礼拝説教「怒りを捨てよ」 牧師 鷹澤 匠
マタイによる福音書 第5章17~26節
イエス様がお語りになった『山上の説教』を読み始めました。
私、小さいときから、親に連れられて教会に行っておりました。そしておそらく、子どもたちが集う教会学校で聞いたのではないかと思うのですが、今日の礼拝の御言をそこで初めて聴きました。そのとき受けた衝撃と申しましょうか、驚きは、今でもよく覚えています。
特に、二一節からのイエス様の御言なのですが・・、
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
子供心に、「これは、まずいことになった」と思ったのです。
ただ私、一つ、誤解していたことがありました。「兄弟に『ばか』と言う者は・・」、ここの「兄弟」という言葉を、私は文字通り、自分の肉親であるきょうだいだと思っていたのです。
私、下に妹が二人います。そして小さいときは、よく喧嘩をしました。(一番下の妹は、私と年が一〇離れていますので、その妹とは喧嘩にはならなかったのですが・・)すぐ下の妹、年齢が四つ離れている妹とは、よく喧嘩した。取っ組み合いの喧嘩は少なかったと思いますが、しょっちゅうやったのが、口喧嘩。そして、ひとたび喧嘩になると、お互い、必ず口にするのです。「ばか!」。
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡される。
これは、まずいことになった。私などは、何回、引き渡されることになるのだろうか。子供心に、そのようなことを考えたのを覚えています。
ただ、教会学校の先生が、私にとって、「福音」とも呼べる良い知らせをもたらしてくださいました。「ここで言う『兄弟』という言葉は、本当のきょうだいのことではない。イエス様は、友達(隣人)のことを『兄弟』と呼んでおられる」。私、それを聞いて、ものすごくホッとしたのを覚えています。私、友達とは仲良くやっていましたので、「ばか」と言うことは少なかった。「ああ、友達のことか。それならよかった」なんて思って、安心したのであります。もちろん、その安心も間違っていたわけですが、いずれにせよ、イエス様のこの言葉は、子供心に鮮烈な、そして強烈な印象を与えた。「イエス様は、なんてことを言われるのか」。
今日の礼拝の御言。これは、子どもであろうが、大人であろうが、聞く者に大きな衝撃を与えるのではないかと思います。そして、どうもそれは、昔から、教会の歴史が始まった頃から、そうだったようなのです。
聖書というのは、人の手によって書き写されてきました。書き留めたものが朽ちていく、そうなる前に書き写して、次の世代へと伝えていったのであります。その書き写したものを、『写本』というのですが、おもしろいことに、多くの写本を読み比べると、少しずつ違いがあるのです。なぜ違いがあるのかと申しますと、一つは単純に、写し間違えたケースです。似たような単語を写し間違えてしまった。その結果、写本によって食い違いが出てくる。そしてもう一つの理由が、写す人が、思わず自分の解釈を書いてしまったケースがあるのです。聖書を読んで、分からなかったのです。もしくは、納得がいかなかった。そこで思わず、ちょっと言葉を書き直して、または書き足して、「ああ、これなら分かる」と言って、そのまま伝えてしまった。そのようなケースもあるのです。
そして今日のイエス様の言葉にも、それがありまして、一言、言葉をつけ足した写本が実は数多くあるのです。それは、どういう言葉かと申しますと、「理由もなく」という言葉。
理由もなく、兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
気持ちは分かると思います。「腹を立てる者は、だれでも裁きを受ける」、このイエス様の言葉に衝撃を受けたのです。「イエス様、ちょっと厳しすぎませんか。腹を立てることぐらい、誰にでもありますよ。そして中には、『正しい怒り』、『正義の怒り』というのも、あるのではないですか。だから、イエス様、あなたは、ホントウはこうおっしゃりたかったのでしょ! 『理由もなく、兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける』、正当な理由がないのに、意味もなく腹を立てる人は、裁かれる」。
どうでしょうか。「理由もなく」という言葉は、原文のギリシャ語では、わずか四文字の単語です。しかしその四文字で、随分印象が変わる、衝撃が和らぐ。「そうか、そうか。確かに、理由もないのに怒るのは良くない」。しかし学者たちは語ります。それは明らかに、あとの時代の人たちが書き足した言葉であろう。イエス様は元々そのようなことはおっしゃっていない。
