礼拝説教「ラザロと金持ち」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第16章19~31節

 
 「名前に意味を込める」というのは、私たちの国のいい習慣だと思います。例えば、私の名前は、「たくみ」と言うのですが、私の名前は、讃美歌から取られました。イエス様は、大工ヨセフの家でお育ちになった。そのことを歌った讃美歌がありまして、「主は、まずしく低き、たくみとして(大工として)、若き日を過ごされた」、そこから、私の名前は取られたのであります。ですから、私の名前の意味は、言ってみれば、「大工」なのであります。
 ただ、(これは、牧師になってから気がついたのですが)私たちが歌う讃美歌、「たくみ」という言葉が、別の意味でも出てくる。むしろ、そちらの方が多いのではないか、と思っているのですが、それは、どこかと申しますと、「あくまのたくみ」なのです。「主、ともにいませば、あくまのたくみ、などかはおそれん」(神様が共にいてくださるから、どんなに悪魔が巧妙で、たくみでも、私たちは負けない!」、そういう意味で、「たくみ」という言葉が出てくる。私は、つい、そのような部分が出てくると、「ごにょごにょ」と歌ってしまうのであります。
 そのように、私たちの国では、名前に意味を込める。そして実は、聖書の世界も同じでありまして、おもしろいのですが、ヨーロッパで書かれた聖書の解説書を読んでいますと、時々、このような記述に出会うのです。
 「聖書の世界では、名前に意味を込める。これは、今でも、東洋で、見られる習慣である」。
 ヨーロッパでは、多くの人たちが、聖書の登場人物を、そのまま子どもの名前にします。もちろんそこにも、親の願いが込められているのでしょうが、私たちの国ほど、意味は多彩ではない。そこで、ヨーロッパの聖書の学者たちは、「名前に意味を込める」、そのような東洋の文化に驚きを持ちながら、「聖書も同じなのだ」と解説するのであります。
 今日、私たちが読んでいくイエス様の譬え話。この譬え話にも、名前を持つ人が登場します。その名は、「ラザロ」。私たちは、今日、そのラザロの譬え話を、ご一緒に読んでいきたいと願うのであります。ルカによる福音書第一六章一九節から。

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

 イエス様は、二人の対照的な人を登場させます。一人は、「金持ち」、しかも、そんじょそこらの金持ちではなく、度を超えた金持ち。それを表す言葉が、「いつも紫の衣を着ていた」という言葉なのです。この「紫の衣」というのは、当時、最高級品だったそうです。地中海にいる「アッキガイ」という貝が出す分泌物で、布を染める。すると、非常に鮮やかな紫色になるそうです。しかし、(貝の分泌物ですので、)大変手間がかかるのです。そのため、紫色の布は、おもに王様に献上された。そしてそこから、「ロイヤル・パープル」という呼び名も生まれたそうであります。ちなみに、その布のために、アッキガイが乱獲され、取れなくなり、段々、紫色の布が作れなくなってしまった。そこから、似た色として、濃い青色が使われ、それが、「ロイヤル・ブルー」の始まりとなったそうです。ですから、そのぐらいの贅沢な服を、この金持ちは、いつも身に着けていた。そして毎日、豪華な食事をして、遊んで暮らしていた、というのです。
 一方、その人の家の前に、いつも、横たわっていた人がいました。これが、「ラザロ」です。彼は、気の毒なことに、体中にできものができる病気を患っていて、犬が、そのできものをなめていました。この「犬」は、不衛生な野良犬のことでありまして、本来近寄らせてはいけない動物だったのですが、ラザロには、犬を追い払う力が残っていなかった。病気のため、動くことすら困難だったのであります。そしてそのラザロは、金持ちの食卓から落ちる食べ物で、腹を満たしたい、と思いながら、生きていた、というのであります。
 そして、ラザロも、また金持ちも、やがてこの世の人生を終えていく。二二節。

