礼拝説教「明日のことまで思い悩む」牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第6章24~34節 

 

 だから、明日のことまで思い悩むな。

 イエス様がお語りになった言葉です。

 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 私も、大好きな御言の一つです。そしておそらく、皆様の中にも、この御言を大事にしておられる方が大勢いらっしゃると思います。そして、もし、今日初めて、この御言を聴いた方がいるならば、「どういう思いで聴きましたか」ということを是非聴いてみたい。そしてこの御言を聴いて、少しでも心に動くものがあれば、それはとても嬉しいことであるし、「もう信仰の芽吹きが始まっている」、そう言ってもいいと私は思っています。そのような御言を今日、皆様とご一緒に心に留めることができる。私にしてみれば、この御言を説くことができる。その幸いをまず神様に感謝したいと思います。
 
 そして今日の聖書の箇所、「思い悩むな」という言葉が、三回繰り返されるのですが、それとセットになって、一緒に繰り返される言葉が、もう一つ、出てきます。それは、「だから」という言葉なのです。
 二五節。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
 三一節。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」
 そして、三四節。「だから、明日のことまで思い悩むな。」
 イエス様は必ず、「だから」と言ってから、「思い悩むな」と言っておられる。つまり、私たちが思い悩まなくてもいい根拠がある。思い煩いから解放される理由がある。その「根拠」、その「理由」は何か。
 
 川を遡るようにして、「だから」という言葉の先を追っていくと、「富」の話が出てくることに気がつきます。今日は、その二四節から読んでいきたいと思います。マタイによる福音書第六章二四節。イエス様は、このようにお語りになります。

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 

 
 イエス様は、一九節から、富の話を始めました。「あなたがたは、地上に富を積んではならない。・・富は、天に積みなさい」、イエス様はそのように言われ、そして、二二節から目の話をなさる。これも話の流れの中で読むと、「あなたは、何を(または、どこを)見ているか」という話でありまして、「ちゃんと天を見ているか。地上ばかり見ていないで、天を(神様を)見上げなさい。そうすれば、目にともし火がともり、体全体が明るくなる」。イエス様はそのようにお語りになったのです。そしてそのすぐあとに、先ほど読んだ二四節、「神と富、二人の主人に仕えることはできない」と言われた。「神様と富。あなたの主人は、どちらか一人だ」と。
 このイエス様の言葉、もしかしたら、このように考えることもできるのかも知れません。「神と富。そもそもこの二つを並べてもいいのだろうか。天地をお造りになり、そして今もこの世界を支配しておられる神様、その神様とこの世の富をそもそも比べること自体、おかしいのではないか、神様に対して失礼にあたるのではないか」。もしかしたら、そのように考えることもできるのかも知れません。
 しかし皆様は、そうは考えないでありましょう。私もそうです。私の中でも、またきっと皆様の中でも、この二つは、残念ながら並んでしまう。また、情けないことに並んでしまう。もちろん、「神様と富が、同等だ」とは言いたくはありません。私たちは神様だけを主人としたい。しかし、生活の中で、この世を生きる中で、富がまるで私たちの主人のような顔をする。富が、あるときは、私たちを屈服させ、またあるときは、私たちの方から富に対して、しっぽを振る。二人の主人は、私たちの中で、残念ながら並び立つ。その意味でも、イエス様は本当に私たちの弱さを知っておられた、私たちの不信仰をよくよくご存じであった。そうとも言えるのであります。
 
 私の神学校時代の後輩でもあり、友人でもある牧師が、今、広島で伝道をしています。もう一〇年ぐらい前になるのですが、その友人が、『信徒の友』という月刊誌に文章を寄せていました。その月の『信徒の友』は、献金についての特集号でありまして、友人も、献金についての文章を寄せていたのです。「ああ、コピーを取っておけばよかったな」と今になって思うのですが、とてもいい内容だったことを覚えています。そして細かいことは忘れてしまったのですが、今でも覚えているフレーズ、焼き付くように残っているフレーズがあるのです。それは、こういう文章なのです。
 「私たちは、お金に負けてはいけません」。
 私たちは、お金に負けてはいけない。献金というのは、その証しでもあるのだと言うのです。
 「確かに」と思った。そして私、そこで思わず、こんなことまで思い出しました。私が初めて赴任した教会は、静岡県の御前崎にあった教会でした。小さな町の小さな教会で、礼拝の出席も、当時は一〇人に満たないぐらいでした。そして、(以前にも紹介したことがありますが)私、その教会の近所の男の子たちと仲良くなりまして、毎日、その子たちが遊びに来ていました。しかし日曜日は、礼拝がありますので、一緒には遊べない。そこで、時々ではありましたが、男の子たちも、大人の礼拝に出席していたのであります。
 おそらく、彼らが初めて礼拝に出たときだったのではないかと思います。男の子たちは、妻の横に座って礼拝に参加していたのですが、彼らにとってみれば、初めての礼拝、なにもかも新鮮で、緊張して静かに座っていました。しかし献金になった。そこで献金箱がまわってきて、妻は、財布から千円札を取り出し、その献金箱に入れたのです。そうしましたら、それを見ていた男の子たちは、思わず大きな声でこう言ったのです。「あー、もったいね!」。
 私、今でも時々ですが、献金をお献げするとき、その時のことを思い出す。初めて見た献金を彼らは、「もったない」と思った。じゃあ、わたしは、どう思っているのだろうか。もちろん、毎回、「もったいない」と思いながら、献金しているのではありません。しかし、全くその気持ちがないか。また、もしかして、「もったいない」、そう思わない額、もったいなくない額、つまり、あまり懐が痛くならない額を、お献げしているだけではないか、「いや、そんなことはない。神様に対して、そのようなことがあってはならない」。時々私、そのようなことを考える。
 献金は、神様への感謝であり、献身のしるしです。しかし、私の友人の言うとおり、確かにそこには、お金との戦いがあるのです。そして、私たちは、お金に負けてはいけない。
 
