礼拝説教「閉じてしまう扉」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第13章18~30節 

 
 
  私がここに立つときには、ルカによる福音書を読み進めております。私が赴任してから、ルカによる福音書を読み始めましたので、早いもので、この福音書を読み始めて、二年になろうとしています。二年間、コツコツと、この福音書を読んできて、「ああ、やっぱり、ルカはいいなぁ」と思っています。私、ルカによる福音書が大好きでありまして、もう十数年前になりますが、一度、キリスト教系のラジオ番組を、私、担当させていただいたことがありました。そこでも、私は、ルカを説いた。一年間、ルカによる福音書を説く番組を行ったのです。そして今再び、ルカを説いている。何度、説いても、まだ何度、読んでも、新しい発見、新しい恵みがある。「ルカによる福音書は、いいなぁ」と思うのであります。(まぁ、もっとも、私が説教で、マタイによる福音書を説いていたら、きっと私は、「マタイによる福音書は、いい」と言うに違いないのですが、聖書というのは、どこを読んでも、恵みがある。無尽蔵に、尽きない恵みが湧き出してくるのであります。)
 マタイ、マルコ、そして、ルカによる福音書。この三つは、内容がよく似ていますので、「共観福音書」と呼ばれています。イエス様の行ったことや、お語りになった言葉が、この三つの福音書には重なって出てくる。しかし、「じゃあ、まるっきり、この三つは同じか」というと、当然そうではありませんで、それぞれ、特徴があるのです。そして、ルカによる福音書の特徴の一つに、マタイとマルコには出てくる、よく知られた、イエス様のあの言葉が、出てこない、その点を挙げることができるのです。それは、どの言葉か、と申しますと、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
 これは、意外なのです。マタイ、そしてマルコでは、この言葉が、イエス様の第一声でした。そしておそらく、イエス様は何度も、この言葉を口にされた。しかし、なぜだか、ルカには、この言葉が出てこない。じゃあ、何か、ルカは、「神の国」には関心がなかったのか。また、「悔い改め」は、特に必要ないと考えたのか。もちろん、そのようなことはありません。実は、ルカはこの言葉を、別の形で伝えているのです。いや、むしろ、「ルカは、別の形で伝えることによって、神の国、そして悔い改めを、強調している」とも言える。
 
 私たちに与えられた今日の御言は、ルカによる福音書第一三章一八節からです。ここも、「神の国」の譬え話です。そして、ここも、「神の国が来たのだから、悔い改めて、福音を信じなさい」、そのような意図が込められているイエス様の言葉だと言える。今日は、その箇所を、ご一緒に心に留めていきたいと願うのであります。ルカによる福音書第一三章八節から。

 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」 

 私、最近まで、「からし種の実物」というのを見たことがありませんでした。ただ、最近、ある方から、本のしおりをいただきまして、そこに、本物のからし種が、何粒か、ビニールで貼り付けてありました(種が、しおりにラミネートされていたのであります)。本当に小さな種でした。一ミリにも満たない。しかし、その種が地に落ちると、二メートルないしは、三メートルくらいの木に成長するそうであります。ただ、聖書の学者たちは言います。その枝には空の鳥が巣を作る、これは、いささか大袈裟ではないか。からし種は、大きく成長するが、枝がそれほど頑丈ではない。だから、鳥が巣を作るまでには至らない。あえて言うならば、からし種の木の下で、鳥が巣を作る。木に隠れるようにして、鳥がそこで、タマゴを暖める。実際、マルコによる福音書では、「葉の陰に空の鳥が巣を作る」となっているのであります。
 しかし私、その学者たちの説明を本で読みながら、それは、イエス様の主旨とは、また違うのではないか、と思いました。イエス様は別に、「からし種」という植物の生態を語っておられるのではない。「神の国」の話をなさっている。そしてそれは、実際の「からし種」の成長を、はるかに越えていくのであります。
 神の国は、大きくなる。実際のからし種の木(二メートル、三メートル)を遙かに超えて、そこに、鳥が巣を作る。(しかも、この「鳥」という言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、複数形でありまして、つまり、一羽ではなく、たくさんの鳥たちが、その木に巣を作る。)そう、その「鳥」は、私たちなのです。私たちは、「神の国」という大きな木に宿る鳥たち。神の国に宿り、そこで平安を得る、また自由を得る。
 当然、私たちは、ここで気になります。ならば、この「からし種」とは何だろうか。やがて、大きな木となる、神の国の元となる、「からし種」とは、何を指しているのだろうか。次の譬え話も、中身は同じです。二〇節。