 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
「アブラハム」というのは、イスラエルの始まりとなった人です。「イスラエルの民族の父」と言ってもいい。ラザロは、死んだあと、そのアブラハムのすぐそばに、連れて行ってもらった、というのです。そして、アブラハムのすぐそば、食卓の特等席に、ラザロは座らせていただく。
 一方、金持ちは、陰府で苦しんでいた、炎の中で、もだえ苦しんでいたのです。つまり、二人の境遇は、ひっくり返ってしまった。そこで、金持ちは、天にいるアブラハムに向かって叫ぶのです。「父よ、わたしを憐れんでください。ラザロを遣わし、この舌を冷やしてください」。すると、アブラハムは答える。二五節。

 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

 私、昔、この譬え話を、紙芝居で見たことがあります。その紙芝居は、手作りでありまして、また上手に作ってあって、それだけに、なかなか怖い紙芝居でした。そしてその紙芝居、手が込んでいまして、裏から引っ張ると、登場人物が、ちょこちょこ動くのです。ラザロのできものをなめる犬や、炎の中で苦しむ金持ちが、ちょこちょこ動く。特に、陰府で苦しむ金持ちの姿が、なまなましくて、なんだか怖かったことを覚えています。私たちは思います。「この譬え話は、何だろうか。随分、怖い譬え話。子どもだったら、おびえてしまうような譬え話。イエス様は、この譬え話を通して、何をお語りになりたかったのだろうか」。
 聖書を研究している学者たちは、この譬え話について、このようにコメントしています。「当時、イエス様がおられたイスラエル、また近くの他の地域でも、これとよく似た話が、たくさんあった。貧しい人と、金持ちがいて、その二人が死ぬと、立場が入れ替わる。貧しい人は、天で報われ、金持ちは、陰府で苦しむ」。学者たちは言うのです。「イエス様は、当時よくあった、そのような話を、題材とされた(つまり、人々が理解しやすいように、登場人物、また舞台設定を、そのまま使って、お語りになった。)」。
 「なるほど」と思います。私たちもこの譬え話を読むとき、気をつけなければいけないのは、「これは、譬え話だ」ということであります。イエス様はここで、「私たちが、死んだら、どうなるか」という話をしておられるのではない。題材や舞台設定はそうなのかも知れませんが、イエス様は、この話を通し、「私たちの死後の世界」を描いみせてくださったのではない。あくまでも、これは、「譬え話」なのです。
 そしてその上で、学者たちは、こう言うのです。「しかし、当時、よくある話と比べると、明らかな違いがある。当時よくある話は、『正しい人が、天国に行く。正しい人は、必ずいつか報われる』、そのような話だった。しかし、イエス様の譬え話には、それがない」。
 確かに、そうなのです。なぜ、ラザロは、アブラハムのすぐそばに連れて行ってもらえたのか。「ラザロが、特別、信仰深かった」とか、また、「ラザロが、誰よりも、心が清い人だった」とは、言われていない。ラザロが、病気だったことは語られていますが、それ以上のことは、何も語られていないのです。ならば、なぜ、ラザロは、アブラハムのすぐそばへ連れて行ってもらえたのか。
 そして、(これも、この譬え話の際立った特徴なのですが)イエス様は、この貧しい人に、名前をつけておられるのです。「彼の名は、ラザロ、アブラハムの胸のそばへ連れて行ってもらったのは、ラザロ!」。
 お気づきでしょうか。イエス様は、多くの譬え話をなさいました。しかし、イエス様が、譬え話の登場人物に名前をつけておられるのは、このラザロだけなのです。善いサマリア人も、放蕩息子も、不正な管理人も、皆、非常に特徴的な人たちですが、だれ一人、名前を持っていない。そして、この譬え話に出てくる「金持ち」にも、名前はついていないのです。しかし、ラザロだけは、違う。ラザロだけは、名前を持った人物。そして、この「ラザロ」という名前には、ちゃんと意味がありまして、「ラザロ」、ヘブライ語では、「エレアザル」、その意味は、「神は、助ける」というものなのです。
 「エレアザル、神は、助ける」のです。そして実際、、神様が、ラザロを助けてくださった。病で苦しみ、食べるものにさえ困り、そして、野良犬が来ても、動くことができなかったラザロ。そのラザロを、神様が、助けてくださった。神様が、助け、アブラハムのすぐそばに連れて行ってくださった。なぜ、ラザロが? その理由は、一つだけ、「神様が、助けてくださった」からなのです。
 一方、金持ちは、どうだったのか。彼は、毎日のぜいたくな暮らしのゆえに、「神様の助け」が見えなかったのです。(ホントウは、彼も助けられていたのです。神様の助けなしてには、誰一人、生きられないのです。)しかし、この金持ちは、「神様の助け」を見ないで、生きた。また、求めずに生きた。そして死んだあと、陰府において初めて、彼は、神様の助けを、呼び求めているのです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」。
 「神の助け」、まずは、このことを語っている譬え話なのです。
 
