礼拝説教「迎え入れてもらうために」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第16章1~13節 

 
 
 聖書には、イエス様がなさった譬え話が多く記されています。特に、今私たちが読み進めているルカによる福音書、この福音書には、多く、譬え話が登場するのですが、その数ある譬え話の中で、おそらく、今日、私たちが読む譬え話が、一番、読む人を戸惑わせる、「なんだろう、これは?」と思わせる、そのようなものではないか、と思うのであります。
 私かつて、FEBCというキリスト教ラジオ放送の番組を担当したことがありました。『聖書、読んで、立ち止まる』という番組名で、一年間、番組を担当したのですが、そこでも、今日の譬え話を語ったことがありました。そのとき、このような題をつけました。
 「なんだこりゃ、不正な管理人のたとえ」
ラジオ番組ですので、説教題では、なかなか使わない言葉を、思い切って使わせてもらったのですが、私が初めてここを読んだのは、おそらく、高校生ぐらいの時だったと思います。そのとき、正直、「なんだこりゃ」と思った。イエス様は一体、何をお語りになりたいのか。また、そもそも、こんな話が聖書に載っていていいのか、「なんだこりゃ」と思ったのであります。
 今日は、そのような譬え話をご一緒に読んでいきたいと願います。
 ルカによる福音書第一六章一節から。

 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

 今日の主役は、管理人です。雇われた管理人でありまして、優秀だったのでしょう、主人の財産をすべて任され、その運用を一手に担っていた人がいたのです。しかし、その彼が、無駄使いしているという告げ口があった。
 これは、「財産を、正しく運用し、その結果、損失を出していた」というのではありません。この管理人は、明らかに、主人の財産に手をつけたのです。主人の財産を、自分のために使い、自分の楽しみのために無駄使いしていた。今で言えば、「会社のお金を着服していた」、「業務上横領の罪を犯していた」のです。そのことが、主人の耳に入る。当然、主人は怒ります。管理人を呼びつけ、『お前について聞いていることがある。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』そう言ったのであります。
 そうしましたら、この管理人は、このような行動に出るのです。三節。
 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
ここが、おもしろいところなのですが、この管理人は、主人から、解雇宣告を受けたとき、素直に、主人に謝罪しなかったのです。「ご主人様、すいません。もういたしません! だから、クビだけは勘弁してください」、そうとは言わなかった。もしかしたら、横領してきた額が大きく、もう、謝っても許してもらえないような額だったのかも知れません。この管理人は、「自分は、これで仕事が無くなる。この先どうしよう」と考えたのです。そこで、こういう行動に出る。四節。

 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』

 これは何をしているのか、と申しますと、この管理人は、完全に解雇されるまで、少し時間が与えられた(猶予期間があった)のです。会計の報告を出しなさい。言ってみれば、「引き継ぎのために、帳簿をまとめる時間」が与えられたのです。しかし、この管理人は、その時間を利用して、自分が次に雇ってもらう先を捜す、そのための画策をするのです。この管理人は、主人に借金をしている人たちを、それぞれ呼び出し、こう問うのです。『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』(これは、今で言うと、二千三百リットルだそうです。当時、油は高級品ですから、相当の量、相当の額です)。しかしこの管理人は、(主人の断りなしに、)この借りを、「五〇バトス」、半分にしてあげる。「小麦一〇〇コロス」(今で言う二万三千リットル)、これも、勝手に、八〇コロスにまけてあげる。このようにして、「貸し」を作る、恩を売っていく。しかも、おもしろいのは、この管理人は、わざわざ最初に、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と聞くのです。これは本当は、聞く必要がないのです。ちゃんと証文に書いてある。でも、わざわざ聞いて、「あなたは、こんなに借金がある。それを、わたしの裁量で、まけてやるんだぞ」、そう念を押す。そして、「この恩を、忘れるな」と言って、自分が解雇されたあと、どこかで雇ってもらえるように、画策をするのであります。
 もちろん、この管理人が取った行動は、すべて、不正です。いくら管理人だからと言って、主人が貸しているものを、勝手に免除してはいけない。しかも彼は、実質、もう、解任されているわけですから、なおさら、そんな権限はない。しかし彼は、自分の再就職先を確保するために、このような知恵を働かせた。そして主人に、さらなる損害をもたらしたのです。
 「なんだこりゃ」と思います。「こんな犯罪行為を、なぜ、イエス様はお語りになったのか」、そうも思います。しかし、(もっと、「なんだこりゃ」と思うのは、このあとなのです)八節。

 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。

 「主人はこのことを知って、怒って、彼を、警察に引き渡した」というのではないのです。「彼のやり方をほめた」(もちろん、「ほめた」からと言って、彼を許し、彼を、もう一度、管理人として雇ったとまでは書いてないのですが、)この「ほめる」という言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、「賛美する」という言葉。主人は、彼のやり方を賛美した、「すばらしい!」と言った。私たちは戸惑う、「一体、これは何だろうか」。
 