 また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。 

 「パン種」というのは、イースト菌が入ったパンの元です。ほんのひとかけらでいい、そのひとかけらを粉に混ぜて、練り上げると、大きく膨らむパンとなる。これも、先ほどの譬えと同じ。最初は、小さい。しかし、大きく膨らむ。ここでも、同じ疑問が浮かぶ。ならば、その始まりとなる「パン種」とは、何だろうか。
そのような疑問(御言への問いかけ)を持ちながら、この先を読むと、こう記されているのです。二二節です。
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
からし種、そしてパン種の譬え話。実はこの譬え話は、他の福音書、マタイやマルコにも出てきます。しかし、ルカだけ、大きく文脈が違うのです。(イエス様がお語りになった場面が違う。)もちろん、イエス様は、同じ譬え話を、色々な場面で語ってくださったのでしょうが、じゃあ、ここでは、どういう意味(どういう思い)で、イエス様はこの二つのたとえ話を語ってくださったのか。ルカは記す。「イエス様は、このとき、町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」。
エルサレムというのは、イスラエルの都です。神様を礼拝する神殿がありまた、イスラエルの「祈りの家」です。イエス様は、そのエルサレムを目指す。何のために。エルサレムにおいて、ご自分が十字架にかかるためです。私たちの身代わりとして、十字架で死ぬために、今、イエス様は、エルサレムを目指しておられる。
 からし種、パン種、共通して言える点は、大きくなるに際して、種そのものは消えていくという点にあります。もっと聖書的な言い方をしますと、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、ただ一粒のままである。しかし、死ねば、多くの実を結ぶ」。そうなると、ここでのからし種、パン種は、イエス様ご自身だ、ということになる。エルサレムへ向かう。ご自身が死ぬために、死んで、私たちの罪を赦すために、多くの実を結ぶために、エルサレムへと向かう。そこに、神の国の始まりがあるのです。
 
 イエス様が、「神の国」の話をなさった、きっとそれを受けてでありましょう。このような質問をした人がいました。二三節です。 

 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。 

 「救われる」というのは、ここの流れで読むと、「神の国に入る」ということです。「神の国に入ることができる人は、少ないのでしょうか」。すると、イエス様はこうお答えになる。(続きです。) 

 イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 

 イエス様は、具体的な人数の話はなさいません。狭い戸口から入るように努めなさい と言われる。そして、二五節。

 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 

 ここで、イエス様は、「閉じてしまう扉」の話をなさるのです。その扉は、「戸口が狭い」だけではなく、やがて閉じてしまう。しかも、一回、閉じられてしまうと、どんなに呼びかけても、開けてもらえない。「ご主人様、私たちは、あなたと一緒に食べたり、飲んだりしました。また、広場で、あなたの教えを、聞いたこともあるのです」。しかし、主人は冷たく、こう答えるだけ。「お前たちが、どこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。そして、閉め出された人は、外に投げ出され、泣きわめいて、歯ぎしりをする。
 私たちは、心が騒ぎます。「これは、どういうことだろうか。イエス様はここで一体、何をお語りになっているのだろうか」。
 
