礼拝説教「動かぬ愛はここに」 牧師 鷹澤 匠
 ルカによる福音書 第22章1~23節



 私、以前、礼拝堂の歴史というのを詳しく調べたことがありました。調べてみて、「なるほど」と思ったのですが、実はヨーロッパにおいて、礼拝堂についての神学的議論というのは、歴史の中で、案外なされてきていないのです。なぜかと申しますと、ヨーロッパでは、石で礼拝堂を作る。そして一度作ると、それが、二〇〇年、三〇〇年、長いところですと、五〇〇年以上、そのまま使えてしまう。ですから、「新しく礼拝堂を建てる」ということが、滅多になかったのであります。そして、一六世紀に宗教改革が起こり、プロテスタント教会が誕生したときも、多少、礼拝堂の中の装飾品が取り外されたりはしましたが、基本的に、カトリックの礼拝堂を、そのまま使い続けた。そのため、礼拝堂についての神学的議論というのが、そもそも起こりにくかったようであります。
 しかし、二〇世紀に入りまして、礼拝堂についての議論が活発になされるようになりました。そして、カトリック教会でも、プロテスタント教会でも、聖書に立ち帰り、一つの理解が生まれた。「礼拝堂、それは、聖餐卓を囲む形がふさわしい」。聖餐卓を囲む、聖餐卓が礼拝堂の中心なのです。この説教壇ではないのです。また、教会によっては飾ってある、正面の十字架像でもない。聖餐卓、主の食卓を中心に据え、それを囲むのが聖書の考える礼拝であり、礼拝堂。
 ちなみに、私も本で読んだだけで、実際には見たことはないのですが、日本のある教会では、聖餐卓が基礎部分と一体化してしまっているそうです。私たちの教会でもそうですし、また、他の教会も、ほぼそうだと思うのですが、聖餐卓は、移動することができます。ここにある聖餐卓は、非常に重いですから、何人かで力を合わせる必要はありますが、でも動かそうと思えば、動かすことはできる。しかしその教会。聖餐卓をコンクリートで造り、建物の土台(基礎部分)と一体化させてしまった。だから、どうやっても、動かない。また人の手で、動かすことができないのであります。
 強烈なメッセージを発しています。「私たちの礼拝、そして私たちの教会の中心は、聖餐卓。これは、何があっても動かない、動かすことはできない」。
 私たちの教会も、その心は同じであります。「私たちも、聖餐卓を囲んで、礼拝を行う」、聖餐式が行われる日も、行われない日でも、それは変わらない。「主の食卓を囲む」という姿勢が、私たちの礼拝の姿勢なのであります。
 そしてその基となった聖書の箇所が、今日の礼拝の御言なのであります。ルカによる福音書第二二章、その始まりの箇所を、私たちは今日、ご一緒に読んでいきたいと願います。今日はまず、七節から読み進めてまいります。

 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。

 イエス様たちは、ガリラヤから旅を続け、今、都エルサレムに入られました。そして今、過越祭を迎えようとしている。
 過越祭というのは、イスラエルにおける特別なお祭りでした。イスラエルというのは、アブラハムの子孫たちなのですが、ヤコブの代で、エジプトに移住し、そこで人口を増やしていきます。聖書の記述によれば、四三〇年、イスラエルの人たちは、エジプトで暮らすのですが、その数が非常に多くなり、力もつけてきていたので、エジプト王は恐れ、彼らを奴隷にしてしまうのです。イスラエルの人たちは、毎日、重労働が課せられ、苦しみの日々が続く。そこで神様が、モーセという人を指導者に立て、イスラエルの民を救う決断をしてくださる。
 モーセは、神様の命令で、エジプト王のもとへと向かいます。そして、「イスラエルの人たちが、荒れ野へ行って、そこで神様を礼拝させてほしい」と願い出る。しかしエジプト王は、それを許されないのです。貴重な労働力を、みすみす手放す王様はいない。しかしエジプト王が、モーセの申し出を断るたびに、エジプトで災いが起きていく。アブが大量発生したり、イナゴの群れが襲ってきたり、雹が降ったりする。そして、最後に大きな災いが起こるのです。それは、エジプト中の初子(その家で初めて生まれた子ども)が全員、死ぬ、という災いだった。
 神様は、そのときモーセに指示を出します。「イスラエルの人たちが、その災いに巻き込まれないように、目印として、小羊を屠り、その血を、家の門の柱に塗りなさい。そしてその小羊を食べて、脱出に備えなさい」。イスラエルの人たちはその指示に従う。すると、その夜、エジプト中に災いが起こったのですが、イスラエルの人たちの家だけは、災いが通り過ぎていった、過ぎ越していったのです。結果、エジプト王が根負けして、イスラエルの人たちが荒れ野へ行く許可を出す。その出来事を祝う祭が、「過越祭」だったのであります。
 ちなみに、過越祭は、「除酵祭」とも呼ばれます。これも書いて字の通り、酵母を取り除くお祭りです。エジプトを脱出するとき、イスラエルの人たちは、酵母を入れて、パンを膨らませる時間がなかった。そのため、膨らんでいないパン(おせんべいみたいなパン)を食べた。それを再現するために、除酵祭(過越祭)では、小羊と共に、酵母の入っていないパンを食べる。イエス様は、その記念の食事を弟子たちと共に取ることを、ここで強く望まれたのです。そこで、このような指示を出します。九節。