 二四節にある「富」という言葉。この言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、「マンモン」という言葉が使われています。
 その「マンモン(「マモン」と言ったりすることもあるのですが・・)という言葉は、元々はヘブライ語、そしてイエス様が実際に口にしておられたアラム語から来ている、と学者たちは解説します。
 少しややこしい話になりますが、新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。マタイによる福音書もそうです。しかし、イエス様ご自身は、また当時のイスラエルの人たちも、ギリシャ語ではなく、アラム語を使って話をしていました。ですから、イエス様がお語りになったこの山上の説教も、元々は、アラム語で語られ、それをこの福音書を書いたマタイが、ギリシャ語に翻訳した。しかし、この「マンモン」という言葉。この言葉は、マタイが、あえてイエス様が言われた通りの言葉の響きをそのまま残したのではないかと言われているのです。そして、この「マンモン」という言葉は、ある説によると、「アーメン」という言葉に起源を持っているそうなのです。
 「アーメン」。私たち、祈りの最後にそのように口にします。そしてそれは、「確かに、その通りです」という意味です。そして、(これは、信仰とは別のところで)昔の人々は、富のことを、「アーメン」と呼び始めた。富こそ、確かなもの。お金こそ、変わらないもの、間違いがないもの。その「アーメン」から、「マンモン」という言葉が生まれたのではないかと言われている。
 そうなってくると、ここでのイエス様の言葉は、ますます私たちに迫ってくるのです。「あなたは、神様に、『アーメン』と言うのか。それとも、この世の富に、『マンモン、アーメン』と言うのか」。
 もちろん、イエス様がおっしゃりたいことは、「神様こそ、『アーメン』にふさわしいお方」ということです。「あなたがたが、『アーメン』と言って、お仕えできる主人は、神様をおいて他にない! 虫がついたり、さびたり、また盗人の手が及ぶような地上の富が、『アーメン』、確かなものであるはずがない。神様、神様こそが、『アーメン』にふさわしいお方。『アーメン』と言って、すべてをゆだねることができる主人。あなたがたのまことの主人は、神様だけなのだ」。そして、そのイエス様が、ここまで繰り返し語ってきてくださったのは、「そのまことの主人である神様は、あなたがたの父なのだ」ということなのです。
 
 「だから」という言葉を遡っていくとき、私たちは、もっと遡る必要が出てきます。イエス様は、この山上の説教で繰り返し、「あなたがたの天の父」ということを語ってきてくださった。「あなたがたの天の父が完全」、また、「隠れたことを見ておられる天の父が、あなたに報いてくださる」。
 「天の父」、あなたがたを子どもと見なさしてくださる天の父。あながたのことを本当の自分の子どものように愛してくださる天の父、その天の父が、あなたがたの主人!
 神様という主人は、無慈悲で冷酷な方ではないのです。「しもべなんて、いくらでもいるのだから、一人ぐらいいなくなってもかまわない」、そのように考える主人ではない。また、「このしもべは、もう役に立たないから、見捨ててしまおう」、そのようなことを言う主人でもない。まるで本物の父親のように、いや、本物の父親など、到底及びもしない大きな愛をもって、私たちを大事に大事にしてくださる。そしてこの主人は、なんと、自分のまことの子ども・イエス様を捨ててまで、私たちしもべたちのことを愛してくださった方なのです。その父なる神様が、あなたがたの主人。あなたがたを支配し、あなたがたを常に配慮し、そして最後の最後まで、あなたがたを愛し抜いてくださる。だから、イエス様は言われる、だから、思い悩むな!」。二五節。

 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな!

