礼拝説教「主の祈り講解説教 御国を来たらせたまえ」 牧師 鷹澤 匠
使徒言行録 第1章6~11節
主の祈りの言葉を、礼拝で一つずつ、心に留めています。今日は、「御国を来たらせたまえ」という祈りです。
私、生活の中で、主の祈りの言葉を、ワンフレーズだけ祈るということを、よくします。例えば、「御名をあがめさせたまえ」とか、「我らの罪をも赦したまえ」とか。全部ではなく、ワンフレーズだけ、一部分だけ、祈るということが、よくあるのです。そして振り返ってみると、一番よく祈っているフレーズは、「御国を来たらせたまえ」という部分ではないかと思うのです。
先日、神奈川県川崎市で、通り魔事件が起きました。また、連日のように、子供が虐待され、死亡するニュースがテレビから流れてくる。そのようなとき、私は祈る。「御国を来たらせたまえ。神様、あなたの国が、あなたのご支配が来てください」。
また、世界各国の紛争の話を聞くたびに、やはり同じような思いに駆られます。ナイジェリア、スーダン、シリア、そして聖書の舞台であるイスラエル、パレスチナも、暴力と武力によって多くの人たちの血が流されていく。「御国を来たらせたまえ。神様、どうか、あなたの国を来たらせてください。あなたのご支配がありますように」。私は、いつも、繰り返し、そのように祈っているのであります。
そしてこれは、皆様も、同じではないかと思うのです。皆様も、「御国を来たらせたまえ」と、いつも祈っておられる。この祈りの言葉を、直接、口に出す、また出さないは、それぞれであっても、この祈りがいつも胸にある。「御国を来たらせたまえ」という祈りは、そのような祈りではないかと思うのであります。
今日はご一緒に、この祈りについて、深めていきたいと願います。
まず最初に、マルコによる福音書第一章をお読みいたします。マルコによる福音書第一章一四節、一五節です。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
マルコによる福音書が記す、イエス様の第一声です。イエス様は、洗礼をお受けになったあと、一人、荒れ野へと行かれました。そこで、四〇日、お過ごしになり、それから、人々の前に現れてくださった。場所は、ガリラヤ。そしてそこで、「時は満ち、神の国は近づいた」と言われたのです。
「時は満ち」。これは、「ついに、その時が来た」という意味です。「まさに今、神の国が来る(御国が来る)、その時が来たのだ」、そのようにイエス様は言われたのです。
いつも大胆で、ユニークな説教をすることで、よく知られている説教者がいます。その説教者は、何冊か本も出していまして、この御言を説いている説教も、その本の中にありました。それもまた、とっても大胆でユニークな説教だったのです。このような主旨のことを語っていました。
「小学生の頃、クラスでお楽しみ会があった。そのお楽しみ会を始めるにあたり、いつも、係の人がこう言った。『これから、お楽しみ会を始めます』。イエス様が言われたことも同じ。イエス様は言われた。『これから、神の国を始めます!』」。
私、最初、本でそれを読んだときに、「さすがにこれは、軽すぎではないか」と思いました。「お楽しみ会」と「神の国」を一緒にするのも軽いし、「神の国が近づいた」という言葉を、「神の国を始めます」と言い換えるのも、軽い。「聖書を、分かりやすく伝えたい」、その思いは分かるけれども、そこまで軽くしなくてもいいのではないか。私は最初、そう思ったのです。
しかし、時間が経っても、どうも、その言葉が頭から離れないのです。「神の国を始めます!」、軽いなぁと思いつつも、その言い回しが気になって仕方がない。そして思った。「この言い回しは、『言い得て妙』と言うべきなのではないだろうか。案外、的を射ているのではないだろうか」。
イエス様に先立って、洗礼者ヨハネも、同じことを言っています。ヨハネも、イエス様が現れる直前、「神の国は近づいた」と人々に宣言しているのです。しかし、ヨハネが言った意味と、イエス様が言われた意味は同じか、と言うと、実は、違うのです。
バスを待つ人に譬えることができるかも知れません。バス停でバスを待つ。しかし、バスはまだ来ていない。「でも、そろそろ来るから、準備をしなさい」。言ってみれば、そう語ったのは、洗礼者ヨハネなのです。「神の国は近づいた。まもなく、救い主が来てくださる。だから、悔い改めて、その時に備えよ!」。
しかし、イエス様は違う。イエス様は、「神の国は近づいた」と言われて、神の国を始めてくださった。イエス様が、神の国をもたらす救い主その方であったのです。
イエス様は、奇跡を起こし、大勢の人たちの病を癒しました。これは、神の国が来たことの「しるし」でした。
またイエス様は、徴税人や罪人、遊女といった、当時、「汚れている」とされた人たちと、喜んで一緒に食事をされました。これも、神の国が来たこと証し。
そしてイエス様は、弟子たちを招く。そして弟子たちを始め、人々に御言を語ってくださる。これも、神の国そのもの。
イエス様が来てくださったことにより、神の国が始まった。神様のご支配、愛の支配が始まった。だから、あの説教者が語ったことは、「言い得て妙」。「これから、神の国を始めます!」。あえて言葉を足すならば、「これから、わたしが、神の国を始めます。わたしが来たことによって、神の国が始まったのです!」。イエス様は、そのように宣言してくださったのであります。
イエス様の働きは、ガリラヤから始まりました。そして、やがてエルサレムへと向います。そして、イエス様は、エルサレムで、自ら十字架におかかりになる。これも、神の国のためだったのです。
