礼拝説教「あなたも憐れみに生きよう」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第15章1~10節 

 
 牧師になるための学校、神学校には、夏期伝道実習というのがあります。学校で言うところの「教育実習」でありまして、夏の間、指定された教会に行って、住み込みで、約ひと月、研修を行う。教会のお手伝いをしながら、その教会の牧師から色々なことを習うのであります。
 その夏期伝道実習は、「卒業までに二回、行くように」とされていまして、私の場合、学部の三年生と大学院の一年生の時に実習に行きました。そして初めて、学部の三年生で実習に行った教会は、山形県の鶴岡という町にある教会だったのであります。そして私、そこで生まれて初めて、日曜日、説教壇に立って、礼拝説教をしました。
 よく覚えています。もちろん正確ではありませんが、そのとき語った内容を今でも思い出せる。そして、説教をすることに大変大きな喜びを感じたことをよく覚えているのです。初めての説教。当然、緊張もしました。しかし、私の場合、緊張よりも嬉しさが、その時まさっていたのです。と言いますのは、実は私、その頃、神学校の勉強に少々疲れを覚えていました。神学校では、学年が下の間、神学の基礎となる哲学や語学を学ぶ。私、それらを学びながら、「一体これらは何の役に立つのか」という疑念が生じていたのです。「本当にこれらは、教会の伝道に必要なのか」。神学校で学んでいることの意味が、一回よく分からなくなってしまった。そこで私、通常、四年生で行くはずの夏期伝道実習を、一年前倒しして、三年生の時に行かせていただいたのであります。そして、教会の現場に飛び込み、また、教会に生きる方たちと多く接して、段々と自分の思いが回復していった。「ああ、やっぱり私は、教会で働きたいのだ。聖書、御言を語りたいのだ」、その思いが沸々とよみがえってきて、そして初めての礼拝説教に臨んだのです。嬉しかった。御言を語ることに喜びを感じた。それが、「初めて」という緊張をも吹き飛ばしてくれたのであります。
 そして実は、そのとき説教した聖書の箇所が、今日の御言、ルカによる福音書第一五章一節からだったのであります。あれから、二七年経ちました。そして今日もう一度、この御言を語ることができる、しかも、皆様と共に聴くことができる、その幸いを神様に感謝しております。
 
 ルカによる福音書第一五章、一節から、もう一度、お読みいたします。ルカによる福音書第一五章一節から。
 

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

 
 このルカによる福音書第一五章には、三つの譬え話が出てきます。新共同訳聖書の表題を追っていただければいいと思いますが、「見失った羊の譬え」、「無くした銀貨の譬え」、そして、「放蕩息子の譬え」です。どれもよく知られた譬え話でありまして、特に三番目の「放蕩息子の譬え話」は、教会に通い始めたら、すぐに覚える、またすぐに覚えていただきたい譬え話でもあります。そしてそれらの譬え話が語られる、そのきっかけが、今お読みした一節、二節でありました。
 イエス様はこのとき、食事をしていたと思われます。そしてその食事の席には、大勢の徴税人や罪人たちがいた。「徴税人」というのは、今で言えば、税務署に務める人たちです。ただ、当時のユダヤは、戦争に負けて、ローマ帝国に占領されていました。従って、税金を収める先が、その敵国であるローマだったのです。そしてその税金を集めるのが、徴税人たちだった。
 ローマは、税金を集めるために、少々独特な方法を取りました。ローマにしてみると、占領している地域から税金を集めるには、反発を覚悟しなければいけない。そこで、ユダヤならばユダヤの中で、税金を集めてくれる人たちを募集したのです。「徴税」を権利にしまして、その権利を高く売った。その代わりに、手数料は自由に決めてもいい、ということにしたのです。その結果、どうなったか。簡単に想像がつくと思います。徴税の権利を買った人たちは、元を取り返すために、相当高い手数料を取ったのです。しかも、バックにはローマがついていますので、払う方は文句が言えない。そのため、徴税人たちは、私腹を肥やし、その代わりに人々の反感を買う。ローマへの怒りの矛先が徴税人たちに集まっていったのです。
 ファリサイ派や律法学者たち、彼らは、信仰の指導者です。そして、ユダヤの独立を強く願っていた。当然、徴税人は許せないのです。「あんなヤツらは、もはや同じ民ではない。民の恥、民の汚点。あんな裏切り者たちに天国の居場所はないだろう!」。そのようなことまで考えて、徴税人を忌み嫌った。しかしその徴税人たちが、イエス様のもとに集まっている。
 そして、「罪人たち」(何かしらの罪を犯して、社会から白い目で見られていた人たちも)、イエス様のもとに集まっている。ファリサイ派、律法学者たちは、それを見て眉をひそめたのです。そして、このような不平を言った。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。「なんで、あんな連中と」ということです。「なんで、あんな連中と食事を共にするのか!」。
 それに対して、イエス様は、譬え話をしてくださったのです。それが、三節から。三節。
 

 そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

 
 イメージ豊かな譬え話です。実際ここから、数多くの讃美歌が作られ、また、子ども向けの絵本や紙芝居などが生まれていきました。一〇〇匹、羊を持っている人がいた。しかしそのうちの一匹が、いなくなってしまった。すると、その人(その羊飼い)は、九十九匹を野原に残し、いなくなった一匹を捜しに行く。そして見つけたら、近所の人たちまで集めて、大喜びをした、というのです。私も、何度も、教会学校や他の場面で、この譬え話を子供たちに語ってきました。そしていつでも、子供たちは喜んで聴いてくれた。それだけイメージが豊かで、また印象深い譬え話。
 さらに、イエス様は、このような譬え話もしてくださいました。一節飛ばして、八節。
 

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

 
 今度は、一〇枚の銀貨を持っている女性です。やはり、そのうちの一枚が無くなり、必死になって捜す。そして見つけると、先ほどと同じように、近所の人たちまで集めて大喜びをするのです。
 こちらは、少しだけ分かりにくいかも知れません。なんで銀貨だったのか。しかも、なぜ、女性が主人公だったのか。実はこれは、簡単に説明がつきまして、銀貨一〇枚というのは、「単なる生活費だった」とも考えられるのですが、もう一方で、「結納の品だった」とも考えられるのです。結婚するとき、当時の女性たちは、実家から銀貨一〇枚を持参した。しかも、それに穴を開けて、糸を通し、首飾りのようにして持ってきた。(銀貨一〇枚というのは、それほど大きな額ではなかったようですが、一つのしるしとして持ってきた。)それが、何かのはずみで、糸が切れて、バラバラになってしまったと考えられるのです。そして、当時の家には電気がありませんから、ともし火をつけ、ほうきで家を掃いて、丹念に捜す。きっと、ほうきで掃いた先で、「チャリン」という音がしたのでしょう。その音を頼りに、無事、銀貨を見つけることができたのであります。
 イエス様は、このような譬え話をなさり、そしてこう言われたのです。七節。
 

 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
そして、一〇節。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 
 イエス様は、言われる。「天は、喜んでいる」。具体的なことです。徴税人や罪人たちが、わたしのもとに来て、悔い改めが起こっている。そのことを、天が喜んでいる。ファリサイ派、律法学者たちよ、あなたがたは、眉をひそめる。しかし、天は(神様は)、このことを何よりも大きく喜んでおられるのだ! イエス様は、そうお語りになるのです。
 