 私、説教を語る者として、時々、「ああ、これは、誘惑だなぁ」と思うことがあります。それは何か、と申しますと、聖書の言葉があり、その言葉が、時に厳しい響きを立てる。読む私たちの立つ瀬を無くすような、まるで救いがないかのような、厳しい響きを立てる。そのような御言を前にして、説教者として、なんとか、それを和らげたいという誘惑に駆られてしまうのです。厳しいのです。聖書が語っていること、イエス様がお語りになっていることは、どう読んでも、厳しいのです。しかしそこで、説教者は、つい、余計なことを考える。「ああ、これを、そのまま語ったら、つまずいてしまう人が出るかも知れない。『せっかく礼拝に来て、平安を得られると思ったのに、随分、厳しいことを言われた。ああ、こんなんだったら、来なければよかった』、そう言われないためにも、厳しい御言を、なんとか、和らげて語りたくなる。「心配しなくてもいいのですよ」と、言ってみれば、取り繕いたくなる。
 今日の御言、この箇所も、私、その誘惑との戦いでした。この御言も、厳しいのです。戸口は狭く、しかも、この扉は、いつまでも開いていない、時が来れば、閉まる扉。「どう、語ったらいいのだろうか。どう語ったら、皆様にとって、受け止めやすい説教になるだろうか」、私、一週間、そういう誘惑と戦ってきた。
 いや、もしかしたら、これは、説教者だけの誘惑ではないのかも知れません。皆様にもある。例えば、今日の箇所。家で、また礼拝の前に、あらかじめ今日の箇所を読む。「なんだか、今日は厳しい内容だ。でも、鷹澤だったら、ここからでも、何かしらの『恵み』を語ってくれるに違いない。この厳しさを、和らげてくれるに違いない。それを期待しよう!」。それも、「誘惑」なのです。御言を、自分にとって受け止めやすく、そして、厳しさを、和らげたくなる誘惑。
 しかし私、説教準備の途中で、腹をくくりました。「厳しい御言は、やっぱり厳しい御言。この厳しさを、受け止めなければならない」。そして私は思った。何よりも、誰よりも、イエス様が、「この厳しさ」の前に、私たちが立つことを求めておられる。神の国の戸口は、狭い。その扉は、いつまでも開いていない。いつか、閉まり、一度閉まると、開けてもらえない。イエス様は言われる、「この厳しさを、あなたも、心に留めなさい。この厳しさの前に、あなたも、立ちなさい」。
 私、腹をくくってから、この「厳しさ」の前に、じぃっと立ち続けていきました。イエス様がお語りになるひと言、ひと言、そこから、目を逸らさず(耳をふさがず)、心にとめていった。そうしましたら、ここに込められたイエス様の思い、イエス様の心が、じわっ~と伝わってくるような思いがしたのです。この「厳しさ」というのは、イエス様の、神の国に対する厳しさ、真剣さなのではないだろうか。
 イエス様は、今、エルサレムに向かっておられるのです。ご自身が、十字架にかかるため。十字架にかかり、私たちの罪を赦し、そのようにして、神の国の扉を開くため、イエス様は今、エルサレムへと向かう。そしてイエス様は呼びかけておられるのです。「わたしに従って来なさい。神の国、わたしが、その扉を開く、その神の国に、あなたは、入りなさい。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、イエス様は、そう呼びかけておられる、厳しく、そして、真剣に!
 このとき、イエス様に質問した人はこう問いました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。私、思いました。イエス様は、この質問に、非常に深い悲しみ、またその悲しみから来る憤りを覚えられたのではないだろうか。「救われる者は、少ないのでしょうか」。「あなたは、『多い、少ない』を聞いて、どうするのか。わたしが、『少ない』と答えたら、『ああ、それなら、わたしは、ダメだ』と言って、あきらめるのか、『救い』というのは、その程度の問題なのか。また逆に、『救われる者は、多い』とわたしが答えたら、あなたは、どうするのか。『ああ、それならば、もう少しのんびりしていてもいいのだな』と思うのか。それとも、あなたは、ただ、興味本位で、また仲間内で、無益な神学論争をするために、『救われる者の数』を知りたいのか。そのように、神様を試みることは、どれだけ大きな罪であることを、あなたは知らないのか」。イエス様は、この質問に対して、悲しみを覚える。またその悲しみから来る憤りを覚える。そして、譬え話を通して、こう問い返されたのです。「あなたは、どうなのか。あなたは、わたしが、十字架にかかり、そして開く、その神の国に入りたいと願っているのか。他の人のことは、いい。『何人、救われるか』なんてことも、関係ない。あなた、肝心のあなたは、どうなのか!」。イエス様は、そうお問いになる。この譬え話を通し、厳しく、そして真剣に、そう問うてくださっているのです。
 
