語ってくださった言葉であり、そのイエス様が、心の貧しい私たちを見て、祝福してくださったことに意味がある。
 イエス様は、私たちのことをじぃっと見つめ、私たちの内面、心の奥底まで見つめ、そして、言われた。「ああ、なんて、心の貧しい者たちよ」。悲しい声で、また、深いため息と共に、イエス様は私たちの心の貧しさを嘆かれる。しかし、(しかし)そこでイエス様は、「あなたがたには、心底、がっかりした」、そうは言われなかったのです。「心の貧しいあなたがたには、わたしは正直、失望した。もう勝手に、滅びの道をゆくがよい、アナテマ、神に捨てられる道をゆくがよい」、イエス様はそうは言われなかった。それどころか、「そのあなたがたに、祝福があるように!心の貧しいあなたがたに、神様の幸いがあるように!」。イエス様はそう言ってくださったのです、しかも、「天の国は、あなたのもの!」。イエス様は、心の貧しい私たちを祝福し、天の国、神様のご支配の中へと、私たちを引き込もうとしておられる。「天の国を、あなたのために用意した! 天の国は、あなたのものだ」、そうとまで、イエス様は言ってくださっているのです。
 
 ある人は言いました。「この祝福の言葉、これは、主イエスの決意表明であった」。なるほどと思いました。イエス様はここで、心の貧しい私たちを、天の国へと引き入れる、ご自身の決意表明をしてくださっている。心の貧しい私たちが、天に受け入れていただくためには、そのままではダメなのです。自分本位で、わがままで、狭い心しか持ち合わせていない私たちに、天の居場所はない。罪人が、ふんぞり返って座る椅子など、天には用意されていないのです。だから、イエス様は、この世に来てくださった。そしてこの世に来て、十字架についてくださったのです。ご自分を犠牲にして、「心の貧しいあなたがたに、神の祝福があるように。天の国があなたのものとなるように」、そう言って、十字架で血を流してくださった。「心の貧しい人々は、幸い」、この言葉は、イエス様が十字架に向かう決意表明。そして同時に、十字架をもって、私たちの罪を赦す、赦しの宣言でもあるのです。
 そしてこの宣言の中で、私たちは、神様に豊かな心を求めていく。
 時々誤解されます。「イエス様によって、罪人であるわたしがゆるされたのだから、わたしは、そのままでいいのだ。罪人のままでいいのだ」、今日の御言で言い換えるならば、「心の貧しいわたしが、祝福されたのだからわたしは、心貧しいままでいいのだ。心貧しいありのままの自分でいいのだ」。全くの誤解です。確かに、イエス様は、心貧しい私たちを祝福してくださった、何か善行を積んで、また何か手柄を立てたから、私たちの罪を赦してくださったのではない。心貧しいそのままの私たちを、神様は赦してくださった。しかし、そのイエス様の赦し(祝福)を身に受けた私たちは、自分の心の貧しさを、そこで心底、恥じるのです。心からその罪を悔やみ、嫌悪し、神様に向かうのです。そしてこう祈る! 「主よ、あなたの霊で(あなたのいぶきで)、わたしを新しくしてください。聖霊を送ってください。神様、あなたの霊が、わたしの中で息づき始めますように。あなたの豊かさに、人を愛するあなたの豊かさに、わたしを生かしてください!」。
 私たちは、貧しい。その「貧しい」という事実は、残念ながら変わらない。しかし、この貧しい者が、主の祝福の中で(憐れみの中で)、新しくなる。わたしではなく、主の豊かさに生きはじめる、神の国の住民として、神の豊かさに生きるのです。
そしてその「神の豊かさ」は、イエス様が身を低くして、ご自身の民一人一人のもとに来てくださったように、身を貧しくする豊かさなのです。愛の中で、自ら、貧しくなれる豊かさ!
 そして私たちは、そこで、祝福の言葉を、あの人に届けるのです。心貧しいあの人のもとへ行って、自分の身をかがめ、祝福を届ける。「あなたにも、あなたにも、神の祝福がある。心の貧しい人々は幸いである。あなたのためにも、イエス様は十字架におかかりになった、天の国は、あなたのためにも、用意されている! さあ、わたしと一緒に、この祝福を生きよう!」。
 私たちは、この一週間も、神の祝福を運ぶ。皆様が、この一週間、祝福の源となりますように!
 メッセージTOPへ
 

Hello world!

WordPress へようこそ。こちらは最初の投稿です。編集または削除し、コンテンツ作成を始めてください。