確かにその通りだと思います。(聖書の学者たちは、丹念な研究を経て、そのように教えてくれているのですが、)私たちも、少し考えれば、これは分かります。なぜならば、「理由もなく腹を立てる」、そのようなことは、私たち、あり得ないからです。みんな、理由があるのです。みんな、「自分は正しい」と思って、腹を立てるのです。子どもが親に腹を立てる。理由があるのです。子どもは、子どもなりの言い分がある。大人が誰かに腹を立てる。それも理由があるのです。そして、(譬えがよくないかも知れませんが)誰かが、カッとなって、人を殺す。そのような人にも、理由がある、その人なりの、またその時なりの正義がある。
イエス様はお語りになる。どんなに正しい理由があっても、怒りは抑えなければいけない。あなたは、怒りに負けてはいけない。怒りは人を殺す。怒りは、殺人と同等の罪なのだ。
ただ、一つ、ここで誤解してはいけないことがあります。イエス様が、ここでお語りになった「腹を立てる」という言葉は、元々は、現在形が使われています。つまり、「今、腹を立てている」、「今、怒りを抱いている」。イエス様は、そのことへの警告をここでなさっているのです。つまり、「怒り」という感情が湧いてくる、それ自体をなんとかしなさい、とイエス様は言っておられるのではないのです。
怒りは、沸いてくるのです。誰でも、ついカッとなって、腹が立つ。それに対してイエス様が、「それは、いけないこと! もっと強靱な心を持て。何があっても腹を立てない、何を言われても動じない、そのような心を作れ。怒りもしなければ、喜びもしない。悲しむこともなければ、笑いもしない。そのような境地に達しなさい!」。イエス様は、そのように言っておられるのではない。「今、怒っているならば、その怒りを納めなさい。今、怒りが湧き上がってきたならば、それを抑え込みなさい。そして、心の奥底に、ずっと怒りを抱き、それが炎のようにくすぶっているのならば、早く!、今すぐにでも、その怒りを捨てなさい。怒りに身を任せてはいけない。怒りをそのままにしておいてはいけない!」。イエス様は、そのようにお語りになる。
私たちは、ここで、カインとアベルの物語を思い起こすことができるかもしれません。人類最初の兄弟、カインとアベル。アダムとエバの息子たちの物語です。
あるとき、二人は、それぞれの収穫物を神様の前に持ってきます。カインは農作物を、アベルは小羊を。すると、どういうわけか、神様は、弟アベルの献げ物には目を留めてくださるのですが、兄のカインの献げ物には、目を留めてくださらなかった。そこでカインは、顔を伏せて怒るのです。激しく怒って、神様の前で顔を上げることができなくなる。
カインは、弟アベルを野原に連れ出します。そしてそこで、弟を殺してしまう。人類最初の兄弟。本来ならば、互いに愛し合い、また互いに助け合って生きていくはずだった兄弟が、「兄が弟を殺す」という結末を迎えてしまう。
イエス様の念頭にも、あの時のカインの姿があったのかも知れません。怒りに捕らえられ、怒りに心も、体も奪われてしまい、弟を殺すカイン。「腹を立ててはいけない。怒りに心を許してはいけない。その怒りは、人を殺すのだ。あなたは、人殺しになってはいけないのだ!」。
さらに、イエス様はこのような言葉を続けます。二三節です。
だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
ここも、なかなか強烈な御言です。「祭壇に供え物を献げようとして」、つまり、「神様を礼拝しに来たとき」という意味です。私たちで言えば、この日曜日、教会堂に足を運んだとき、そのとき、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、まず、その兄弟と仲直りをしてきなさい、と言うのです。つまり、今度は、「相手に怒りを捨ててもらう」話なのです。
次の話も同じです。
あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
これも、相手が、腹を立てているのです。そして、相手が訴えてきたのです。その相手と和解しなさい。裁判が始まる前に、相手に怒りを捨ててもらって、裁判そのものが起こらないようにしなさい。
これも、強烈な御言です。「イエス様、そんなこと、できるのですか? そんな途方もないこと、私たちにできるのですか?」、思わず、そう言いたくなる。
