礼拝説教「計算が合わない神の愛」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第15章25~32節 

 
 聖書を読んでおりますと、何組もの兄弟が出てきます。兄と弟、姉と妹。そしてこれは、「私の印象」なのですが、どうも、聖書は、兄よりも弟に光を当てる。姉よりも妹に優しいような気がするのです。
 例えば、人類最初の兄弟カインとアベル。二人とも献げ物を持ってきたのに、神様が目を留めてくださったのは、弟のアベルでした。また、エサウとヤコブという双子の兄弟。本来、家督を継ぐのは、兄のエサウだったはずなのに、結局、弟ヤコブが後継者となる。また、そのヤコブの妻レアとラケル。(この二人も姉妹なのですが)ヤコブに愛されたのは、姉ではなく、妹のラケルだった。まだまだありまして、モーセとアロンも、アロンの方が兄なのに、エジプト脱出の指導者は、弟のモーセ。さらに、イスラエル王ダビデも、八人兄弟の末っ子なのであります。どうも、聖書は、兄よりも弟に光を当てる。姉よりも妹に優しい気がする。ちなみに、私は、三人兄弟の一番上、兄でありまして、聖書のそのような記述を読むと、なんとなく、おもしろくないのであります。しかし、これには、ちゃんとわけがあるのです。古代において、一番優遇されたのは、なんと言っても、長男、兄でありました。昔の日本もそうだったと思いますが、長男は跡取りとして、大事にされた。その点、下の子供たちは、扱いが軽かったのであります。しかし、聖書は語る。「神様は、力がない者、弱い者、そして貧しい者に心をとめる」。だから、兄よりも弟、姉よりも妹に、光が当たる、また優しくしているように見えるところがあるのです。
 けれども、もちろんですが、だからと言って、聖書は、兄や姉を軽んじているわけではありません。むしろ、兄や姉に向けた御言、メッセージというのは、聖書に数多くある。そして今日、私たちが心に留めていきたいイエス様の譬え話も、兄に向けられた話なのであります。
 
 私たちは、先週から、「放蕩息子の譬え話」と呼ばれる、イエス様がなさった譬え話を読んでいます。ある人に息子が二人いたという言葉から始まる譬え話でありまして、弟が、父親に向かって、「財産を分けてほしい」と言い出すところから、この話は始まります。

 『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』。

 死んでから、遺産を引き継ぐのではなく、父が生きている間に、遺産を分けてもらう、いわゆる「生前贈与」を弟が申し出るのです。そして弟は、その財産を受け取ると、さっさと家を出て、遠い国へ行ってしまう。そしてそこで、放蕩の限りを尽くすのです。
 (これは、偏見かも知れませんが)私自身、兄の立場から言わせていただくと、「まぁ、こういうことをするのは、弟だろうなぁ」と思うのです。もちろん、一括りにするわけにはいきませんが、兄弟の一番上というのは、どうしても、保守的になる。(私自身もそのつもりなのですが、)保守的で、なかなか思い切ったことができない。その点、下の方が自由に行動する。実は、私の兄弟も、そうでして、なんとなく羨ましくも思うのであります。
しかし、この弟息子、少々遊びすぎた。あっと言う間に、父からもらった財産を使い果たしてしまうのであります。そして、ちょうどその時、その地方を飢饉が襲い、彼は食べるものにも困り始める。そして彼は、ユダヤでは、汚れた動物とされていた豚の世話をさせられる。そしてそこで、我に返るのです。弟息子は、自分の罪に気づき、父に謝る決断をする。そして家に帰るのですが、すると、弟息子も予想していなかったことが、起こります。
 弟息子は、重い気持ちで、また足を引きづるようにして家へと向かいます。すると、まだ遠く離れていたのに、父が、彼を見つけ、駆け寄ってくるのです。そして、彼を抱きしめ、彼の謝罪の言葉をほとんど聴かずに、赦してくれる。そして、肥えた子牛まで屠って、祝宴を始めてくれるのであります。これは、弟息子も驚いたと思う。彼は、「雇い人の一人にしてください」と言うつもりだった。しかしこの父親には、そのようなつもりは微塵もない。「わたしの息子!、わたしの愛する子が帰ってきた!」、そう言って、大喜びをするのであります。
 そして、この譬え話が、おもしろいのは、実はここからなのであります。そこへ、兄が帰ってくるのです。ルカによる福音書第一五章二五節から読んでまいります。 