 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

 何でもないことのようですが、イエス様のご配慮を読み取ることができます。食事の席の準備、それは本来、裏方の仕事であります。本当ならば、弟子たちが、あらかじめこれをしておくべきだった。もちろん、弟子たちも、そのつもりでいたのかも知れませんが、それに先立って、イエス様が、ちゃんと、部屋の準備までしてくださったのであります。しかも、先々を見通すようにして、細かい指示を出す。「都に入ると、水瓶を運んでいる男がいる。(当時、水瓶を運ぶのは、女性の仕事でしたから、水瓶を運ぶ男というのは珍しい)でも必ず、そのような人がいるから、その人に、部屋を頼みなさい。そうすれば、部屋を借りることができる」。これも、イエス様が起こされた一種の奇跡の出来事だと思います。イエス様は、不思議な仕方で、食事の準備をしてくださる。
 そしてイエス様は、食事の冒頭、このようにお語りになったのです。一四節。

 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。

 新共同訳聖書は、とても上手に、また綺麗に訳しました。あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。しかし、聖書が元々書かれた言葉でここを読むと、もう少しゴツゴツした感じ、不器用な感じなのです。そのまま訳してみますと、「わたしは、あなたがたと共に過越の食事をする、その願いを、願っていた」。「願いを、願う」、同じ言葉の名詞形と動詞形が連続して続く文章なのです。しかも、その「願い」という言葉は、非常に強い言葉で、「強く、激しく願う」、また、「むさぼる」とか、「切望」とも訳すことができる抑えきれない衝動を表す言葉なのです。つまり、そのぐらい強く、激しく、イエス様はこの食卓を望まれた。
 なぜだろうか。なぜ、イエス様は、これほどまでに、この食卓を望まれたのだろうか。このための準備を、自らしてくださり、そして食事の冒頭で、強く激しく、「わたしは、どうしても、みんなと共にこの食事をしたかった」と述べる。その理由は、どこにあるのであろうか。
 それは、この先、イエス様は、どうしても、その食事の席で、弟子たちに伝えたいことがあったのです。一六節から。

 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

 「神の国で」、また「神の国が来るまで」という言葉が繰り返されます。つまり、「イエス様にとって、これが、十字架にかかる前の最後の食事だ」ということです。最後の食事、最後の晩餐。そして、一九節。 

 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

 私たちの聖餐式の原型がここにあります。イエス様はここで、「ご自分は十字架にかかり、このパンのように、体を裂く」と宣言してくださいます。そして、ぶどう酒が入った杯を分けて、「わたしは、十字架で血を流し、それが、わたしの血による新しい契約となる」と言ってくださる。そして何よりも、イエス様がここで弟子たちに伝えたかったことは、これらはすべて、「あなたがたのためだ」ということだったのです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体。この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約」。
 ある人は言いました。「イエス様の御生涯は、ご自分の正体を、隠しに隠したものであった。しかし、この食事の席で、イエス様はご自分のことを明らかにしておられる。隠しに隠してこられたことを、一挙に、明らかにしてくださっている」。
 その通りでありましょう。イエス様はご自分の正体を、ひたすらお隠しになってきました。聖書を読んでいると、「なんて、もどかしい」、そう思えるところが多々あるぐらい、イエス様はご自分のことを隠し、またもし、それを口にする者がいたら、「黙っているように」と言われてきた。しかし、今、ようやくそのすべてを明かしてくださる時が来たのです。そして、それは、「わたしは、あなたがたのために、体を裂く、血を流す」というものだった。イエス様は、このことを伝えるために、過越の食事の準備を、自らなさった。いや、「イエス様の歩みはすべて、この準備のためにあった」と言ってもいい。ガリラヤの伝道、エルサレムへの旅、そして数々の奇跡や言葉も、すべて、この一点を明かすため、すべてがこの準備だった、と言ってもいい。そして、もっともっと大胆なことを言ってしまえば、旧約聖書、つまり、神様の歴史も、すべて、この食卓を目指していたのです。
 
