礼拝説教「心の貧しい人々は幸いである」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第4章23節~第5章3節

 
 
 今日から、山上の説教、その冒頭にある「八福」と呼ばれている箇所を、礼拝で心に留めていきたいと思います。
 五月から、私たちは、「主の祈り」の言葉を、この礼拝で心に留めてきました。そして前回、その学びを終えた。そしてここで、四月まで読みすすめてきた、「ルカによる福音書」に戻ってもよかったのですが、ただ、ルカによる福音書の続きが、イエス様の受難とおよみがえりの箇所なのです。どうしようかなぁと私、散々迷ったのですが、イエス様の受難とおよみがえりの箇所は、レントやイースターの時に読もう、そのときまで待とう、と思いました。そこで私、今回、「山上の説教」、その冒頭にある「八福」の言葉を選ばせていただいたのであります。
 マタイによる福音書、第五章三節から一二節のところには、「幸いである」という言葉が、八回ないし九回続けて出てきます。そのため教会は、ここを昔から、「八福」、もしくは「九福」という呼び方をしてきました。イエス様が語ってくださった「幸い」、祝福の言葉。もちろん、イエス様の言葉は、すべてが特別で、すべてが大切ですが、教会はこの八つないし九つの祝福の言葉を、昔から特に大切にしてきました。私たちは今日から、しばらくのあいだ、この祝福の言葉を一つずつ、礼拝で心に留めていきたいと願う。そしてイエス様が語る幸い、その祝福の中を歩みたいと願うのであります。
 
 今日は、「八福」最初の幸い、「心の貧しい人々への幸い」です。イエス様は、このようにお語りになりました。マタイによる福音書第五章三節。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。

 もしかしたら、「八福」の中で、この最初の幸いが、聞く私たちを、最も戸惑わせるかも知れません。「心の貧しい人が、幸い?」。私たちがむしろ期待する言葉は、このような言葉ではないかと思うのです。「心の豊かな人は、幸い!経済的に、多少貧しくても構わない。でも、心さえ豊かならば、人生を幸せに過ごすことができる。『ボロをまとえど、心は錦』、ああ、心の豊かな人は、なんて幸いなことでしょう!」。もしここが、そのような言葉だったら、私たちも、戸惑わない、納得がいくのです。そしてもっと言うならば、こういう言葉ならば、私たちをもっと満足させたかも知れません。「どんなにお金を持っていても、心が貧しい人は、なんて不幸なことか。それに比べて、『信仰』という豊かな心を持つ人は、なんて、幸いなことか!」。しかし、イエス様はそうは言われなかったのです。「心の貧しい人々は、幸い。天の国は、その人のもの」。これは、どういうことなのだろうか。
 
 ここの「貧しい」という言葉ですが、聖書が元々書かれた言葉を調べてみましたら、「非常に貧しい状態」を示す言葉でした。変な言い方ですが、ちょっとやそっとの貧しさではない。そしてさらに調べましたら、元々この言葉は、「恐れて縮こまる」という言葉から来ているようなのです。そしてある人は、このような説明をしていた。「これは、道ばたに縮こまり、物乞いをしている人の姿から来ている」。なるほど、確かに、物乞いをする人は、堂々と道の真ん中ではいたしません。恐れて縮こまり、道の端っこで小さくなって、物を乞う。そのぐらい貧しい、そのぐらい悲惨な状態。しかも、ここでイエス様が言われている「貧しさ」は、表面上の貧しさではない。内面の貧しさ、「心の貧しさ」。
 私たちも色々な場面で、心の貧しい人に出会います。例えば、人の悪口ばかり言う人。相手を思いやることなく、人の欠点ばかりをあげつらう人。そのような人は、「心が貧しい」と言えるでしょう。「人の悪口を言って、自分はあの人よりはマシだ」と、結局自分を持ち上げているだけ。また、心が狭く、常に自分の利益ばかり考えている人も、「心が貧しい」と言える。そして、神様や人に対する感謝の気持ちがなく、いつも、不平不満ばかりを口にする。そのような、心の貧しい人と一緒にいると、こちらまで、心がすさんでくる。また、あとでどっと疲れる。
 いや、決して人ごとではないでありましょう。私たちも、自分自身、ふっと気づくと、自分の心の貧しさが、おもてに現れてしまう。気がつけば、ささいなことに苛立って、配慮のない言葉を口にしている。すさんでいる自分の心の内側を、そのまま汚い言葉や、乱暴な行動に移している。「ああ、またやってしまった。また、同じ過ち、罪を犯してしまった」。私たちも、自分の心の貧しさに、うんざりする。「どうして、こんなにわたしは、心が貧しいのか」と辟易とする。私たちは思う。それのどこに、「幸い」があるのだろうか。心の貧しい人が、なぜ、幸いなのだろうか。
 