そこでお読みしたい聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第三章一節から。
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
ニコデモという人が出てきます。この人は、ファリサイ派の議員、つまり、イエス様に敵対していたグループの一人でした。しかし、ニコデモは、イエス様の中に、神様の働きを見るのです。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。つまり、ニコデモは、イエス様を通し、御国(神の国)を見る。しかし、イエス様はこう言われるのです。三節。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
なんだか、ちょっと冷たい印象を受けます。ニコデモは、勇気を持って、イエス様のもとに来ています。二節に「夜来た」と書いてありますが、ここから、ニコデモは、夜、こっそり来たことが分かります。このことが仲間に知られたら、どんな仕打ちを受けるか分からなかったからです。そのような中、ニコデモは、勇気をもってイエス様のもとに来た。そして、イエス様に、「あなたの中に神の国を見ます!」と、ニコデモなりの信仰告白をしているのです。しかしイエス様は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われる。なんだか、ちょっと冷たい、つっけんどんな印象を受ける。
しかし、この言葉は、真実なのです。人は、新たに生まれなければ、つまり、人はそのままでは、神の国を見ることもできない。ましてや、神の国に生きる。神の国に入り、その住民として生きることもできない。なぜならば、人は、罪人だから。汚れた罪人は、そのままでは、神の国を見ることも、入ることもできない。そして、イエス様は、その私たちを新しくするために、自ら十字架にかかってくださったのです。十字架にかかり、私たちの罪を清め、私たちを、神の国、御国の一員としてくださった。五節も読むと、
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。
「洗礼」のことです。私たちは、洗礼によって、イエス様の十字架の恵みにあずかる。そしてそれゆえに、神の国に入ることができる。
次に読みたいのは、使徒言行録です。使徒言行録、第一章六節から。
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
話の途中からなのですが、イエス様は十字架にかかり、およみがえりの命となられました。そして四〇日間、弟子たちと共に過ごしてくださった。そしていよいよ、天に昇っていかれます。そして、その直前、弟子たちはイエス様に、こう尋ねたのです。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。
弟子たちは、「神の国、御国が来るのは、今ですか」とイエス様に尋ねたのです。「イエス様、私たちは教えられたとおり、『御国を来たらせたまえ』と祈ってきました。そしてついに、その御国が来るのですね。イスラエルの再建は、今ですね!」。弟子たちは胸を高鳴らせながら、そう尋ねたのです。すると、イエス様は、七節。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
「その時」は、父なる神様しか知らない。つまり、「それは、今ではない」とイエス様はお答えになったのです。けれども、続けてこうお語りになった。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
ペンテコステの予告なのです。イエス様が天に昇られて一〇日後に、弟子たちの上に聖霊が降る。ペンテコステが起こる。「御国を来たらせたまえ。その御国は、今ですか」、そう尋ねた弟子たちに、イエス様は、「ペンテコステが起こる」というお答えをなさった。
先週は、鄭先生の説教でした。ですから、私、今日の説教の準備を、二週間かけて行いました。二週間前、私は悩みました。主の祈りの連続説教をしている。順番から行くと、次は、「御国を来たらせたまえ」。しかし、次は、ペンテコステ礼拝でもある。そこで私、当初こう考えたのです。「一回、主の祈りの説教をお休みして、ペンテコステは、ペンテコステに関係する箇所を選んで、説教を語ろうか」。
しかし、「御国を来たらせたまえ」というこの祈りに、心を留めていったときに、この使徒言行録の御言に出会ったのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。ああ、ここで弟子たちが、「御国を来たらせたまえ」と祈っているではないか。そして、イエス様が、「あなたがたの上に聖霊が降る」と言って、ペンテコステの予告をなさってくださっている。「御国を来たらせまえ」、この祈りと、ペンテコステは、密接に関わっている!
「御言が与えられる」という言い方があるのですが、まさに、「ああ、御言が与えられた」と思いました。この日のために、神様が、この御言を与えてくださった。
イエス様が来てくださったことによって始まった御国。そしてイエス様が十字架にかかることによって、その御国の扉が開かれた。そして、ペンテコステ、弟子たちに聖霊が降り、教会が、その扉の中へ、御国の中へ、人々を招き始めたのです。神様は、そのようにして、多くの人々を招き、私たちをも招き(すなわち、私たちをも巻き込み!)、御国を造ってくださっている!