 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

 この日、兄は、いつもどおり畑へ行って、そして、いつもどおり仕事をし、そして帰ってきました。すると、我が家が、いつもとは随分、様子が違うことに気がつく。楽しそうな音楽が聞こえ、人々が喜び踊る声も聞こえてくる。「これは一体何事か。何のお祝いなのか」。兄は、家のしもべを呼んで、事情を聴きます。すると、あの弟が帰ってきた、というではないか。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は、これを聴いて、怒るのです。二八節。

 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 

 もう随分前になりますが、私が静岡の教会にいたとき、地区の教会の青年たちの集まりがありました。「青年修養会」と呼ばれていたもので、静岡で開催されたのですが、その修養会で、この譬え話が、主題となったのです。
 青年たちの集まりです。ただ講演を聴くだけではなく、「自分たちも体を使って、聖書を学んでみよう」ということになりました。そこで、幾つかのグループに分かれて、「この譬え話のその後を、劇にする」という試みをしたのであります。このイエス様の譬え話、話が途中で終わっています。父親が、兄息子に、祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか と言った。しかし、このあと兄が、どうしたかが、書かれていないのです。兄は、父の言葉にさとされて、家に入ったのか。弟とは、再会したのか。青年修養会では、そのことを、劇にしよう、ということになったのです。
 おもしろかったのです。特にあるグループの劇が、非常に良くできていた。その劇は、兄息子が父親から諭される場面から始まります。そして、兄は、父親に対して怒って、「納得いかないよー」と言って、家を飛び出してしまうのです。せっかく、弟息子が帰ってきたのに、それと入れ替わるようにして、今度は、兄が、家を飛び出してしまう。そして、兄は、静岡にありますA神社へ行くのであります。(実はその劇、あらかじめ、入れなければいけないキーワードというのが決まっていまして、名所、A神社を劇の中に登場させなければいけなかった。ですから、かなり強引なのですが、兄息子は、父のもとから飛び出し、A神社へ行く。)すると、見るからに怪しげな神主が出てくるのです。その神主は、兄息子に、「あなたには、悩みがありますね。正直に言ってごらんなさい」とか言うのです。そこで兄は、自分の身に起こったことを話す。「弟が、放蕩に身を持ち崩して帰ってきた。それを父が、なんの咎めもなく、赦してしまった。いや、赦すどころか、子牛まで屠って、祝宴を始めた。自分は、納得がいかない。自分は、長年父に仕えてきたのに、子山羊一匹すらもらえなかった。こんなことがあっていいのか!」。兄は、そのように神主に告げる。するとその神主は、こう言うのです。「兄よ、あなたは、正しい。間違っているのは、弟、また、父親。弟息子は、必ず天罰を受け、そして真面目なあなたは、天の報いを受けるでしょう!」。兄は、それを聞いて、納得するのであります。「やっぱり、そうですよね!」とか言って、納得をする。そして兄は、そのままA神社に仕えていくのですが、しかし、どうしても、父のことが気になる。「自分は本当に正しいのか。自分は、このままでいいのか」、そのような思いを持ちながら、劇は終わっていくのであります。
 念のため申し上げておきますが、あくまでもこれは、青年たちが即興で作った劇でありまして、実在するA神社とは、何の関係もありません。
 私、その劇を見て、「この譬え話の主旨を的確に捉えている」と思いました。兄息子は、なぜ、怒ったのか。また、何に対して、腹を立てたのか。もちろん彼は、弟にも腹を立てたと思うのです。父の財産を無駄使いして、のこのこ帰ってきた弟。その弟にも、兄は、腹を立てた。しかし、ここまで怒っているのは、その弟を赦してしまった父に対してなのです。納得がいかないのです。父の愛(この父は、神様を譬えていますので、)神様の愛に、納得がいかない。父は言いました。「祝宴を開いて、楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」、父にとって、息子が見つかったことを喜ぶのは、「当たり前」、赦すのも、「当たり前」。しかし、兄は、この「当たり前」に、つまずいた。「納得がいかない。こんな、理不尽なことはない!」。
 