 私が、奈良に来る前の年ですが、東海教区の青年修養会、その講師に招かれたことがありました。長野、山梨、静岡の青年たちが一堂に集まりまして、聖書の学びをする。そこに、講師として来ていただけないか、と言われたのです。
 その修養会、青年たちから、あらかじめ、リクエストがありました。それは、「この『不正な管理人の譬え話』を、みんなで読みたい」というものだったのです。青年たちは、このような言い方をしました。「聖書を読んでいって、一番、スッキリしない箇所がある。それが、この譬え話。だから、ここをみんなで読んで、スッキリしたい! 私たちが、スッキリするように、不正な管理人の譬え話を語ってください」。
 私、それを聴きまして、「聖書を読んで、モヤモヤするのも、大事ですよ」と答えたのですが、「是非」と言われて、山中湖の宿泊施設まで出掛けて行きました。泊まりがけの修養会でしたので、時間は、たっぷりありました。そして、グループに分かれて、じっくり読んでいただいた。そしてその時、私が、まずお願いしたのが、「前の章との『つながり』を見つけてほしい」というものであったのです。
 この一つ前の章、第一五章には、三つの譬え話が出てきます。「見失った羊の譬え」、「無くした銀貨の譬え」、そして「放蕩息子の譬え」。そして実は、この管理人の譬え話は、それら三つの譬え話の続きなのです。第一六章一節に、こう記されている。

 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。

 先の第一五章は、イエス様が、(直接は)ファリサイ派、そして律法学者たちに語られたものでした。(イエス様は、罪人たちと一緒に食事をしておられた。それを見たファリサイ派の人たちが、「なんで、あんな連中と食事をするのか」と不平を言った。それに対してイエス様は、三つの譬え話をなさった。そしてこの第一六章に入ってきて、イエス様は、今度は、弟子たちにも、この管理人の譬え話をなさる。)
 こういう光景を、想像してもいいのです。イエス様は、ファリサイ派の人たちに、あの三つの譬え話をなさった。それを弟子たちは、イエス様の横か、うしろで聞いていた。そしてきっと、「そうだ、そうだ」と心の中で思っていたのです。「そうだ、そうだ、ファリサイ派の人たちよ、これは、あなたがたが、聴くべき言葉だ。しっかり胸に刻みなさい」、そういう思いで聞いていた。また、イエス様が、見事に、ファリサイ派の人たちの罪を指摘なさるので、胸がすく思いで、聞いていた。しかしここで、イエス様が、振り返られたのです。弟子たちの心を見透かすようにして、「わたしの弟子たちよ。あなたがたにも、同じことが言えるのだ」、そう言って、この管理人の譬え話をしてくださった。つまり、この管理人の譬え話は、先の三つの譬え話の続きで、内容としても、つながっている。ならば、そのつながりとは、何か?
 青年たちは、ちゃんと見つけてくれました。それは、「失われる」ということなのです。
「見失った羊の譬」、一〇〇匹いた羊のうち、一匹が失われました。「無くした銀貨の譬え」、一〇枚あった銀貨のうち、一枚が失われた。そして、「放蕩息子の譬え」、兄弟のうち、弟息子が父のもとから失われた。そして、この「不正な管理人の譬え」、この管理人も、今、主人のもとから、失われそうになっているのです。(もちろん、彼の場合は、自分が悪い、身から出た錆なのですが、今、失われそうになっていることには、なんら変わりがない。)そして同時に、みな、「失われたものが、見つかる」。(失われたものの側からすると)「見つけてもらう、その喜び」が、それぞれ語られているのです。
 こう言い換えてもいいのです。この管理人は、何に、必死になっていたのだろうか。それは、「自分を見つけてもらう、自分を受け入れてもらう」ことです。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。この管理人は、そう言って、自分を迎え入れてもらうために、必死に知恵を働かせ、またその行動に出る。主人は、それを評価する。褒めて、賛美する。そしてイエス様は、言われるのです。「わたしの弟子たちよ。あなたがたも、自分が失われる、その怖さが分かっているか。そして、自分が受け入れてもらう(迎え入れてもらう)、そのために、この管理人のように、必死になっているか」。
 八節の後半で、イエス様は、このようなこともお語りになります。

 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

 ここで言う「光の子ら」というのは、弟子たちのことです、また私たちのことです。それに対して、「この世の子ら」というのは、「神様を無視し、この世のことを『すべて』として生きている人」のことを指しています。(もちろん、イエス様は、そのような人たちを神様に導きたい、と願っておられるのですが、しかしここでは、)「この世の子ら」と「光の子ら」を比べて、「この世の子らのほうが、かえって、『自分が失われる』怖さを知っているではないか。そして、『自分を、迎え入れてもらう』ために、必死になっているではないか。光の子ら、わたしの弟子たちよ、あなたがたは、どうなのか。あなたがたも、『自分を、迎え入れてもらう』ために、どれだけ、必死になっているか」。そして、(ここが肝心なのですが)、光の子ら(私たちの場合)、迎え入れてもらう先は、「永遠の住まい」なのです。九節。