『ハイデルベルク信仰問答』という宗教改革の精神の中で生まれてきた、一冊の教理書があります。「カテキズム」と呼ばれるものです。その『ハイデルベルク信仰問答』は、この祈りを解説して、このように語ります。
問 第二の祈願は、何でしょうか。 (主の祈りの二番目の祈りは何か。)
答 「み国を来たらせたまえ」であります。
この中で、わたしたちが祈っていることは、
わたしたちが、ますます、あなたに、服従することができるよう、
あなたの御言葉と御霊によって、わたしたちを支配して下さいということであります。
私、最初、読んだときに、「あれっ」と思って、一瞬、把握できませんでした。「御国を来たらせたまえ。これは、私たちが、ますます神様に服従することができるように、との祈り」。
正直私は、それまでこの祈りを祈るとき、「自分が服従する」ということを考えてこなかった。「自分抜きで祈っていた」とまでは言いませんが、「御国が来るのは、この世界に」と思っていた。もちろん、それはそれで正しいわけですが、しかし、『ハイデルベルク信仰問答』は語る。「これは、私たちが、ますます神様に服従する祈りなのだ」。しかも、その服従は、御言と御霊によって起こる。「あなたの御言葉と御霊によって、わたしたちを支配して下さい」。
「なるほどなぁ」と思いました。確かに、神様のご支配というのは、御言と御霊(聖霊)によるご支配なのです。つまり、御言を通して、神様は、私たちを捕らえてくださる、なおかつ、聖霊なる神によって、私たちを、がっちりと、つかんでくださる。そして、私たちを内側から変えてくださるのです。どう変えるのか。御言を聴き、その御言に従う者へと変えてくださる。ますます神様に服従する者へと変えてくださる。先ほどのヨハネ福音書のイエス様の言葉で言えば、「神様が、聖霊によって、私たちを新しく生まれさせてくださる」のです。
こう言い換えることもできます。聖霊なる神様が、私たちの中で働いてくださると、何が起こるか。聖書は語る。聖霊なる神様は、私たちを通して、様々な実りを結んでくださるのです。愛という実り。喜びという実り。そして、平和という実りを、聖霊なる神様が、私たちを通し、生み出してくださる。愛、喜び、平和、まさに、神の国なのです。神様は、御言と聖霊によって、私たちを通し、神の国を造ってくださる。つまり、神様は、私たちを巻き込んで、ご自身の国、御国を来たらせてくださるのです。
神の国は、もう始まっているのです。教会において、始まっているのです。現に今日も、Eさんが洗礼を、Hちゃんが幼児洗礼を受けた。神様が、Eさんに聖霊を送り、ご自身を信じる信仰を与えてくださった。また、Cさん、Kさんご夫妻の中に、聖霊を送り、「この子を、神様に喜んで、お献げする」という決断を与えてくださった。そしてこれからも、Eさん、Hちゃんを、神様が御言と聖霊によって支配してくださる。ご自身の国、御国へと巻き込んだこの二人を、ご自分の国で生かしてくださる。
もちろん、私たちも同じです!神様は、私たちをも、ご自分の国へと巻き込んでくださいました。そして、御言と聖霊によって、ますます神様に服従し、私たちを通して、愛という実り、喜びという実り、そして、平和という実りを、神様が結んでくださる。そのようにして、神様が、ご自分の国を来たらせてくださるのです。
その意味で、ペンテコステは、私たちの中で、すでに起こり続けています。そして今日も、明日も、あさっても、ペンテコステが起こり続けるのです。私たちを通して、私たちの家庭、私たちの職場、そして私たちの学校の中で、神様が、私たちを通し、ペンテコステを起こし、神の国、御国を造り続けてくださる。
『ハイデルベルク信仰問答』は、私たちの服従を語り、次に、神様が悪の支配に打ち勝ってくださることを語ります。そして、最後にこう語るのです。
そして、あなたの御国の完成がもたらされ、
そこで、あなたが、すべてにおいてすべてとなられるのであります。
やがて御国は来ます。私たちも、まことに不完全なものですが、その日には、神様が、私たちを完成させてくださいます。そしてそこで、神様が、すべてにおいて、すべてとなってくださる。
「御国を来たらせたまえ」。あなたの御言と御霊によって、私たちが、ますますあなたに服従することができますように。
「御国を来たらせたまえ」。私たちを通し、それぞれの場所に、あなたの御国が来ますように、あなたが、悪が打ち勝ってください。
「御国を来たらせたまえ」。イエス様が再び来てくださり、完全なあなたの国が来ますように。そこで、あなたが、すべてにおいて、すべてとなってくださいますように。
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