 ある人が、こう言いました。「イエス様は、ここで、天を開き、天を見せてくださっている」。いい表現だと思いました。
 家のようなものを想像していただけるといいと思うのです。ある家の中から、笑い声が聞こえる。また陽気な歌や音楽が聞こえる。「何をしているのだろう」と通りがかりの人たちが足を止める。すると、そこで一瞬、その家のドアが開いたのです。すると中では、お祝い、パーティーが行われていたことが分かる。そしてそれが、徴税人や罪人(罪人たち)が、神様のもとに戻って来た、そのことを祝うパーティーだったのであります。イエス様は、ここで、天を開き、天の様子を見せてくださった。「天は、とっても喜んでいるのだ!」。
 このイエス様の譬え話。一つは、明らかに、ファリサイ派、律法学者たちへの反論として語られました。「あなたがたは、そう考えるのかも知れないけれども、天は、こう考えている」、その反論として語られた。しかし、実は、それだけではないのです。イエス様はこの譬え話を、特徴的な語り方をしてくださっています。それは、どういう語り方かと言うと、聴いている者たちに、問いかける語り方、そして、同時に、「強い同意」を求めている語り方なのです。
 全体としてそうなのですが、例えば、四節。「一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。この最後の部分、「捜し回らないだろうか」。これは、問いかけです。そして、「強い同意」も求めている。「あなたがたも、捜し回るでしょ。捜し回って、当然でしょ!」。六節もそうです。「見つけたら、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。当然、当たり前のこととして、見失った羊を見つけたら、みんなを呼んで、「一緒に喜んでほしい」と言うでしょ!
 「さあ、そうだろうか」と私たちは思うのです。これは、私たちの問題です。私たちが、このイエス様の問いの前に立たされる。「あなたは、どう思うか。あなたも、当然そう考えるでしょ。また、そのようにするでしょ!」。イエス様は、私たちにそう問いかけておられる。
 
