礼拝説教「ムナの譬え話」 牧師 鷹澤 匠
ルカによる福音書 第19章11~27節
来週の月曜日、あるミッションスクールから頼まれまして、礼拝説教に出掛けてきます。これは、私にとっても思いがけない依頼でありまして、来週、宗教ウィークだそうです。そこで私だけではなく、日替わりで三人の牧師たちが聖書の話をする。私はそのトップバッターだそうです。
ただその依頼、なかなかハードでありまして、まず、「四〇分、説教をしてほしい」と言われました。私いつも、何分ぐらいでしょうか。意識したことはありませんが、おそらく四〇分はしていないと思います。それもその日、初めて会う高校生たちに、四〇分聖書の話をする。なかなか、大変だと思いました。そして、それに加えてこう頼まれました。「聞くところによると、先生は、カードゲームを作ったとのこと。そのカードゲームを作ったことも、話に入れてほしい」。すでにご存知の方もおられると思いますが、私、数年前、友人の牧師と二人で、聖書を題材に使ったカードゲームを作った。そしてそれを自らキリスト教系の出版社に持ち込んで、製品にしてもらったのです。どうも、そのゲームを通して私の名前を知ったようで、「ゲームの話も、説教の中でしてほしい」と言われたのです。いや、なかなか大変な依頼だなと思っておりましたら、さらにまた注文がつきまして、今年の宗教ウィーク、テーマが、イエス様の譬え話だそうなのです。「ですから、先生、四〇分の説教で、その中でゲームの話をしつつ、イエス様の譬え話を説いてください」。そのように言われたのであります。そして、あらかじめ、聖書の箇所を決めて、先方に伝えなければならない。そこで、ほとんど見通しが立っていないまま、マタイによる福音書の「タラントンの譬え話」を、私選んで伝えたのであります。
「タラントンの譬え話」。今日、私たちの礼拝の御言、「ムナの譬え話」と非常によく似ています。主人が旅に出ることになった。その際、しもべたちを呼んで、自分の財産を託す。そして主人の留守中、しもべたちが、どのような行動をとったか、そして主人が帰ってきてから、主人がそれをどう評価したか。タラントンの譬え話も、ムナの譬え話も、そのようなあらすじなのであります。
しかし、私、今回、ミッションスクールの説教の準備と、今日の礼拝の説教の準備を並行して進めていくうちに、この二つの譬え話、設定は同じでも、中身は大分違うということに気がつきました。私は最初、「イエス様がなさった譬え話を、マタイとルカが、それぞれ違った視点で捉えたのかな」と思っていたのですが、どうもそうではない。イエス様が同じ設定で、別々の譬え話を語ってくださった、そのように考えてもいい2つの譬え話だと思いました。
今日は、ムナの譬え話を、ご一緒に読んでみたいと願います。ルカによる福音書第一九章一一節からです。
人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
これは、当時よくあったケースが、モデルになっているようです。ある立派な家柄の人、いわゆるその土地の名士が、王の位を受けるために、遠い国へ旅立っていく。ユダヤならばユダヤの名士が、ローマまで行って、ローマ皇帝にその位をいただく。しかしその旅は、時間がかかるものだったそうです。ローマまで往復するのも何日もかかりますし、ローマに着いからも、すぐに皇帝に会えるとは限らなかった。何日も(場合によっては、何ヶ月、何年も)ローマで待たされた。そのため主人は、しもべたちにお金を渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言ったのです。ただ、ムナの譬え話では、一〇人に一〇ムナ、つまり、一人、一ムナずつ渡して、主人は旅に出る。
ここが、マタイのタラントンの譬え話と違うところです。マタイでは、しもべたちの能力に応じて、違う額を主人が渡すのです。「ある者は、五タラントン、ある者は、二タラントン、ある者は、一タラントン」。しかし、ルカでは、全員一ムナ。また、ムナとタラントン、お金の額も違いまして、一タラントンは、今で言う五千万円ぐらいだと言われています。非常に高額です。それに比べて、一ムナは、せいぜい一〇〇万円ぐらい。それだけのお金を主人はしもべたちに託していく。そして、一四節。
しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
ここも、マタイにはない部分です。ルカでは、不穏な動きも起こる。この名士を憎んでいた人たちがいた。その人たちが、使者を送り、「この人を王様にしないでほしい」という嘆願を出す。しかし主人は、無事、王の位を受けて帰ってくるのです。一五節。
さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
このように、主人は、それぞれ儲けを出したしもべたちを褒める。しかし、二〇節。
また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
ここに出てくる「布」というのは、首に巻く布、今で言えば、スカーフだそうです。ただ、当時のスカーフは、私たちが想像する今のスカーフよりも、厚手の布で、おしゃれと言うよりも、日焼けから身を守るために、使っていたそうです。このしもべは、主人のムナを、その布に包んで、取っておいた。すると、主人は、烈火のごとく怒るのです。
主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
この譬え話は、何だろうか。イエス様は、この譬えを通して、私たちに何をお語りになっているのだろうか。
この旅に出る主人、この主人は明らかに、イエス様を指しています。そしてしもべたちは、弟子たち、教会、つまり私たちです。一一節で、「エルサレムに近づいておられ」とあるように、この時弟子たちの中では、「イエス様がすぐにでも王様になる」という期待が高まっていました。確かに、イエス様は、王様であり、また神様から王の位をお受けになるのですが、しかし、それは、このとき弟子たちが期待していた形とは違う。弟子たちは、「イエス様がエルサレムに入り、すぐにでも、ローマ軍を追い払い、王になってくださる」と期待していた。しかしイエス様は、十字架におかかりになる。そして、およみがえりの命となり、天に昇り、やがて再び世に来てくださる。しかしそれは、「今すぐ」というわけではないのです。ちょうど、譬え話の主人が旅に出て、しばらく帰ってこないように、弟子たちも待たなければいけない。しかしその待っている弟子たちに、つまり私たちに、イエス様は、ムナを託してくださったのです。ならば、そのムナとは何か?
調べていて、おもしろいと思ったのですが、マタイのタラントンの譬え話から、誰もがよく知る一つの言葉が生まれました。それは、「タレント」という言葉です。私たちがよく使うのは、「テレビタレント」という言葉ではないかと思いますが、辞書を引くと、「才能」という意味が出てきます。そしてこの「才能、タレント」という言葉は、イエス様の譬え話がはじまりだったのであります。
「タラントン」というのは、ただのお金の単位です。しかし、あの譬え話を人々が解釈した。「あそこに出てくるタラントン、それは、才能を意味する。イエス様は、それぞれが、自分に与えられた才能を用いることを求めておられる」、人々はそのように、あの譬え話を読み、その解釈が、そのまま、「タレント」という言葉になったそうであります。(聖書の言葉が、そのまま一般的な言葉になった例は幾つもありますが、タレントの場合、聖書の解釈が言葉になった。とてもユニークな例ではないかと思うのであります。)
しかし、タラントンまたはムナを、必ずしも、「才能」と考える必要はないのです。特にムナの譬え話では、みな平等に一ムナずつ与えられているわけですから、イエス様は、才能の話をしているのではない。ならば、ますます、「ムナとは、なんだろう」ということになる。
そこで、教会はこう考えてきた。「ここで、語られているムナは、聖書の言葉、御言のことではないか。イエス様は、弟子たち(教会)に、御言を託された。そして、『それを使って商売をする』というのは、御言を宣べ伝えること。イエス様は、教会が御言を宣べ伝えることを望んでおられる」。
なるほどと思います。確かに、教会が持っているもの、それは、聖書の言葉、御言であります。それこそが、教会の宝であり、財産。私たちは、その財産を、布に包んで、後生大事にしまっておくのではなく、その言葉を伝える。外に出て行って、宣べ伝える、それが、しもべたち、教会に託された使命。
