礼拝説教「求めなさい。探しなさい」牧師 鷹澤 匠
マタイによる福音書 第7章7~12節
イエス様がなさった『山上の説教』を読んでいます。
今日は、(いや、「今日も」と言うべきかも知れませんが、今日も)大変よく知られた聖書の言葉が出てきます。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
私、新潟県にあります敬和学園というミッション高校の出身であります。その高校では、毎朝、礼拝がありました。今では立派なチャペルがあるようですが、私がいた頃は、体育館。全校生徒が体育館に集まり、クラスごとに並んで、床に座る。そして説教を聴く。一五分か長くても二〇分ぐらいの礼拝でしたが、それが、毎朝ありました。
その礼拝では、洗礼を受けているキリスト者の教師が、礼拝説教を担当しました。しかし時々、高校生(生徒)も、説教を担当することがあったのです。まぁ、「説教」と言うよりも、聖書の言葉を自分なりに読んで、今考えていることを述べる、今思っていることを語る。そんな感じの説教でした。
しかし、高校生であった私たちは、先生が語るときよりも、先輩や友人が語るときのほうが、はるかに真剣に耳を傾ける。そして、そのように真剣に聞いた話というのは、いつまでも覚えているものであります。
そして、生徒(高校生)が選ぶ人気ナンバーワンの聖書の箇所が、今日の礼拝の御言でした。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。
皆様も、なんとなくでも想像がつくと思います。高校生です。それなりの時期が来ると、みんな、自分の将来を考え始める。この先、どのようにして生きていこうか。仕事は、勉強は・・。また、自分はどんな自分になりたいのだろうか。そのような時期を迎える高校生にとって、このイエス様の言葉は、心に響くのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」。中には、「自分には、どうしても行きたい大学がある。その門を叩いて、叩いて、それでも開かなければ、足で蹴破ってでもいいから、その大学に入る」、そういう話をした先輩もいました。そうかと思うと、「『求めなさい』と言われるけれども、正直、何を求めていいのか分からない」、そのようなことを語った友人もいた。私もうなずきながら、それらの話を聞いたのを覚えています。いずれにせよ、このイエス様の言葉は人気だった。高校生だった私たちの心に響くものがあったのであります。
同じように、この御言に色々な思いを抱いてこられた方も多いと思います。人によっては、この御言に背中を押された。またいつも、背中を押してもらっている。そのような方もきっとおられることでしょう。
ある牧師が、この御言を説教で説きながら、羽仁もと子という人の文章を引用していました。ちょうど私が、この春、皆様にお配りした修養会の資料、『キリスト者の生活』、そこにも引用させていただいた文章です。このような文章です。
「私たちの精神生活の二つの動力の一つは『やってみよう』と自ら励ます力で、一つは『駄目だ』と抑える力です。私たちの中にある『やってみよう』という動力は、実に私たちの造られたままの本体です。ひたすらにそれに従って生きる時に、あふるる恩寵の中に不思議な心の歓びを経験します。しかし駄目だ駄目だとささやくものも、また確かに私どもの内部に住んでいるのをどうしましょう。鉛のように重いのは人の世ではないでしょうか。今私たちの中に巣くっている『どうせ駄目だ』という動力は、健全な呼吸をする力を蝕んでいく黴(ばい)菌(きん)と同じことです。罪と称するのが適当だと思います。」(抜粋)
私、名文だと思います。私たちの中には、二つの動力がある、と言うのです。機械で言えば、二つのモーターがある。一つのモーターは、「やってみよう」というもの。でも、もう一つは、「どうせダメだ」というもの。そして、「やってみよう」という動力(モーター)が動くとき、私たちは心の喜びを経験する。なぜなら、それが、神様に造られた人間本来の姿だから。しかし、「どうせダメだ」という動力が動くとき、世の中は鉛のように重くなる。「どうせダメだ」という動力は、ばい菌であり、罪と呼ぶべきものだろう。羽仁もと子という人は、そのように書くのであります。
羽仁もと子は、明治生まれで、大正、昭和と生きたキリスト者です。私、以前、この人について講義をする機会がありまして、一度丁寧に調べたことがありました。びっくりしました。実に色々なことをやっている。日本人初の女性ジャーナリストであり、やがて、『婦人の友』という雑誌を刊行し、その読者に支えられながら、学校まで作った。また、自然災害が起これば、今で言うところの『災害支援』を全国展開でおこなったり、また、日本に家計簿を普及させたのも、羽仁もと子であります。「神様は、一人の人の人生に、よくこれだけのことをさせたな」、そのように思えるほど、羽仁もと子は色々なことをした。まさに、「やってみよう」の塊のような人だったのです。もちろん、中には、うまくいかなかったこともあったはずです。事業を展開し、早々に撤退したものもあったはずです。しかし、「やってみよう。それが、神様に造られた人間の姿なのだから!」、今日の御言で言い換えれば、「求めなさい、そうすれば与えられる」、その御言に、羽仁もと子は生きたのであります。