 教会の伝統的な聖書の読み方に、「旧約聖書をすべて、キリストの予型として読む」というものがあります。「予型」という言葉は、「あらかじめの型」と書くのですが、つまり、「旧約聖書の出来事一つ一つは、すべてイエス様、特にイエス様の十字架を暗示している」、そのような聖書の読み方があるのです。
 私は、すべてそれ一辺倒になるのは、どうかとも思っているのですが、ただ過越の食事に関して言えば、確かに、これは、イエス様の十字架の予型でしょう。イエス様の十字架というのは、屠られる過越の小羊と重なるのです。しかしこれは、イエス様があとから、ご自分と屠られる小羊を重ねたのではなく、過越の小羊そのものが、すでにイエス様の十字架を指し示していたのです。言ってみれば、(大変驚くべきことですが、)神様が、イエス様の十字架を指し示すために、あの過越の出来事を起こしてくださった。あそこで、神様が、もう十字架の準備を、始めていてくださった。そして、過越の出来事だけではない。旧約聖書に記されている、多くの出来事は、イエス様の十字架を示し、またイエス様の十字架を目指している。つまり、イエス様だけではなく、父なる神様ご自身が、あの食事の準備を、ずっとしてきてくださったのです。
 だから、イエス様の言葉も激しいのです。「わたしは、あなたがたと共に過越の食事をする、その願いを、強くそして激しく願っていた!」。最後の晩餐には、イエス様、そして父なる神様の切なる思いが込められている(集約されている)。そしてその思いは、「あなたがたのために!、他でもない、あなたがたのために、わたしは体を裂き、血を流す」というものだった。そしてこの「あなたがた」の中に、私たち一人一人もいるのです!
 
 この過越の食事の出来事と共に、まるで不協和音のようにして、イスカリオテのユダのことが語られています。第二二章の一節に戻りまして、食事の準備とは別に、悪しき準備がされていく様子が記されています。第二二章の一節からを読むと、

 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。

 祭司長や律法学者たち、つまり、人々の信仰の指導者たちは、何とかして、イエス様を無き者にしようと考えていました。しかし、「彼らは民衆を恐れていた」。民衆は、イエス様を熱烈に支持していましたので、彼らは、その反感を恐れ、イエス様に手出しできずにいたのです。しかしそこへ、思いがけない人物が訪ねてきたのです。三節。

 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

 なぜ、ユダは、イエス様を裏切ったのか。これは、昔から、多くの人たちの関心を引いてきました。神学の議論にも、もちろんなりましたし、これを題材にした小説や映画もたくさん作られた。また、教会が誕生して、一五〇年ぐらい経ったあとに、「ユダの福音書」と呼ばれる文書が作られた。これは、完全な創作(フィクション)でありまして、グノーシスと呼ばれる、教会とは全く別の宗教団体が、自分たちの教えを擁護するために書いた。そしてそこでは、ユダの裏切りが、正当化されたりもしているのであります。
 そのように、ユダの裏切りは、古くから、多くの人たちの関心を集めてきました。結果、さまざまな説が立てられた。中には、ユダに同情的なものもありましたし、逆に、ユダに対して冷酷なものもあった。しかし結局のところ、聖書は何も語っていないのです。ユダの心、ユダが、どうしてこのような行動をとったのか、聖書は答えていない。
 ただ、一つだけ、言えることがあります。それは、「ユダの裏切りを、イエス様は、良しとしておられなかった」ということです。イエス様はこう言われます。二一節。