私が最初に赴任した静岡の教会に、Fさんという七〇代のご婦人がおられました。私が赴任する前、その教会には牧師がおらず、そのFさんが、教会の扉を開け、お掃除をし、近隣の教会の牧師たちに助けてもらいながら、礼拝を守っていました。しかし、礼拝の出席が、三人、四人となり、近隣の教会の牧師たちは、「もう限界ではないか。近くの教会と一緒になったら、どうか。(「近い」と言っても、バスで、一時間かかるのですが)それでも、教会を一度、閉めたら、どうだろうか」。そのような話が出たそうです。しかし、Fさんは、一人、反対をされた。そして、牧師たちにこう言っておられたそうです。「この教会を閉じてはいけません。ここを閉じたら、この地域に住む人たちは、神様の言葉を聴くその機会すら失ってしまうのです。この地域で、まことの神の言葉を聴くことができるのは、ここだけなのです」。
その言葉に、牧師たちも胸を打たれた。そして、神学校に牧師を依頼し、赴任したのが、私だったのであります。
ただ、残念なことに、私、そのFさんとはお会いすることはできませんでした。私が赴任する二ヶ月前に、Fさんは、急性のガンでお亡くなりになった。けれども、私、直接、Fさんとはお会いできませんでしたが、残された教会の方々の中に、Fさんの祈りは引き継がれていました。「まことの神の言葉を聴くことができるのは、ここだけ」。その祈りのもと、私も含めて、その町に御言を伝え続けたのです。
私、主人が、しもべたちにムナを託したというのは、こういうことではないかと思うのです。教会は、イエス様から御言という財産を託された。その財産を託されたのは、教会だけ。そして教会はその財産を用いていく。布に包んで、しまっておくのではなく、外へ行って、それを伝える。そのとき、その財産は、何倍にも膨れあがるのです。
実際、静岡の教会は、小さな教会だったのですが、よく伝道しました。チラシを作り、配った。また、機会があれば、どこへでも私が行って、御言を語らせていただいた。そうしていくうちに、(本当に不思議としか言いようがないのですが、)多くの出会いが与えられ、何年かしたら、小さな礼拝堂が人でいっぱいになった。そしてもうどこからも、「教会を閉じよう」という声が聞こえてこなくなったのであります。
これは、私たちにとっても同じなのです。この大和キリスト教会も同じだと、当然言えますが、私たち一人一人、私たち一人一人も、大事な御言の語り手なのです。あの人に、この人に、私たちが伝える。あの静岡の教会がなくってしまったら、その地域の人たちが、神様の言葉を聞くことができない、それと同じように、私たちがいなけば(また伝えなければ)、あの人も、この人も、一生涯、神様の言葉を聴くことができないまま、終わってしまうかも知れない。「まことの神の言葉を聴くことができるのは、ここだけ。まことの神の言葉を伝えることができるのは、あなただけ」。私たちも皆、同じだと言える。
そして、このムナの譬え話。御言を伝える、それだけではなく、私たちがその御言に生きる、しまっておくだけではなく、実際に用いていく、生きていく。そのことも求めている。
先日、このような質問を受けました。「聖書に書いてあることを、どうすれば、もっともっと実感できますか」。いい質問だと思いました。御言を、識だけではなく、もっともっと実感したい、どうすればいいのか。
色々な答え方ができると思ったのですが、このムナの譬え話で答えるならば、「一ムナを一ムナのままにせず、その御言に生きてみる」ということが言えると思います。礼拝で御言を聴いて、「なるほど、いい御言だ」、そう言って、自分の中だけにしまい込むだけではなく、また自分だけが満足し、そのムナを持っていることで、ただ安心するのでもなく、実際にその通りに生きてみる(いや、正確に言えば、その御言に、生かされていく)、そのとき、ムナは、何倍にも増えるのです。あなたの道を主にゆだねよ。その御言を聴いたならば、実際に、主にゆだねて、生きてみる。すると、私たちは実感する。「ああ、なんて素晴らしい御言なのか、なんて豊かな御言なのか」。敵を赦し、敵のために祈りなさい。その御言を聴いたならば、実際に、そのとおりに祈ってみる。「どうして、あんな人のために」、そのような思いが湧き上がってきても、「しかし、主よ、あなたの言葉ですから」と言って、祈ってみる。そのとき、「ああ、御言が語るとおりだ」と思えてくる。商売のように、すぐに結果が出るとは限りません。しかし、地道に、コツコツ御言に生きていくとき(生かされていくとき)、気がついたら、一ムナが二ムナに、二ムナが、五ムナに、そして、一〇ムナにもなっていく。
