礼拝説教「神様が見ていてくださる」牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第6章1~14節 

 
 今日は、礼拝の中で田澤先生の就任式もおこないました。私たちがこの先生をお迎えできたこと、また主が、先生をこの教会に遣わしてくださったことを心から感謝したいと思います。
 その田澤先生へのメッセージも兼ねて、このようなエピソードを紹介することから、今日の説教を始めたいと思います。
 
 少し前の話ですが、私、ある牧師の書斎を見せてもらう機会がありました。小さな部屋でしたが、牧師の書斎らしく本棚に囲まれ、そして部屋の奥に机が置いてありました。その牧師はいつもその机に向かって、祈ったり、説教の準備をしたりしているのでしょう。そしてよく見ると、その机の向こうに一枚の紙が貼ってあったのです。間違いなく、机に向かって座るとき、おのずと目に入る位置。そしてそこに、聖書の言葉が大きく書き記されていました。それはこのような言葉でした。
 「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」。
 イエス様が、弟子のペトロをお叱りになったときの言葉です。あるときイエス様は弟子たちに、「自分はやがてエルサレムに行き、十字架にかかる」という予告をなさる。それを聴いた弟子たちは動揺する。すると、弟子のペトロが、イエス様を脇に連れ出し、「そのようなことは言ってくれるな」と言って、イエス様をいさめ始めたのです。ペトロのイエス様への思いやりか、それとも他の思惑があったのか・・。するとイエス様は、ペトロに向かって厳しい語調で言われました。「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」。
 その牧師は、その言葉をいつも見えるところに貼っていた。明らかに、自分への戒めとして、警告として。「あなたは、今日もちゃんと、神様のことを思っているか。人間のことを、人の目、人の声に、振り回されてはいないか」という意味で。
 今日の就任式にあたり、私が、田澤先生に伝えたいことは、このことであります。私が、この三ヶ月、田澤先生と共に教会に仕えてきて、「ああ、本当にいいなぁ」と思うのは、「先生は、とてもよく人の話を聞くことができる」ということであります。人の話を聞くことができ、そしてその人に共感することができる。もちろん、田澤先生の努力もあってのことでしょうが、私は、それは、神様が田澤先生に与えてくださった賜物だと思っています。そして、先生が、これから牧会者として立っていくとき、大いに神様から用いていただける賜物となる。でも、(先生ご自身もよく分かっておられると思いますが)それだけでは、牧会者の役割は果たせない。牧会者はそこで、神様の言葉を取りつがなければいけないからです。人の声、人の思い、それをしっかり聞くことは重要。でももっと重要なことは、神様の声、神様の思いを伝えること。つまり、伝道師・牧師は、常にあのイエス様の戒めの前に立つのです。
 「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている。あなたは、神様を第一にしているか。人に引っ張られ過ぎてはいないか」。
 伝道師、牧師の戦いは、そこにある。
 
 もちろん、このことは、伝道師・牧師だけに限った話ではありません。イエス様に従う私たちは皆、同じ戦いを強いられます。なぜなら、私たちの耳には、普段、数限りない人の声が入ってくるからです。中には、私たちの心を喜ばせる声もあります。また逆に、私たちの心を騒がせ、不安にさせ、場合によっては、私たちを怒りに駆り立てる声もある。そしてその声に、私たちは、下手をすると、惑わされ、踊らされ、そして神様が望まない道へと逸れてしまう。私たちは誰しも、「あなたは、神様のことを思っているのか、人間のことばかりを思ってはいないか」、そのような問いの前に立たされるのであります。だから、私たちは今、ここにいる、と言ってもいい。私たちは、ここで、心を静め、神様の声を聞く。聖書を通して、神様の心を知る。今日もご一緒に、聖書の御言に耳を傾けたいと願うのであります。
 
 マタイによる福音書第六章一節からが、今日の御言です。マタイによる福音書第六章一節。

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 イエス様がなさった『山上の説教』を読んでいます。今日の箇所から新しい段落に入ります。そしてこの段落は、第六章の一八節まで続きまして、イエス様は、この箇所で三つの信仰の習慣についてお語りになっていくのです。先日、教会研修会の資料、『読みもの』を皆様にお配りしました。『キリスト者の生活』という題で、私たちの信仰生活において心掛けたい習慣を、六つ、私なりに書かせていただきました。「祈り、感謝、言葉、そして、御心に生きること、愛に生きること、礼拝」。もちろん、その六つですべてを網羅したわけではありませんが、「まずこれを」という思いで、書かせていただきました。同じように、当時も、信仰生活において大切にされた習慣が幾つかありまして、そのうちの三つをイエス様はここで取り上げる。それは、「施し、祈り、断食」なのであります。
 私たちは、その三つを、何週かに分けて、読んでいきたいと思うのですが、まず最初に知っておかなければいけないことは、「イエス様は、その三つを否定した、退けたのではない」ということです。「施し、祈り、断食」(断食は、今は大分、形が変わっていますが、)当時大切にされたその習慣は、今の私たちにとっても、大事なもの。イエス様は決して、「施し、祈り、断食」を否定して、それらを退けたのではない。
 しかし、それらをおこなうに際して、あなたがたは、よくよく注意しなければいけないことがある、気をつけなければいけないことがある。それをしないと、施しも祈りも断食も、全く意味をなさなくなる。イエス様は、そのことをお語りになる。そして、(その注意しなければいけないことというのは・・、)「人の目」なのであります。
 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
 