 ラザロの譬え話。私の本棚を調べましたら、ここに関する本が、たくさん出てきました。聖書の解説書、教会で語られてきた説教、そしてまた神学者の考察。この譬え話が、いかに、教会の歴史の中で大事にされてきたか。そして教会が、この譬え話と真剣に向き合ってきたか、その証しだと思いました。そして多くの牧師や神学者たちは、ここから、「貧しい者への配慮」、そして、「貧しい者への支援」ということを、聴き取っていました。つまり、「私たちの家の門の前にも、ラザロはいるだろう」と語るのです。「私たちの家の門の前にも、ラザロはいるだろう。私たちの町の門の前にも、そして、私たちの国の門の前にも、たくさんのラザロがいる」。
 そしてある説教者は、「この譬え話は、私たちへの警告だ」と言って、このように語るのです。
 「主イエスの語られたこの物語は、けっして富んでいる者はすべて機械的に死後苦しみ、貧しい者も機械的に死後は楽ができるのだ、といおうとしているのではないのです。むしろ自分の生前の生き方が(富を所有していた自分が、その富をもってどういうふうに生きたかという生きざまが)問われて(いるのです。)」。そしてこう語る。
 「(この金持ちは)ありあまる富を自分の生活を豊かにすることにばかり用いて、ほんの一部でさえも貧しい者のために使おうとはしませんでした。そういう生きざまについて彼は責任を問われるのです」。
 
 この金持ち、アブラハムから、こう言われています。
 「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に、良いものをもらっていた」。
 彼が持っていた財産。それは、「もらっていたもの」なのです。誰から。神様からです。その意味で、神様は、彼も助けていた。毎日食事ができるように、着るものに不自由しないように、そして、生活ができるように、神様は、この金持ちも助け続けてくださった。しかし、この金持ちは、その助けを感じることなく、また、「その一部を、ラザロのために使おう」という思いは生まれなかった。
 言い訳は、色々できるのです。「父アブラハムよ。そうは言っても、わたしは、あのラザロを、自分の家の前にいることを、許していたのです。ラザロを、追い払うことはせず、たまに、食卓から落ちるパンを、彼が食べることを許可していた。おかげで、彼は、食いつなげたではありませんか!」。それは、そうかも知れない。もしかしたら、私たちよりも、この金持ちの方が、心が広いのかも知れない。しかし、神が助けるラザロを、彼は、助けなかった。神が憐れむラザロを、彼は、憐れまなかった。彼自身、神様から、たくさん助けていただいていたのに、良いものを、有り余るほど、いただいていたのに、(ここでいう「良いもの」は、お金だけではありません。毎日遊んで暮らせるだけの健康、また時間も、彼には有り余っていた。健康や時間も、神様から与えられた「良いもの」であった)にもかかわらず、彼は、それを、自分を楽しませるためだけに、用い続けたのです。
 