そして、それは、私たちも同じなのであります。
「求めなさい、そうすれば与えられる」。
当然、「やってみること」は、人それぞれ違います。神様に与えられている使命、場所、また与えられている力も、人それぞれ違うからです。しかし、イエス様は私たちにも、「求めなさい」と言われる。イエス様は、私たちの背中も押す。だから、「どうせダメだ」ではなく、「やってみよう」と言って、私たちも、一歩、踏み出すのであります。
このように、このイエス様の御言を、広い意味で受け取ることは、充分可能です。またそれも、イエス様の意図に沿った聖書の読み方だと思います。しかし、(これは、毎回申し上げていることですが)この御言にも文脈がある。私たちは、「この御言が山上の説教の中にある」、そのことも大事にしなければいけない。
聖書を研究している学者たちは、この山上の説教の全体の構造を分析します。そして、多くの学者が、「この七節から一二節をもって、一旦、山上の説教の本文が終わる」と考えます。山上の説教そのものは、もう少し続くのですが、この先は、言ってみれば、「エピローグ」、結語のような部分で、この七節から一二節で、一旦本文が終わる。そのように多くの学者は考えるのです。そして、この終わりの部分は、「ここまでのことを踏まえて、最後にイエス様が、どうしてもお語りになりたかったこと」、「これを語らずには、終われない」、イエス様がそう思われたこと、私はそう読んでもいいと思うのです。そうなってくると、この部分を読むためには、山上の説教全体を視野に入れる必要が出てくる。
山上の説教、一昔前は、『山上の垂訓』と呼ばれていました。「垂れる・訓示」と書いて、「垂訓」です。ただ今は、『山上の垂訓』と呼ぶ人はほとんどいなくなりました。一つの理由は、「垂訓」という言葉が、今ほとんど使われなくなった、通じなくなったためです。そしてもう一つの理由は、山上の説教は、ただの訓示(教え)ではない。山上の説教は、イエス様による祝福の言葉から始まり、また、この説教の中でイエス様は、主の祈りも教えてくださっている。山上の説教は、決して「教え」ばかりが並んでいるのではない、よって、「垂訓」よりも、「説教」と呼ぶにふさわしい。
私も、それでいいと思います。「山上の説教」は、説教です。しかし、そうは言っても、「垂訓」、イエス様はここで、私たちに信仰の生き方を教えてくださっている、その「教え」の部分が大半を占めていることは、誰が読んでも明らかなのです。イエス様は、この山上の説教において、私たちの生き方、私たちの在り方を示してくださった、そして私たちが、そうなることをお命じになっておられる。そして、私、「その中身は、大きく二つある」と思っているのです。一つは、「人を愛すること、もしくは、人を赦すこと」。
イエス様は言われました。「兄弟に腹を立てるな」、「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」、「あなたの敵を愛せよ」、そして、「人を裁いてはならない」。
「人を愛しなさい、人を赦しなさい」。それが、一つ目のこと。
そしてもう一つは・・、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」、そして、「思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。
もう一つは、「人ではなく、神様を見ること」なのです。私たちは、ついつい、人の目が気になってしまいます。人の評価が、人がどう思うかに、心が取られる。また、自分の目も気になる。「自分が、自分をどう見ているか」。そして、(結局同じことなのですが・・)私たちは、自分の悩みに捕らえられると、それがすべてになってしまうのです。しかしイエス様は、「そうであってはならない」と繰り返しお語りになってきたのです。「人ではなく、自分でもなく、神様!、神様に目を向けなさい。神様に向かって、善行をおこない、神様に向かって祈りをし、そして、神の国と神の義を求めなさい」。
しかし、どうでしょうか。私たち、しばしば、それができなくて、立ち尽くしてしまうのであります。どうしても、愛せない、赦せない。また、どうしても、人の目から自由になれず、また自分の悩みに心取られて、そこから動けない。まるで、大きくそびえ立つ壁を目の前にするように、その壁の向こうに行けなくて、途方に暮れて、立ち尽くしてしまうように。
けれども、イエス様は言われるのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。
そして、イエス様は、このようにお語りになる。九節からです。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
イエス様はここで、物をねだる子どもを譬えに用います。子どもがお腹を空かせて、親にパンをねだる。また魚を求める。そのとき、あなたがた親は、子どもにパンの代わりに石を与えることはしないだろう。魚の代わりに蛇を与えるはずがないだろう。親ならば、子どもに必ず良い物を与える。ましてや、天の父なる神様は、求めるあなたがたに良い物を与えてくださる。つまり、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」というのは、神様に向かってすることなのです。それは、祈ることと言ってもいい。神様に、祈り求めなさい。おねだりをする子どものように、神様にお願いしなさい。