 この祝福の言葉を含め、この第五章から始まるイエス様の言葉は、「山上の説教」と呼ばれています。この「山上の説教」は、まずは、誰に語られたのか、最初の聴き手に心を留めてみるというのも、とても大切なことでしょう。そしてそれは、第四章二三節からの箇所に記されているのです。第四章二三節からを読んでみますと、こう記されています。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

 これは、イエス様が、ガリラヤに登場した、ほぼその直後の出来事です。イエス様の噂は、瞬く間に広がりまして、ユダヤを超えて、さまざまな地域から、大勢の人たちが、イエス様のもとに集まってきました。そして特に、ここに記されているように、病に苦しむ人たちが大勢集まってきていたのです。
 ここも、聖書が元々書かれた言葉で調べてみましたら、幾つか興味深い言葉がありました。二四節に、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」という言葉があります。ここに出てくる「苦しみ」という言葉は、非常に辛い苦しみを表している言葉なのですが、その意味の一つに、「拷問」という意味もあるのです。「拷問」です。強烈な言葉。しかも、そのあとの「悩む」という言葉も、強い言葉で、「押さえつけられていて、動けない」という言葉なのです。病を始めとして、苦しい悩みというのは、そういうものでありましょう。動けないのです。ぎゅうと押さえつけられていて、自由に動けない。また、肉体や心の痛みが去らなくて、まるで、「拷問」を受けているような日々が続く。きっとこのときも、一日二日ではなく、何年何年も、病に苦しめられてきた人たちが、集まってきていたのであります。中には、すでに医者から見放されている人もいたに違いない。幾つもの医者を周り、また怪しげな占い師などにも頼り、高額な治療費だけを取られてきた人もいたに違いない。そして、ここには、その病を負っていた人たちの家族もついてきていたはずなのです。家族も、苦しい生活を強いられてきたのです。病にかかった家族を癒すために、家族も一緒に苦しんできた。また、その病にかかった人が、我が子だったとしたら、その親が負う苦しみは、あたかも、拷問のような苦しみでありましょう。その人たちを、イエス様は、ご覧になったのです。第五章一節です。

 イエスは、この群衆を見て、山に登られた。

 イエス様は、この群集を見て、また、この群集のために、山上の説教を語ってくださったのです。また、マタイによる福音書は、「群集」という言葉も使いますが、二三節にあるように、「民衆」という言葉も使います。この「民衆」という言葉は、元は、「民」もしくは、「国民」という意味でありまして、つまり、イエス様のもとは集まった人たちを、マタイは、「イエス様の民」として見ている。イエス様の民、神の国の民、イエス様は、そのご自分の民を、じぃっと見つめながら、山上の説教を、そして祝福の言葉を、お語りになってくださったのです。そして例えば、イエス様は、人々の悲しみを見つめながら、「悲しむ人々は幸いである」と語ってくださった。「あなたがたは、大きな悲しみを背負って、今ここにいるね。今までずっと、悲しみをこらえて来たのだね。そのあなたたちに、祝福があるように。神様の幸いがあるように!」。そして、同じようにイエス様は、今、目の前にいる人たちの中にある、「心の貧しさ」も、見て取られたのです。
 これは、厳しいことかも知れません。私たちは、自分が窮地に追い詰められたとき、心の貧しさが、おもてに出てしまいます。ここに集まった人たちも、追い詰められていた、それゆえに必死であった。「イエス様、わたしを救ってください。わたしの病を、一番に治してください」。病の子どもを連れてきた親たちも必死だったに違いない。「イエス様、この子を看てください。他の人たちを差し置いてでも、この子の病気を治してください!」。苦しみは、人をわがままにします。そのわがままが、当然の権利であるかのような錯覚を抱かせます。そして、人は苦しいと、どんなことをしても、それは許されると思ってしまう。心の貧しさは、「人間の醜さ」を生むのです。
 そしてイエス様は、そのような表面にあらわれ出た「心の貧しさ」だけではなく、私たちの心の奥底にある、また、私たち誰もが持っている、「根源的な貧しさ」を、じぃっとご覧になるのです。
 「心の貧しい人々」。ここでの「心」という言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、「霊」という言葉です。実は、この先の八節にも、「心」という言葉が出てきます。「心の清い人々は、幸いである」。この八節の「心」と、三節の「心」は、原語では、別々の言葉が使われていまして、私たちが普段、口にする「心」という言葉は、どちらかと言えば、八節に近いのです。「心で感じる」とか、「心が動揺する」とか言ったときに使われる「心」という言葉は、八節の方。一方、三節の「心」は、元の言葉が、「霊」という言葉で、私たちの内側すべてを表している。
 聖書は語ります。私たち人間は、元々は土のかたまりだった。そこへ、神様がご自身の息を吹き込んでくださり、生きる者となった。そのときの「息」という言葉が、「霊」という言葉でありまして、私たちは、神様の息(神様のいぶき)によって、生きる者とされたのです。ですから、本来の私たちというのは、私たちの中で、神の息吹が息づいているのです。神様からいただいた霊が、私たちの中で呼吸している、息をしている。そしてその霊が、自由に息をしているときに、私たちは、人を愛するのです。また、神様を愛し、神様を礼拝する。しかし、イエス様は、ご覧になる。「あなたがたは、なんて心が貧しいのか。本来、息づいているはずの霊が見られない。もっと自由に息をしているはずの霊が、ほとんど息をしていない。『貧しい』、恐れ縮こまっている。あなたがたの霊は、なんて小さく縮こまっていることか!」。イエス様は、私たちが持つ本当の深刻さを、ご覧になる、また、本当の悲惨さをご覧になる。そして言われるのです。「心の貧しいあなたがた、あなたがたに、祝福があるように。神様からの幸いがあるように!」。
 