二節から、具体的な話が始まる。二節。

 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

 施しというのは、当時の人たちの感覚では、二種類ありました。一つは、神様への献金です。会堂やエルサレムにある神殿で、献げ物をする。神殿では、牛や羊を献げたり、またお金を献げた。そして、もう一つの施しは、貧しい人たちへの支援。今で言えば、募金。そして、どうも当時、それらをわざわざ人前でする人たちがいたようなのです。
 人からほめられようと会堂や街角でする。わざわざ、人目のつくところで、他の人たちにアッピールするようにして、献金をしたり、募金をしたりする。さらに・・、

 自分の前でラッパを吹き鳴らす。

 これは、一つは、比喩だと言われています。「人々にアッピールしながら施しをする、それはまるで、ラッパを吹き鳴らしているようだ」。そのような比喩として、イエス様がお語りになった。しかしもう一つの可能性は、実際にこのようなことがおこなわれていた、とも考えられているのです。
 エルサレム神殿です。神殿には、今で言うところの献金箱が設置されていた。そこに、多くの額の献金を献げる人がいたら、係の人が、わざわざその人の名前とその金額を読み上げていた可能性もあるのです。「ただいま、何々様から、これだけの献金をいただきました!」。そしてその時に、ラッパも吹き鳴らしたのではないかと言われている。イエス様は言われるのです。彼らは既に報いを受けている。人から褒められて、自分の名前が人々の前でたたえられて、それでもう充分、その報いを受けている。
 私たち、ここを読んで、ちょっとホッとするのではないかと思います。「さすがに、わたしは、ここまではしていない」と思うからです。「教会で献金をするとき、また募金をするとき、『人から褒められよう』とは思っていない。自分ができるだけの、精一杯のお献げ物を神様にしているだけ」。実際、そのとおりでありましょう。そして私たちの教会も、このようなイエス様の言葉を踏まえて、献金には気を配っている。例えば、私たちの教会では、「誰が、いくら、神様にお献げしたか」、それは、一切公表しない。牧師も知らないし、長老も知らない。ただ会計の責任を負う長老とその仕事をしてくださっている方だけが知っている。しかしそれも、決して人に漏らしてはいけないことになっているのです。だから教会には、ラッパはない。献金のたびに、ラッパを吹き鳴らすなんてことは、考えられないのであります。
 しかし、ここで、イエス様がお語りになっていること、施し、献金において、注意すべきこと。それは、私たちにも、よく分かるところではないかと思うのです。私たちも、「人の目」、「人の声」、そして、「人から褒めてもらうこと」、それらをとても気にするからであります。
 
 「偽善者」という言葉が、二節に出てきます。この言葉は元々、「俳優」という意味で使われていた言葉だったそうです。ちなみに、一節の「見てもらおうとして」という言葉は、「シアター」(劇場)という言葉の元になった言葉でありまして、舞台の上で、自分とは違う人を演じる俳優。そこから、「偽善者」という言葉ができたようなのです。
 なるほど、考えてみると、今日のイエス様の言葉は、演劇の舞台のようなイメージなのかも知れません。俳優が舞台に立ち、演技をする。献金、施し、(そして、「施し」というのは、愛の行為でもありますので、)愛の行いをする。当然、献金も、施しも、そして愛の行いも、素晴らしいことです、神様が望んでおられることです。しかしそのとき、「人の目」を気にし始めたとき、また、「人から褒められる。賞賛」を期待し始めたとき、それは、まるで舞台俳優のようになってしまう。つまり、観客のまなざしが気になるのです。観客が、喜んで自分に拍手を送ってくれるか・どうかが、気になって仕方がなくなる。そして、拍手がないと、むなしい気持ちになるし、また苛立ちさえ覚えてしまう。
さらにイエス様は、このように言われます。三節。

 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

 驚くようなイエス様の一言です。自分のしていることを、自分にも知らせるな、ということです。つまり、舞台のイメージで言うと、舞台の上の自分を見ている客席に、もう一人の自分が座っているです。そしてそのお客である自分が、自分のすることを褒める。「あなたは、よくやっている。あなたがしたことは、賞賛にあたいする!」。そして懸命に、自分で自分に拍手を送る。
 イエス様は言われるのです。「それも、やめなさい。あなたは、それも、する必要はないのだ」。なぜならば、四節。