 「だから」の中身は、天の父なる神様なのです。あなたの主人は、父である神様。だから、思い悩むな。
 そして、イエス様は、ここから、鳥の話をなさいます。二六節。

 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 
 今日の箇所ですが、とても内容が豊かですので、今週と来週、二回に分けたいと思います。来週は、このあとに出てくる「野の花」に焦点を当てていきます。今週は、鳥の話。イエス様は、「鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。でも、神様が養ってくださっているではないか」と言われる。
 最近、ちょっと困っていることがありまして、教会の敷地内に、カラスが群れで生活するようになってしまいました。昨年と今年、教会の裏の敷地の一番高い木の上に、カラスが巣を作りまして、そこで何羽もひなをかえしました。それが今、群れになっていまして、朝起きると、修祷館の屋根に、七羽か八羽、ずらっと並んでいるのです。そして、園庭の畑を荒らしたり、なり始めている柿の実をついばんだり、そしてよくやられるのが、どこから持ってくるのか、色々なゴミを教会の前庭に捨てていくのです。こないだ、びっくりしたのは、わりと立派な魚のお頭が、骨になって落ちていました。「やれやれ」と思って、私拾って、ゴミ箱に捨てたのですが・・。
 しかし、今日の御言、「空の鳥をよく見なさい。あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」、この御言を心に留めながら、教会のカラスを見たとき、ちょっとだけ、(本当にちょっとだけですが・・)カラスもいとおしく見えました。「ああ、神様は、このカラスたちも養ってくださっている。しかも、教会で、養ってくださっている!」。
 このような話も、聞いたことがあります。鳥というのは、とにかく食べ物の消化が早いそうです。空を飛ぶために、少しでも体重を軽くしなければいけない。だから、何かを食べても、体の中にためることはせず、すぐに消化する、糞として出してしまう。
 全部の鳥がそうではないのでしょうが、特に体の小さな鳥は、そうなのでしょう。鳥は、倉を持って食物をためないどころか、自分の体の中でも、食べ物をためることはしない。だから、四六時中、食べ物を探し続けなければならない。しかし、神様が養ってくださっている。イエス様は言われる、「神様が、ちゃんとあの鳥たちさえも、養ってくださっているではないか。ましてや、あなたがたのことを、神様がお見捨てになるはずがないではないか」。
 そして、イエス様はこう言われるのです。(「野の花」のことは、来週読みますので、)三三節。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 「神の国」というのは、「神様のご支配」という意味です。今日の御言で言えば、「神様が、私たちの主人」ということ。そして、「神の義」というのは、「神様の正しさ」という意味で、「神様が、私たちにとって、ずっとずっと、正しく主人でいてくださる」ということです。つまり、「いつまでも、いつまでも、神様が正しく、揺らぐことなく、わたしの主人でいてくださる、愛の主人でい続けてくださる」。それを求めなさいというのです。つまり、「わたしの主人は、神様。神様が、わたしを見放すことも、見捨てることもしない」、それを求める、そこにとどまり続ける。「神様が、主人」、同時に、「神様が、わたしの父」というところに、私たちは、踏みとどまり続けるのです。
 
 イエス様は言われる。

 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 明日のことは、私たちの主人に、おまかせするのです。私たちは、その日その日の苦労、その日その日に、主人から与えられた自分の務めを果たせばいい。明日のことは、主人が考えてくださる。そしてその主人は、私たちが負いきれない、背負いきれない重荷を負わせるはずはない。だから、今日の苦労は、今日でおしまいにする。明日は明日で、その主人から、ふさわしい務めをいただけばいい。
 「思い悩むな」。先に紹介した私の友人の言葉で、ここを言い直すならば、こういうことになるでしょう。
 「私たちは、悩みにも、負けてはいけません」。
 私たちは、お金にも負けないし、悩みにも、負けない。そして、私なりにその言葉を補足させてもらえるならば、そこで、本当に負けないのは、私たちの主人、神様なのです。
 神様が、「わたしを信頼しなさい。これらのものはみな加えて与えられる」と言ってくださっている。しかも、私たちの魂に、神様が訴え続けてくださる、「わたしがいるではないか。だから、お金に負けるな、悩みに負けるな」。そしてその神様が、私たちを圧倒し、奮い立たせ、私たちに、「アーメン」と言わせてくださっているのです。「アーメン、神様、あなたこそ、確かなお方です。わたしの悩み、明日へのわずらい、すべて、あなたにおゆだねいたします。あなたが、わたしの唯一の主人なのですから!」。
 
 ある人が、「この『思い悩むな』という言葉は、命令形だ」ということに、とてもこだわっていました。「思い悩まなくてもいいのだよ」とか、「もう思い悩む必要はないのだよ」という語りかけではなく、この言葉は、ある意味、非常に厳しい命令、主人からの命令だ、とその人は言うのです。
 私、どう違うのかなと思いながら、この一週間、そのことに思いを寄せ続けました。そして、御言を繰り返し心にとめながら、段々、「こういうことではないか」と思った。私たちは、明日のことを思い悩む。しかし、本気で、私たちのことを考え、明日のことも含めて、最後まで心配してくださっているのは、神様なのです。そしてその神様が言われる。「わたしは、あなたのことをちゃんと考えている。明日のことも、その先も。それなのに、なぜ、あなたは、必要以上に心配し、おびえ、悩み、恐れるのか。そんなに、わたしが、信頼できないのか。わたしには力がなく、またあなたを簡単に捨ててしまうような愛のない者だと言いたいのか。これは、命令である。わたしのしもべであり、我が子のように愛しているあなたへの命令である。思い悩むな! 明日のことまで思い悩むな! あなたの主人は、わたしなのだから。あなたの父は、わたしなのだから!」。
 私たちは、今日、この神様の御声を聴いたのであります。
 
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