今日は、礼拝の御言として、第五章の一七節からも読んでいただきました。この一七節から二〇節は、ここから始まるイエス様の言葉の序文、また前文とも呼べる箇所です。イエス様はここから、幾つかの旧約聖書の律法(掟)を取り上げて、「あなたがたは、こう聞いていると思うが、しかし、わたしは言っておく」、そう言って、律法に込められている神様の真の思いを私たちに伝えてくれている。それが、第五章の終わりまで続きます。そして、その一連の箇所の序文・前文が、一七節から二〇節なのです。
その最初に、イエス様はこのようにお語りになる。一七節。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。
イエス様が現れたとき、このように思った人たちがいたのです。「このイエス様が来てくださったことによって、もう、旧約聖書の時代は終わった。つまり、旧約聖書にある律法や預言者の言葉、それらは、もう必要なくなった」。それだけイエス様の言葉が、新しく聞こえたのでしょう。新しい掟、新しい時代をイエス様がもたらしてくださった! しかしイエス様は、言われるのです。「そうではない。わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」。
この「完成」という言葉は、「成就する、実現する」という意味も持ちます。特に、旧約の預言者の言葉は、神様からの約束も含む。その約束が、イエス様によって成就した、実現した。そしてもう一つは、この新共同訳聖書が訳した通り、「完成」、イエス様が来てくださったことにより、律法が、完成するのです。
ここが、非常に重要なところです。序文というのは、この先に記されていることの急所が記されている。今日の御言もそうでありまして、イエス様が来てくださって、律法が完成する。つまり、律法を完成させる、律法を完成させてくださるのは、イエス様なのです。
どのようにして、イエス様は律法を完成させてくださるのか。それは、私たちを通して、私たちの中で、です。今日の御言で言えば、「私たちが、怒りを収める」、そして、「相手に怒りを収めてもらう」。イエス様が、それをしてくださるのです。私たちを通して、神の律法をイエス様が成し遂げてくださる。そしてイエス様は、そのために、十字架にかかってくださった。十字架の上で祈ってくださったのです。
イエス様は、いや、イエス様こそ、人々の怒りの中で、殺されていきました。律法学者、祭司長、そして群衆たちは、みんな、イエス様に腹を立て、怒ったのです。そして、「この者は、いらない。この者は、呪われよ。ばか、愚か者」、そのようにののしった。そしてそれぞれ、自分なりの正しい理由(正義)を振りかざし、怒り、イエス様を殺したのです。
しかし、イエス様はその十字架の上で、祈ってくださった。
「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らないのです」。
人間の怒りの中で、カインから始まる人類の怒りの真っ只中で、イエス様は祈ってくださる、私たちの罪の赦しを。
そしてその祈りが、私たちの心を内側から支配するのです。聖霊の働きによって、私たちの心に入り込み、私たちの中にある怒りを、一つ、また一つと、取り除いてくださる。また、私たちの口から、「ばか」、「愚か者」、そのような言葉がついて出てこないようにしてくださる。イエス様は、十字架の上で祈り、そして、私たちの中でも祈ってくださる。「あなたの怒りが、取り去られるように。その怒りが、『赦し』に変えられるように」。
誰かとの和解も同じです。
確かに、誰かとの和解は、私たちが自分の怒りを捨てるよりも、何倍も難しいことでありましょう。途方もない、不可能と思える道でありましょう。しかし、その道も、イエス様が整えてくださる。
「わたしは、罪人であるあなたのために、十字架にかかった。そして、わたしは、罪人であるあの人のためにも、十字架にかかった。だから、和解しなさい。わたしの『赦し』を知るあなたは、自分から謝ることができるだろう。自分から、自ら犯した罪を認めることができるだろう。プライドが邪魔するのか。それとも、まだ、『自分は正しい』と言い張るのか。顔を上げなさい。そして、わたしの顔をもう一度よく見なさい。あなたのために、十字架にかかったわたしの顔を」。
私たちは信じたいのです。イエス様を信じたいのです。
あの人と和解する道は、イエス様が、もう始めてくださっている。
私たちの中で、それを始めてくださっている。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。
神の御心である律法は、私たちの中で、そして私たちを通して、イエス様が、完成させてくださるのです。
メッセージTOPへ