 書き写した本と書いて、「写本」と呼ばれるものがあります。昔は、印刷技術がありませんでしたので、聖書も、人の手で書き写されて、伝えられていきました。そして私たちが手にしている聖書は、学者たちが研究をして、一番古い写本(つまり、元に一番近いであろう、と思われるもの)を翻訳しています。しかし世界には、たくさんの写本がありまして、もちろん、大事なところは、ほとんど差がないのですが、ところどころ、小さな違いがあるのです。そしてその違いは、当時の人たちが、「聖書を解釈した」、その結果、生まれた違いではないか、と考えられている。
 このイエス様の譬え話。この兄のセリフなのですが、ある写本では、少しだけ違う言葉が使われています。二九節の言葉なのですが、私たちの聖書ではこうなっています。
 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
 この「宴会をする」という言葉なのですが、ある写本では、「朝食のために」となっているのです。「友達との朝食のために、あなたはわたしに、子山羊一匹すらくれなかった」。私、それを知って、最初に思ったのは、「この兄は、朝っぱらから、友だちを呼んで、子山羊を屠って食べたいのか」ということです。「そんなことをしたら、さぞかし胃がもたれるに違いない」。しかし、どうも、そういうことではなさそうで、「あの弟息子に比べれば、わたしは、朝から、子山羊を食べる資格があるはずだ。お父さん、わたしは、そのぐらい、あなたに忠実に仕えてきました!」、どうも、そういう解釈をした時代があったようなのです。
 なるほど、と思いました。確かにそうでしょう。この兄は、「弟には、その資格がないけど、わたしには、その資格がある」と思っていたのです。「父に愛される資格」です。「父に愛され、報われる資格」。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。そして今日だって、お父さん、畑に行って、土まみれになって働いてきたのです。この手を見てください。土が染みついているこの手が、あなたに、何年も仕えてきた何よりもの証拠です!」。兄は、そう言った。それなのに、この自分には何も与えられず(実際は、そんなことはなかったのですが、少なくても兄は、そう感じていた。自分には何も与えられず)、あのただただ身勝手に生きてきた弟が赦される、なおかつ、子牛まで屠ってもらえる! こう言い換えてもいいのです。兄にしてみると、この父の愛は、「プラスマイナスの勘定が合っていない」のです。自分は、子山羊一匹もらえないのに、あの弟が、赦される。計算が合わない、こんな不公平なことはない、こんな理不尽な愛はない!」。兄は、そう言って、怒った。父の愛、神様の愛に、腹を立てたのです。そして、これは、私たちにもある「思い」なのです。
 恐ろしいことでもあるのですが、私たちも、下手をすると、神様を、「自分たちの計算が合う、辻褄が合う方だ」と考えてしまいます。「わたしは、これだけやったのだから、神様が、これだけ報いてくださるはずだ。あいつは、あんなにひどいことをしたのだから、神様は、それ相応の罰を与えてくださるはずだ」。プラスとマイナス、計算(辻褄)を、神様が合わせてくださる、そして、「そうでなければ、困る」と考えるのです。なぜならば、この世界は、矛盾で満ちているからです。正しい人が、必ずしも、報われるとは限らない。悪い人が、必ずしも罰を受けるとも限らない。だから、神様が、プラスとマイナス、辻褄を、必ずどこかで、合わせてくださる。それがあってこそ、この世界が保たれるし、そしてこの世界で生きる「わたし」も、保たれる。私たちは、下手をすると、そう考える。しかしそれは、青年たちが考えた「怪しげな神主」が語る神様と、それほど変わらないのです。私たちが安易に納得できてしっまう神様は、おっかないのどえす。つまり、それは、「人間が考える辻褄合わせの神様」、「人間が造り出した偶像の神様」なのです。そして、もっと恐ろしいのは、私たちは、「神様が、そのような神様でないと、腹を立ててしまう」ということです。神様が、弟息子のような者を、謝罪もろくに聴かずに赦してしまうと、その神様が許せなくなる。「そのような愛の神様であっては困る」と思う。「愛の神様」では、世界の辻褄が合わなくなるし、その秩序も保てなくなるし、そこで生きる「わたし」も、保っていけなくなる。そこで、私たちは、自分まで否定された思いになり、さらに自分が失われていく恐怖を感じ、その恐怖が、実は、イエス様を十字架につけたのです。
 