 この譬え話、もう「ひと展開」あります。金持ちは、アブラハムにこう言うのです。二七節。

 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 ここも、おもしろいところなのですが、この金持ちは、どうも、六人兄弟だったようです。そしてまだ、自分を除いて、五人の兄弟が生きている。「だから、父アブラハムよ、お願いです。その兄弟たちが、自分と同じ場所に来ないように、ラザロを遣わし、その兄弟たちをさとしてほしい」。この金持ちは、そう頼むのです。すると、アブラハムは、
 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
 「モーセと預言者」というのは、旧約聖書のことです。アブラハムは、「旧約聖書があるではないか。神様の言葉、神様の掟、それを聴けば、おのずと、何をして生きればいいのか、それが分かるはずだ」と言う。しかし金持ちは、
 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
金持ちは、神様の掟を否定しているのではないのですが、「彼らは、ただ聞くだけでは、生き方を変えないだろう」と言うのです。「現にわたしが、そうだった」ということでしょう。「わたしも、生前、神の掟を、何度も聴いた。けれども、それで心が動き、そこで生き方を変えようとは思わなかった。だから、ラザロを遣わしてほしい」、そう頼む。しかし、アブラハムは、
 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
なんとなく、後味の悪い終わり方です。もう、すべてが手遅れ、この金持ちだけではなく、他の兄弟たちも、結局、救われない。そのような印象さえ受けてしまいます。確かに、この譬え話は、ここで終わります。ある意味、後味が悪いまま、終わる。しかし、「譬え話は、ここで終わっても、実際は違った」ということを、私たちはよく知っているのであります。まことの天の父なる神様が、イエス様を、死者の中から生き返らせてくださった。そして、私たちのもとへ、遣わしてくださった。
 イエス様は、すべての富、すべての力を、父なる神様からいただいた神の御子です。「ロイヤル・パープル」、本来ならば、その紫の衣が最もふさわしいのは、イエス様だった。しかし、イエス様は、貧しく、低い者として生まれ、そして、ご自分の持っているものを、すべて、私たちのために、ささげてくださったのです。「ご自分の持っているもの」、最も貴い財産、そのお体、その命までをも、イエス様は、私たち、貧しい罪人たちのために、惜しげもなく、差し出してくださったのです。
 モーセと預言者に耳を傾ける。本来、神様の言葉、神様の掟があれば、それで、充分だったのです。しかし、それでは変わらない、それを聞くだけでは、生き方を変えようとしない、それが、私たちの罪人だった。「良いもの」をもらえば、自分を楽しませることにしか使わない。門の前のラザロを、ただ横目で見て、いつのまにか、それを風景の一部にする。ラザロを見ても、ラザロの話を聞いても、心も動かないし、まして体は動かない。私たちは、そういう罪人。心が冷たく、心が冷え固まってしまった罪人。しかし、イエス様が来てくださり、私たちのためにすべてを差し出してくださり、そして、私たちの冷えた罪の心を、徐々に、徐々に溶かし始めてくださったのです。そして今日も、イエス様は、私たちのところに来て、御言によって、聖餐によって、私たちの心を溶かす。
 イエス様は、私たちの心に、そして体に入ってきて、そしてこう言われる。「あなたも、愛に生きよ。わたしが、あなたを愛し助けたように、あなたも、だれかを愛し、だれかを助ける者になりなさい」。
 
 金持ちは言いました。

 「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。」

 私たちが行うこと、また私たちができること、それは、「指先に水を浸し、一滴、助けを求めている人の舌の上に垂らす」、ただそれだけでありましょう。しかし、それだって、立派な「助け」なのです。「神様が助ける」、その一部を、私たちも、そこで、担わせていただいているのです。そして、その私たちの愛の一滴、一滴を、神様がやがて、大きな川としてくださる。そして大きな海としてくださる。私たちも、神様、そしてイエス様の愛の御国に生きるのであります。
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