 先週の日曜日まで休暇をいただき、ゆっくりさせていただきました。この休暇を使いまして、私、学生時代の友人に何人か会ってきました。中には、卒業以来、つまり二四年ぶりに会ってきた友人もおりまして、学生時代を懐かしく思いました。
学生時代、私はよく友人たちと議論をしました。教会のこと、伝道のこと、神学的なテーマを巡って。神学校で受けた講義も、もちろん、力になりましたが、私はおそらく、授業よりも、友人たちと重ねた議論の中でこそ、神学を学んできたような気がします。
 その中で、よく友人たちとした議論の一つが、「山上の説教」を巡ってでありました。イエス様がお語りになった「山上の説教」をどう読むか。どう読んで、どう捉えていけばいいのか。例えば、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、その言葉も、「山上の説教」の言葉です。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」、これも、そうです。それら一つ一つの言葉を、どう読んで、どう捉えていけばいいのか。友人たちとよく議論した。また議論をするために、お互いによく本を読みました。
 実際私たち神学生の小さな集まりだけではなく、教会はその歴史の中で、「山上の説教」の読み方を巡って、たくさんの議論を重ねてきました。そしてたくさんの書物を生んできた。そして今思う、私が考える一つの急所は、「山上の説教は、イエス様がお語りになった言葉。この『イエス様がお語りになった』という一点を抜きにして読むとき、山上の説教は、読めなくなる。本来の意図が変わってくる」、私は、そう思っているのです。
 「山上の説教」の言葉は、単なる格言や金言、また知恵の言葉ではないのです。確かに、世の中には、役に立つ言葉がある。また、「なるほど」と思わせる、いい言葉がある。そして下手をすると、山上の説教の言葉も、その一つとして読まれ、その一つとして、考えようとする。しかし、そうではない。「山上の説教」は、あくまでもイエス様が、群集(ご自身の民)を見て、語ってくださった言葉なのです。そして、「心の貧しい人々は、幸い」、この言葉も、まさにそうなのです。
 「心の貧しい人が、なぜ、幸せなのか」、これを、イエス様から切り離し、単独の言葉として、「ああだ、こうだ」と考えても、分からないのです。ロジック、理屈をこね回し、「心が貧しいと、こういう『いいこと』がある」とか、「心が貧しいと、こういうメリットがある」とか、そういう受け取り方をしていると、この言葉の本来の意図を見失う。(実は教会も、似たような受け取り方をした時代もありまして、「自分の心の貧しさを自覚している、そのような謙虚な人は、幸いだ」、そう考えた時代もあった。しかし、「心の貧しさ」自体には、なにも価値がないし、何の美徳もない。「貧しい心」というのは、人間の醜さ以外の何ものでもないのです。)あくまでも、この言葉は、イエス様が語ってくださった言葉であり、そのイエス様が、心の貧しい私たちを見て、祝福してくださったことに意味がある。
 イエス様は、私たちのことをじぃっと見つめ、私たちの内面、心の奥底まで見つめ、そして、言われた。「ああ、なんて、心の貧しい者たちよ」。悲しい声で、また、深いため息と共に、イエス様は私たちの心の貧しさを嘆かれる。しかし、(しかし)そこでイエス様は、「あなたがたには、心底、がっかりした」、そうは言われなかったのです。「心の貧しいあなたがたには、わたしは正直、失望した。もう勝手に、滅びの道をゆくがよい、アナテマ、神に捨てられる道をゆくがよい」、イエス様はそうは言われなかった。それどころか、「そのあなたがたに、祝福があるように!心の貧しいあなたがたに、神様の幸いがあるように!」。イエス様はそう言ってくださったのです、しかも、「天の国は、あなたのもの!」。イエス様は、心の貧しい私たちを祝福し、天の国、神様のご支配の中へと、私たちを引き込もうとしておられる。「天の国を、あなたのために用意した! 天の国は、あなたのものだ」、そうとまで、イエス様は言ってくださっているのです。
 