 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 「隠れたことを見ておられる父」。つまり、神様が、あなたを見ていてくださる。しかも、父として、あなたをご自分の子どもとして受け入れてくださった父として、神様が、あなたを見ていてくださる。そして、父なる神様は、あなたに報いてくださるのだ。それでいいではないか。それで充分ではないか。いや、それこそ、最も大事なことではないか。イエス様はそのようにお語りになる。
 
 先ほど、「偽善者」という言葉の説明をいたしました。「偽善者」は、元々、「俳優」という言葉からできた、と。そのことを元にして、このように、聖書の言葉を深めた人がいました。その人はこのように言うのです。
 
 古代ギリシャにおいて、舞台に立つ俳優は、仮面(マスク)をかぶっていた。日本で言うと、能面のようなもので、その仮面をつけかえることによって、一人で何役も演じた。「偽善者」という言葉は、その仮面を付け替える役者から来ている。我々は、偽善者と聞くと、よほど悪い人を考えるが、仮面をかぶり、別の役を演じるのは、我々がいつもしていることではないか。人前で仮面をかぶり、それで自分を隠し通している。
 (その人は、そのように語り、そしてこう言うのです。)
 「しかし、我々、仮面の下では、ひとりぼっちなのである。」
 うっと思いました。私たち誰しも、仮面をつけている。人の目が気になり、人前で別の自分を演じる。しかし、仮面の下では、ひとりぼっち、寂しく孤独に苦しんでいる。
 確かにそうだな、と思いました。そしてそこで、私が思ったことは、「だから、誰かに褒めてほしい」ということです。孤独だから、ひとりぼっちだから、自分がしていることを誰かに認めてもらいたい。施し、愛の行い、「あなたは、よくやっているね」。そう言って、評価してほしい。最低でも、その愛の行いをした相手から、「ありがとう」の一言が欲しい。しかし、それがかなわないと、私たちは、自分で自分を褒めるしかなくなる。
 そう考えていったときに、私は、あっと思いました。イエス様は、そのような私たちの孤独を本当によく知っていてくださったのではないか。仮面をかぶり、その下で孤独に苦しんでいる、その私たちの寂しさを、イエス様は、とてもよく理解してくださっていたのではないか。だから、この一連の言葉をお語りになった。そして、力強く言われる。「あなたは、孤独ではない! 父なる神が、あなたの隠れているところも、すべて見ていてくださる。人から褒めてもらえなくても、また自分で自分を褒めることをしなくても、神様、あなたの天の愛するお父さんが、あなたのことをちゃんと見ていてくださっているし、あなたのための報いをちゃんと天で用意してくださっている。だから、人から褒められようと思って、施しをするな。自分で自分を褒めるのも、もうやめよ。人ではなく、神様。神様のことを思い、神様のことを第一にしてごらん。神様は、あなたがたを愛しているまことの父なのだから」。イエス様は、私たちにそのように言われる。
 
 ある説教者が、この箇所の説教を語り、その説教の最後のほうで、このように語っていました。
 「キリストの十字架を思い起こすことなしに、この御言を読むことはできない」。
 私、どういうことだろうと思って、もっと詳しく知りたかったのですが、その説教者は、それ以上のことはあまり詳しく語っていませんでした。おそらく、聴き手への投げかけ。「それぞれ、イエス様の十字架を思い起こしながら、今日の御言を読んでごらん」、そのように投げかけて、説教を終えたのかも知れません。
 そこで私、それを受け止めまして、今日の御言をイエス様の十字架を思い起こしながら、何度も読んでみたのです。そして思ったのは、「人から全く褒められずに、それどころか、あざけられ、笑われ、そして地上では、何の報いも受けなかった。それこそが、イエス様であり、イエス様の十字架であった」、改めて、私そのことを思ったのです。
 まさに、イエス様こそが、最大の施しをしてくださった方なのです。神の身分でありながら、しもべの身分となり、私たち罪人たちのために、ご自分の身を献げてくださった。イエス様が、ゴルゴタへの道を十字架を背負いながら歩いたとき、誰一人として、「ああ、なんて素晴らしい愛の行為をしているのか」とは言わなかった。しかし、天の父なる神様は、そのイエス様に報いてくださった。イエス様をおよみがえりの命とし、ご自分のもと、天に引き上げ、あらゆる名にまさる名をイエス様にお与えになってくださった。
 その父なる神様に、私たちもいつも、見ていただいているのです。その神様に、私たちも、愛され、期待され、そしてその神様が、私たちを褒めてくださる。私たち、これ以上、何を望むのか。
 
 私たちも、イエス様のように自分を施す歩みをする。
 人から褒められなくても、この世で報われることがなくても、「神様、イエス様、あなたが見てくださっていますね。神様、イエス様、あなたが喜んでくださっていますね」、私たちは、それで充分なのであります。
 
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