 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。

 人の子は、定められたとおり去って行く というのは、「イエス様は、神様のご計画、神様の願いどおりに、十字架にかかる」ということです。それは、「定め」、つまり、「神様の動かぬ決定」なのです。旧約聖書の時代から、もっと言えば、この世界ができるそれ以前から、神様が、お決めになっていたこと、定めていたこと。そして、父なる神様も、イエス様も、そのために準備を重ねてこられた。だから、ユダが裏切ろうが、裏切ることがなかろうが、この出来事は実現するのです。「あなたがたのために十字架に」、ユダがどうしようが、このイエス様の決意は変わらないし、神様の思いも変わらない。「それなのに、それなのに、なぜ、あなたは、わたしを裏切ろうとするのか」、イエス様は言われる、「人の子を裏切るその者は不幸だ」。
 この「不幸」という言葉、この言葉は原語では、「ウーアイ」という言葉です。これは元々、言葉というよりも、「音」、「ため息」だったのではないか、と言われています。「ウーアイ」、イエス様はここで、深いため息をついておられる。ユダのために、嘆きのため息をつき、「ウーアイ、なぜ、あなたは裏切るのか」と言っておられる。「わたしは、あなたのためにも、十字架で体を裂き、血を流す。それなのに、どうして、あなたは、わたしを裏切り、わたしを捨てて離れ去ろうとするのか。わたしを離れて、どこへ行くのか、どこへ行くと言うのか」。

 私、かつて、「ユダも、神様のご計画の中で、用いられたのだ」、そのような話を読んだことがあります。つまり、ユダがいなければ、イエス様は十字架にかかることがなかった。だから、ユダも、神様の救いの計画に参与した。ユダも、神様の御心の中で、用いられたのだ、というのです。
 私、それを読みながら、腹が立ちました。神様の愛が、ちっとも分かっていない、と思ったからです。神様のご計画も、イエス様の愛も、まるで分かっていない。ユダが裏切ることを、神様が望むはずがないからです。当然、イエス様も、望むはずがない。それどころか、ユダのためにも、イエス様は十字架にかかろうとしてくださっていた。「ウーアイ」、イエス様の深い嘆き、深い憐れみ、深い愛。ユダが滅びへと向かうことを、イエス様はどんなに悲しんでおられたことか!
 ルカは、「ユダにサタンが入った」と記す。しかし当然、イエス様は、ユダが、そのサタンに負けてほしくなかったのです。そしてイエス様を裏切ったのは、ユダ一人ではなかった。ペトロも、ヤコブも、他の弟子たちも全員、イエス様を見捨てて逃げる。ペトロなどは、イエス様を三度も否定して、呪いの言葉さえ口にするのです。それを見て、それを知って、イエス様は、「あなたがたのために、十字架にかかるのは、もうやめる。あなたがたは、わたしが体を裂き、血を流すに価しない!」、決してそのようなことは言われなかった。それらもすべて、イエス様は見通しておられた。そして、裏切る弟子たち、ご自分を見捨てる弟子たち、その弟子たちのために、イエス様は、体を裂き、血を流された。
 「最後の晩餐」。確かにこの食事は、イエス様が十字架にかかる前に限れば、最後になりました。しかし、聖書に登場するイエス様と弟子たちの食事は、これが最後ではない。イエス様は、十字架にかかり、三日目に死人の中からよみがえり、そして再び弟子たちと、食事を共にしてくださるのです。復活の主イエスと共に、弟子たちは食事をする!
 しかし、そこに、悲しいかな、ユダの姿はありませんでした。ユダは、イエス様を裏切ったあと、すぐに、自ら命を絶つ。復活の主イエスの食卓に、ユダは一人、つくことができなかったのです。ホントウは、ホントウは、ユダもそこにいてほしかったのです。いや、ユダこそ、そこにいるべきだったのです。ウーアイ、なんという不幸、なんという悲しみ。父なる神様が、世界のはじめから準備してきてくださったこの食卓に、そしてわたしが、十字架で体を裂き、血を流して、準備したこの食卓に、ユダよ、どうしてあなたはつくことができないのか、人の子を裏切るその者は不幸。イエス様の嘆きは深い。イエス様の憐れみの嘆きは、深いのです。

 私たちは今、イエス様が準備してくださった食卓を囲んでいます。私たちも罪人です。ユダと変わらない罪人です。そしてこの罪人のために、イエス様が、そして父なる神様が、この食卓を用意してくださった。そして私たちも、この食卓を囲む者として招かれ、イエス様を礼拝している。変わらない愛が、ここにあるのです。動かない愛が、ここにあるのです。なんという幸いなことでありましょう。
 
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