 この譬え話。そもそもは、ファリサイ派、そして律法学者たちが、イエス様を批判したことから始まりました。イエス様は、当時、「汚れた者」とされていた徴税人や罪人たちと、一緒に食事をされた。それを見たファリサイ派、律法学者(当時の信仰の指導者たち)が、不平を言ったのです。「この人は、なぜ、あんな連中と食事を共にするのか」。つまるところ、「あんな連中は、一緒に食事をする価値がない。その資格がない。彼らは、愛される資格など、とうの昔に失った連中なのだ」。まさに、ファリサイ派、律法学者たちは、兄の姿そのものであった。そしてやっぱり、彼らも、イエス様の愛につまずいたのです。そして、イエス様が指し示してくださった神様が、そのような愛の御方であると困る、と思った。結果、イエス様を十字架につけていく。イエス様を十字架で無き者にし、「愛の神様」を殺し、自分たちが望む世界の均衡を保った。聖書は語る。「ここに、私たちの罪がある。神様を神様としない、それどころか、自分たちの理想の神、偶像の神様を造る、私たちの罪がある」。
 しかし、神様は、私たちの予想に反して(いや、予想を超えて、私たちの計算式など、木っ端微塵に吹き飛ばした)愛の御方であったのです。弟息子を赦す。謝罪の言葉もほとんど聞かず、憐れみ、赦す。そして、肥えた子牛まで屠る、いや、それどころか、この愛の神様は、ご自分の御子を、私たちの身代わりとして、十字架で屠ってくださったのです。そのようにして、神様は、ご自分のもとへ、ご自分の愛のもとへ、兄を招く、そして、私たちを招く。
 
 最後に、兄を招く父の姿に心をとめて終わりたいのですが。この父親は、祝宴に入ってくることができない兄のもとへ、自ら足を運びます。二八節です。

 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 

 この「なだめる」という言葉は、「かたわらに来て、呼びかける」という言葉です。この言葉の通りです。この父は、兄のすぐそばまで来てくれて、「さあ、中へ入ろう。わたしが開いた愛の祝宴に、あなたも、おいで」と言ってくださる。
 しかしこの時、この兄の心は冷え切っていました。彼は、弟のことを、「弟」とは呼ばないのです。三〇節。

 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。 

 なんて、そらぞらしい言い方、冷たい言い方。「あんなやつは、わたしの弟ではない。あなたの息子かも知れないが、わたしはもう、あいつを兄弟とは認めない」。しかし、父は、まるでその言葉を打ち消すように、こう言うのです。三二節。

 だが、お前のあの弟は、死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。 

 「あの者は、お前の弟ではないか、お前の兄弟ではないか。その兄弟が見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。「当たり前」、この「当たり前」に、父は、兄を招く。この兄も、大事な父の息子。「この愛に、あなたも生きよ!」と招くのです。
 私たちも同じです。私たちに対しても、神様が、ご自分の愛に生きるように、と招いてくださっている。私たちのかたらわらにも、神様が来てくださり、こう呼びかけてくださるのです。「子よ。わたしの子よ。あなたも、わたしの愛に生きよ! 『プラスだ、マイナスだ』と考える愛ではなく、それらの計算式を全部吹っ飛ばして、すべてを赦す、そのわたしの愛に、あなたも、生きよ!」。
 
 青年たちが作った劇は、残念ながら、ハッピーエンドとはいきませんでした。兄は、納得がいかず、家を飛び出して、もやもやした気持ちのまま終わる。しかし、当然ですが、それが、この譬え話のすべての結末ではありません。この結末は、私たちが作る。そして私たちは、青年たちが作った劇の兄とは、別の道を行くのです。私たちは、愛の神様のもとにとどまる。なぜならば、神様が、私たちに、こうも呼びかけてくださっているからです。

 子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 

 私たちは、いつも、神様と一緒にいる。そして、神様のもの、神様からいただいたもの、それらを、全部、自分のもののようにして使うことができる。神様の愛を用いる。神様の愛を、まるでお裾分けをするように、この愛に生きることができる。私たちは、私たちは、神様のもとで生きる息子、また娘なのであります。
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