 私、この説教の準備に際して、このような言葉に出会いました。
 
 もう遅すぎる、ということはある。まさに愛の世界において。「おそくてもよい」というのは、眠っているような愛、どうでもいいような愛である。
 
 私、その言葉を読んで、イエス様が、この譬え話に込めた思いは、まさに、これではないか、と思った。イエス様は、どうしても、何が何でも、今、ご自分に従って来てほしいのです。「いつでもいい」、扉を開けっ放しにして、「この扉は、いつまでも開けておくから、あなたの気が向いたときに、入って来てくれれば、それでいいよ」、イエス様は、そうは言われない。イエス様の愛は、そういう眠っているような、また、どうでもいいような愛ではない。すぐ応じてほしい、どうしても従って来てほしい、なぜならば、わたしが十字架にかかる、ここにしか、あなたの罪の赦しはないのだから。あなたが神様のもとで生きる。罪赦され、神様のもとで平安を得る、自由を得る、それができるのも、ここ、わたしに従う、その道しかないのだから!
 
 先々週から、今週にかけて、三人の方を、天にお送りいたしました。Oさん、Nさん、そして、Aさん。私、その方々が、「お亡くなりになった」という知らせを受け、それぞれの方々の枕元に立ちました。そして、どの時も、まずお読みした聖書の言葉は、詩編第二三編でありました。

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。
そして、私、その詩編を読みながら、繰り返し思いました。「主が、私たちの羊飼いでいてくださる。これは、なんて、貴いことだろう」。 

 主は、私たちの羊飼い、しかも、私たちの主、イエス様は、ご自分の羊のために、命を捨ててくださった羊飼い。私たち羊が、神の国に入る。神様のもとに宿り、神様のもとで平安を(青草の原で休み、憩いの水を飲む、そして魂の生き返りを経験する)、そのために、イエス様は、自ら命を捨ててくださった。イエス様は、そのような羊飼いなのです。
 私、こういうイメージを抱いても許されると思うのです。私たち罪人が、神の国に入る、その手前に、大きな地割れがあるのです。「罪」という名の地割れ、神の国の前に広がる、決して自分では越えられない深淵。しかし、羊飼いであるイエス様は、そこにご自分の身を投げ打ってくださったのです。その地割れに、自分の身を横たえ、橋をかけてくださった。そして、私たちに言うのです。「さあ、渡れ! わたしを踏んで、神様のもとへと渡れ!」。イエス様は、そこまで、真剣なのです。そこまで、厳しい思いで、私たちの罪を赦し、私たちを愛し抜いてくださっている。
 
 今日の御言は、このような言葉によって終わります。二九節。

 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
イエス様は、「神の国に、あなたの席もあるのだ」と語ります。そして、そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。 

 この言葉は、色々な意味で、聖書に繰り返し出てくるのですが、大胆に、こう読んだ人がいます。「先の人であったのに、後になった者とは、イエス様のことではないか。まことの神の子であり、罪なき御方、イエス様、そのイエス様こそ、本来ならば真っ先に宴会の席に着くべきだった。しかし、後の人であった私たちを、イエス様が、その身を犠牲にして、先に席に着かせてくださった。後の人である私たち罪人が先になり、先の人である神の子イエス様が、後になる」。随分、大胆な聖書の読み方です。しかし、私、「ああ、そうかも知れない」と思いました。私たちは、イエス様を犠牲にして、神の国の宴会の席に着く。イエス様の犠牲なくして、私たちの席はないのです。
 だから、だから、私たちは、眺めているわけにはいかない。「救われる人は、少ないのでしょうか、多いのでしょうか」、そんな呑気なことを言ってもいられない。私たちは、イエス様に答える、「わたしは、あなたに従います。今すぐ、自分勝手な生き方をやめ、あなたに、あなたが望む生き方に、従います! 主よ、わたしが負うべき重荷を負わせてください。その道が、どんなに狭くても、また、どんなに厳しくても、わたしは、あなたにお従いしたいのです!」。
 
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