 聖書というのは、もちろん、聖書そのものもおもしろいのですが、その解釈の歴史というのも、おもしろい、また楽しいものであります。このイエス様の譬え話、特に、見失った羊の譬え話も、色々な解釈がなされてきました。特に、人々の関心を集めてきたのが、「九十九匹を野原に残し」という部分でありまして、これを巡って、様々な解釈が起こった、つまり、「これで、本当に、いいのか」という疑問が生まれたのです。
 例えば、このように読んだ人がいました。「一〇〇匹もの羊の群れを世話するとき、羊飼いが、たった一人だったとは考えにくい。クリスマスに出てくる羊飼いたちのように、羊飼いたちは、必ず何人かで羊の群れの世話をした。だからこの時も、一人の羊飼いが、いなくなった羊を探しに行き、他の羊飼いたちは、残りの九十九匹の番をしていたのだ。九十九匹も、安全に守られていたのだ」。ある人はそう読んだ。
 また、これは、ある国の子ども向けの讃美歌が、そうなっているそうですが、「この羊飼いは、いなくなった一匹を捜しに行く前に、まず、九十九匹を安全な場所へと連れて行った。安全な場所、羊小屋へ連れて行き、鍵も閉め、それから、いなくなった一匹を探しに行った」。(ちなみにこれは、明らかに解釈のしすぎでありまして、イエス様は、九十九匹を野原に残してと語っておられる。この「野原」という言葉は、元々は、「荒れ野」という言葉で、危険な獣も多い荒れ野に、九十九匹を残していった。)さらには、私、「実は、犬がいたのだ」という説明も聞いたことがあります。「羊飼いは、必ず、牧羊犬を連れていた。その犬に、残りの九十九匹を託し、いなくなった一匹を捜しに行った」。
 どれも、気持ちは分かるのです(そう考えたくなる気持ちは、分かる)。なぜならば、私たちだって思うからです。「確かに、一匹の羊を追い求める羊飼いの姿は、美しいかも知れない。しかし現実問題、残りの九十九匹は、どうするのだ。たった一匹のために、九十九匹を犠牲するのか。いや、むしろ、羊全体に責任を持つ羊飼いならば、九十九匹のために、一匹を犠牲にすることも、時に必要なのではないだろうか!」。
 これらは、何か。「九十九匹」を巡る解釈の歴史、また、私たちも、どこか納得がいかない、これらは一体何か。
 これらはすべて、イエス様から、「当然、当たり前でしょ」と言われて、素直に、「はい、そうです、アーメン」と言えない私たちの姿なのです。イエス様が、天のドアを開けて、天を見せてくださった。しかし、そのとき、私たちと、天とのズレが明らかになったのです。天の感覚、天の考え、そして天の喜び、それらと私たちとの間にズレがあった。そしてそのズレが、私たちの「罪」だったのです。
 どういう「罪」、また、どういうズレか。
 (実は、このことについては、今日の説教、一回だけで、すべてを心に留めることはできません。この第一五章を読みながら、繰り返し、心に留めていかなければならないこと)しかし、今日の御言に従って、今日は一つだけ、心に留めるならば、イエス様が示してくださった「天」、その天の心は、「憐れみ」だった。その「憐れみ」と、私たちとの間にズレがあった。いや、「ズレ」なんてものではない、「大きな隔たり」があった。その隔たりが、私たちの罪の深さだったのです。
 「九十九匹を野原に残して」、これは、「天の憐れみ」以外なにものでもないのです。「一匹いなくなった、一匹が失われた」、そのことに対して、羊飼いは、もう居ても立ってもいられないのです。じっとなんかしていられない。もう他のことは考えられず、一匹のために、飛び出していくのです。「憐れみ」が、そうさせる。まるで火がつき、憐れみが、体の中で爆発するように、この羊飼いは、一匹の羊を捜し求めるために飛び出していくのです。イエス様は言われる、「天は、(天の父なる神、そしてわたしは)そういう憐れみを抱いてるのだ。徴税人、罪人、そして、あなたがた一人一人に対して、憐れまずにはおられないのだ!」。
 そしてイエス様は言われる、「捜し回らないだろうか」。あなたも、この憐れみに、生きてほしい。天の憐れみ、父なる神、そしてわたしのこの憐れみに、あなたも、生きてほしい! つまり、イエス様は、ファリサイ派、そして律法学者、そして私たちが、この一匹を捜す羊飼いになることを求めておられるのです。
 「憐れみのなさ」、それが、私たちの罪です。一匹失われても、どうってことない。仕方がない。いやむしろ、あの人は、自分から出て行ったのではないか。自業自得と言えるのではないか。そう言って、憐れみどころか、冷たく、ひえた心を持つ。それが、私たちの罪です。イエス様が示してくださった天と、いかにズレているか、大きく隔たっているか、それこそ、天と地ほどの差がある。それが、私たちの罪の深さ、そのぐらい私たちは、神様のもとから、失われてしまっている。そしてイエス様は、その私たちをも、探し求める!
私は思いました。イエス様はここで、ファリサイ派、律法学者たちの不平を聞き流されてもよかったのではないか。「また言っている。いつまで経っても、物わかりの悪い連中だ」、そう言って、あっさり聞き流してしまわれてもよかった。しかし、イエス様はそうはなさらない。見失った羊の譬え、無くした銀貨の譬え、そして放蕩息子の譬え、こんなにも素晴らしい譬え話を、続けて語り続けてくださる。私は、あっと思った。まさにここに、失われた羊を捜す羊飼いの姿があるではないか!
 ファリサイ派、そして律法学者、そして私たちも、神様のもとから失われれた羊なのです。憐れみを忘れた、冷えた心しか持てない失われた羊。その私たちのために、これらの譬え話をしてくださる。繰り返し、御言を語り、「あなたも、あなたも、羊飼いになってほしい」と語りかける。そして、イエス様は、そのために、最後は十字架にまでついてくださったのです。イエス様は、そこまで、その私たちを深く憐れんでくださった。また、私たちを憐れまずにはおられなかった。
 イエス様は語る。十字架にかかってくださった、まことの羊飼い、イエス様が今日も語る。「あなたも、憐れみに生きてほしい。わたしと同じ羊飼いになって、一人が失われたら、わたしと一緒に、見つけ出すまで捜し回ってほしい。そして見つけたら、わたしと一緒に喜んでほしい。わたしと一緒、天と一つとなって、あなたも、喜ぼうではないか。そして、その喜びこそが、あなたにとっても、最上の喜び、いのちの喜び。その喜びに、わたしが、あなたを生かすのだ」。イエス様は、今日も私たちに、そう語りかけてくださっているのです。
 
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