ある人が、ここで、このようなことを言いました。
「ここでの『求めなさい』というのは、勧めではなく、命令である」。
「勧め」というのは、「やってみたら、どうですか。やったほうがいいですよ」というものでしょう。しかし、「命令」というのは、必ず、やらなければならないことです。やってもいいし、やらなくてもいい、そのようなものではない。そして、この「求めなさい」というのは、命令だとその人は言うのです。
「ああ、そうか」と思いました。私たちは、壁の前で立ち尽くす。「どうしても、愛せないし、赦せない」。また、「人の目から自由になれないし、この悩みから動けない」、そう言って、立ち尽くす。しかし、その私たちに、イエス様は命令されるのです。「求めなさい! 探しなさい! 門をたたきなさい! あなたには、神様がおられるではないか。その神様は、求める者に良い物を与えてくださる父なる神様ではないか! これは、わたしの命令である、神様に、求めなさい!」。
私たちは、その命令を聞いて、またその命令に従って、祈るのです。「神様、あの人を愛し、また赦すことができるその力を、わたしに与えてください」。また、「神様、どうか、他の人の目、人の評価から自由になることができる、その力を与えてください。そして、この悩みに打ち勝つ力、それをあなたが与えてください」。それは、「信仰をください」という求めだと言ってもいい。また、「愛する心を与えてください」という祈りだと言ってもいい。そしてそれらは、羽仁もと子が言う、私たちを内側から動かす、「やってみよう」という動力でもある。私たちは、それらを神様からいただいて、一歩、踏み出す。赦す一歩、また、神様にゆだねる一歩。
そして、私は、その求め(祈り)というのは、「子どもがするおねだり」に極めて近いと思っているのです。
パンを欲しがる自分の子供に。
この「欲しがる」という言葉を、私は、「おねだり」と表現しているわけですが、私、最初、「おねだり」という言葉を、今日の説教に使ってもいいのか、迷いました。と言いますのは、日本語の辞書を引きましたら、「ねだる」という言葉は、漢字にすると、「強い」という字に、請求の「請」の字で、「強請(ねだ)る」と書くそうなのです。つまり、ねだるというのは、強く請求すること。そして、(私も驚いたのですが)その「強請(ねだ)る」という漢字は、「ゆする」とも読むそうなのです。
「ゆする」というのは、私の中では、ほとんどいいイメージがありません。「暴力で、ゆすられて、お金を取られる」、そのようなイメージしかない。ですから、今日の説教で、「おねだり(ねだる)」という言葉を使うか・どうか、正直、迷った。しかし、今日の御言を思い巡らしながら、「でも、私たちの求め、そして私たちの祈りは、まさに、『おねだり』ではないか」と思ったのです。
「無いものねだり」などという言葉もありますが、私たちは、時に、自分の中をいくら探しても、何も見つからないことがあるのです。「あの人を赦す」、そのような心が、自分の中に一欠片も見つからない。「門をたたけ」と言われても、悩みの大きさに打ちひしがれ、叩く元気さえない。だから、神様に求めるのです。「無いものねだり」、子どもが親にねだるように、神様に、「どうか、その力をわたしにください」と祈る。「信仰を、愛を、そして、『やってみよう』という動力を、神様、あなたが、わたしに与えてください」。
そして、イエス様はこの箇所の最後に、このように言われる。一二節。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
この一二節は、山上の説教全体のまとめだと言われています。イエス様が私たちに求める生き方は、とどのつまり、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にする」。自分がしてもらいたいと思うことを、自分が、人にしてあげる。そのような生き方をイエス様は私たちに求めている。
私たちは、何をしてもらいたいのか。結局、私たちは、何を求めているのか。私たちは、人に、そして神様に、愛してもらいたいのです。人に、そして神様に、赦していただきたいのです。それを、私たちが、人にする。私たちも、人を愛し、人を赦して、生きていく。自分から、してもらいたいことを人にする。そして実は、私たちはそのことを、心の底で強く願っているのです。なぜならば、それこそ、神様に造られた本来の私たちの姿だからです。そして、これこそ律法と預言者、つまり、これこそ、聖書が語っていることなのです。
どうしたら、そのような人間になれるのか。イエス様、神様が望み、そして、実は私たち自身が、最も願っているそのような人間に、どうすればなれるのか。
「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる」。
「求めなさい」。それは、イエス様の命令。貴い、貴い、聖なる命令なのであります。