 あなたがたは、永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 「永遠の住まい」、神様のもとに、受け入れていただくために、私たちは、必死になる。イエス様は、そのことを求めておられる。
どうだろうか、と思います。私たちが案外、気にするのは、「自分が、どれだけ、イエス様を受け入れているか」ということです。「自分は、こんなに、イエス様を受け入れている。自分は、ちゃんとイエス様を迎え入れている」、そのことで、何か安心し、また逆に、「まだまだ、自分にはそれが足りない」、そう言って、不安になる。もちろん、それも、信仰の大事な一面なのですが、もっと大事なのは、「神様が、私たちを、受け入れてくださるかどうか」なのです。神様が、私たちを、受け入れてくださる、迎え入れてくださる。そうでなければ、私たちは失われてしまう、永遠に失われてしまう。だから、迎え入れていただけるように、私たちも、この管理人のように、知恵を尽くす、持てる力をすべて使って、必死になる。
 じゃあ、具体的に、何をすればいいのか。何に、必死になればいいのか。
 
 先の章の、三つめの譬え話、放蕩息子の譬え話。あの譬え話と、この管理人の譬え話には、実は、もう一つ、共通点があります。それは、何か、と申しますと、「財産」なのです。父親から、財産を分けてもらい、遠い地で、それを全部、使い果たしてしまった弟息子。そして、「わたしには、ちっとも分け前がない」と不平を言った兄息子。(その兄息子に、父親は、「わたしのものは、全部おまえのものだ」と言ってくれる。)そしてこの不正な管理人も、主人の財産に手をつけ、そして自分が生き延びるために、やっぱり主人の財産を利用する。それぞれ違いはありますがみな、「財産」と関わっているのです。(しかも、みんな、父親や主人の財産ですから、自分のものではない財産)。そしてその財産を、自分が、迎え入れてもらうために使った管理人が、褒められているのです。
 言ってみれば、イエス様はここで、「財産の使い道」の話をなさっているのです。ここで言う「財産」というのは、お金だけの話ではありません。譬え話の父親や主人は、明らかに、神様を表している。神様からいただける財産、それは、私たちの能力であったり、時間であったり、また健康であったりする。私たちは、たくさんの財産を、神様からいただき、その財産を用いて、毎日を生きている。それらを、何のために使うのか。弟息子のように、ただただ遊びで浪費するのか。また兄息子のように、たくさんの財産が与えられているのに、「自分には、何も与えてもらえない」と、すねるだけなのか。イエス様は言われる。「そうではない。この管理人のように、自分を、迎え入れてもらうために、永遠の住まい、神様に、迎え入れてもらうために、その財産を使いなさい」。
 そして、どのような「使い道」が、永遠の住まいにつながるのか、と申しますと、イエス様は、九節で、こうお語りになる。

 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。

ここも、少々びっくりするような言い回しですが、この「不正にまみれた富」というのは、富そのもの性質を語っています。つまり、「きれいな富」と「不正にまみれた富」という、二種類の富があるのではなく、「富というのは、どうしたって、不正にまみれてしまう。誘惑がつきまとい、私たちを、簡単に神様から引き離す」、イエス様はそのようなことを、おっしゃりたいのです。(富については、次回の説教で、もう一度、心に留めていきたい、と思っていますが)しかしだからと言って、イエス様は、「その富を、すべて手放しなさい」とは言われない。「富には、誘惑がつきものだから、それらを捨てて、隠遁生活を送りなさい」とも言われない。イエス様が求めておられることは、その「富」を用いるのです。不正にまみれた富で、友達を作りなさい。友達、隣人のために、それらを存分に使う。これも、お金だけの話ではありません。神様から与えられている富、自分の能力、自分の時間、そして自分の健康(体)を使って、隣人に尽くす、誰かを愛する。神様は言われる、「そのために、わたしは、多くの富を、あなたがたに任せているのだ。その富を、隣人のために存分に使いなさい」。
 しかも、この九節、イエス様は、非常に不思議な言い方をなさっています。

 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 富を使って友達を作り、その富が無くなったとき、その友達が、受け入れてくれる、というのではないのです。「貸し」を作っておけば、友達が、困ったとき、何とかしてくれる、そのような話ではない。隣人のために富を用いていく結果、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」、つまり、神様が、受け入れてくださるのです。
 もし仮に、もし仮に、私たちが、隣人のために、富をすべて使い果たしたとしても(お金だけではなく、この時間も、健康も、誰かを愛するために、すべて使い尽くしたとしても)永遠の住まい(神様)が、あなたを迎え入れてくださる!
 
 私たちは、私たちのために、すべてを使い尽くしてくださった方を知っています。ご自分の命までも、使い尽くし、それも、敵であった私たちのために使い尽くしてくださった、その方を知っている。いや、知っているどころか、私たちは、その方と結びつき、その方から、「愛に生きる力」までいただいているのです。
 これこそ、「財産」でありましょう。私たちが、イエス様と結びつき、イエス様からいただける信仰、そして、イエス様からいただける愛。これこそ、私たちの財産。その「財産」を、私たちは用いる。友のために用いる。そのようにして、私たちも、永遠の住まいに迎え入れていただくのであります。
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