 ある人は言いました。「この祝福の言葉、これは、主イエスの決意表明であった」。なるほどと思いました。イエス様はここで、心の貧しい私たちを、天の国へと引き入れる、ご自身の決意表明をしてくださっている。心の貧しい私たちが、天に受け入れていただくためには、そのままではダメなのです。自分本位で、わがままで、狭い心しか持ち合わせていない私たちに、天の居場所はない。罪人が、ふんぞり返って座る椅子など、天には用意されていないのです。だから、イエス様は、この世に来てくださった。そしてこの世に来て、十字架についてくださったのです。ご自分を犠牲にして、「心の貧しいあなたがたに、神の祝福があるように。天の国があなたのものとなるように」、そう言って、十字架で血を流してくださった。「心の貧しい人々は、幸い」、この言葉は、イエス様が十字架に向かう決意表明。そして同時に、十字架をもって、私たちの罪を赦す、赦しの宣言でもあるのです。
 そしてこの宣言の中で、私たちは、神様に豊かな心を求めていく。
 時々誤解されます。「イエス様によって、罪人であるわたしがゆるされたのだから、わたしは、そのままでいいのだ。罪人のままでいいのだ」、今日の御言で言い換えるならば、「心の貧しいわたしが、祝福されたのだからわたしは、心貧しいままでいいのだ。心貧しいありのままの自分でいいのだ」。全くの誤解です。確かに、イエス様は、心貧しい私たちを祝福してくださった、何か善行を積んで、また何か手柄を立てたから、私たちの罪を赦してくださったのではない。心貧しいそのままの私たちを、神様は赦してくださった。しかし、そのイエス様の赦し(祝福)を身に受けた私たちは、自分の心の貧しさを、そこで心底、恥じるのです。心からその罪を悔やみ、嫌悪し、神様に向かうのです。そしてこう祈る! 「主よ、あなたの霊で(あなたのいぶきで)、わたしを新しくしてください。聖霊を送ってください。神様、あなたの霊が、わたしの中で息づき始めますように。あなたの豊かさに、人を愛するあなたの豊かさに、わたしを生かしてください!」。
 私たちは、貧しい。その「貧しい」という事実は、残念ながら変わらない。しかし、この貧しい者が、主の祝福の中で(憐れみの中で)、新しくなる。わたしではなく、主の豊かさに生きはじめる、神の国の住民として、神の豊かさに生きるのです。
そしてその「神の豊かさ」は、イエス様が身を低くして、ご自身の民一人一人のもとに来てくださったように、身を貧しくする豊かさなのです。愛の中で、自ら、貧しくなれる豊かさ!
 そして私たちは、そこで、祝福の言葉を、あの人に届けるのです。心貧しいあの人のもとへ行って、自分の身をかがめ、祝福を届ける。「あなたにも、あなたにも、神の祝福がある。心の貧しい人々は幸いである。あなたのためにも、イエス様は十字架におかかりになった、天の国は、あなたのためにも、用意されている! さあ、わたしと一緒に、この祝福を生きよう!」。
 私たちは、この一週間も、神の祝福を運ぶ。皆様が、この一週間、祝福の源となりますように!
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