どうして、この最後のしもべは、一ムナをしまっておくだけで、商売に行かなかったのだろうか。このしもべは、こう答えています。
あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。
つまりこのしもべは、主人が怖かった。その主人のムナを、失うのが怖かった。考えてみれば、哀れなしもべです。ビクビク怯えながら、主人の帰りを待ったのです。おそらく、布に包んだだけは安心できなかったことでしょう。朝起きて、「あの一ムナは、夜のうちに盗まれていないか」、そう言って、おそるおそる布をあけてみる。昼は昼で、「家に置いたままでは心配だ。だからと言って、持ち歩いたら落とすかも知れない」。そう言って、ムナの心配ばかりをしている。哀れなしもべ。ムナを無くさないように、四六時中、ビクビクして、主人の帰りを待っている。しかしこれは下手をしたら、私たちの姿なのです。よもすると、私たちも、自分の中に、「信仰があるか、どうか」、そのことばかりを気にしてしまう。「自分の中には、ちゃんと信仰があるだろうか。御言を、しっかり保っているだろうか」。しかし、主人が望んでいることは、そのようなビクビクした待ち方ではない。御言を伝える、また御言に生きる。そして何倍にも増える御言の豊かさに、あなたも生きてほしい、生かされてほしい。その喜びを、あなたも味わってほしい。『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。御言は、伝えるためにある。そして、それに生きるためにある。
この譬え話は、少々後味の悪い終わり方をします。二七節。
「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」。
この王様を憎んでいた人たちが、最後に滅ぼされてしまう。私たちとしては、何となく後味が悪い。国民から愛されず、自分の敵を殺してしまう暴君のような印象をつい受けてしまう。しかしそうではないのです。一四節の国民は彼を憎んでいた という言葉は、「ユダヤの指導者たち、そしてユダヤの人たちが、イエス様を憎んでいた」ということと重なるのです。ユダヤの人たちは、神の子であるイエス様を憎み、拒否したのです。十字架にかかるような、無力な王様はいらない。敵を赦し、敵のために祈るような軟弱な王様はいらない。そう言って、神様からの救い主、まことの王を憎み、拒んだ。もちろん、これは、「ユダヤの人たち」という特定の人たちだけが、イエス様を憎み、拒んだのではありません。世はいつでも、イエス様を憎み、そして拒むのです。なぜならば、いつまでも、自分たちが王様でいたいからです。「自分の人生、自分の好きなようにして、何が悪い。自分の時間や自分の体を、自分のために使って、何が悪い。自分の敵と呼びたくなるような奴を、心から憎むほうが、正直ではないか」。私たちは、その世の中で生きていく。イエス様から、御言(ムナ)をいただき、時にイエス様のように憎まれ、拒まれ、ののしられ、それでも、御言を伝え、愛に生きる、赦しに生きる。主人の帰りを待っているからです。わたしのために、十字架にまでかかってくださった主人が帰ってきてくださり、そして私たちに必ず、「良いしもべだ、よくやった」と言ってくださる。私たちは不充分なのです。御言が持つ豊かさに比べれば、ほんの少ししか、ムナを増やすことができないのです。しかし、どれだけ増えたかは関係ない。一〇ムナ増やしたしもべも、五ムナ増やしたしもべも、この主人は同じように褒めてくださる。だから、私たちは、あきらめない。ムナを包んで、しまっておくままにしない。私たちは、御言をこの手にいっぱいいただき、ここから、世に出ていくのであります。
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