礼拝説教「主の祈り連続説教 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第6章10節

 
  主の祈りの言葉を、礼拝で一つずつ心に留めております。今日は、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」、この祈りに思いを集中させていきたいと願います。
 
 私、「御心」という言葉を、初めて耳にしたとき、ちょっとした衝撃がありました。私は、地元の中学校を卒業したあと、新潟にあります敬和学園というミッション高校に進みました。私、小さいときから親に連れられ、教会には行ってはいたのですが、信仰について、本格的に意識し始めたのは、その高校に入ってからでした。
 高校に入学して、まず驚いたのが、「同い年でありながら、もう洗礼を受けている人たちがいる」ということでした。私が通っていた教会は、三〇人ぐらいの小さな教会で、私と年齢が近い人も中にはいたのですが、皆、当時の私と同じように、洗礼は受けていませんでした。そして、私は勝手に、「洗礼というのは、年を取ってから受けるものだ」、そう思い込んでいたのであります。なのに、敬和に入りましたら、同い年のキリスト者がいる。しかも、何人もいる。本当に驚きました。
 そしてその中に、一人、牧師の息子がいまして、すぐに仲よくなったのですが、その彼が、「御心」という言葉を、よく口にしていたのであります。私にとって、それが衝撃だった。その友人は言うのです。例えば、部活動のレギュラー争いをしている。「神様の御心ならば、自分は、レギュラーになれるだろう」。また大学受験がある。「神様の御心ならば、希望する大学に入れるだろう」。まだ洗礼を受けていなかった私は、「いや、そうではないだろう!」と言って、反論をしました。レギュラーになれるか、どうか。また受験がうまくいくか、どうか。それは、自分の実力次第。部活動ならば、トレーニングを積んで、努力して、そして結果が出る。また受験ならば、勉強して、努力して、合否が決まる。「神様の御心」、また、「御心ならば」、それは、逃げ道ではないか、責任逃れではないか。当時の私は、そう思った。(もちろん、その友人も、努力をして、その上でそう言っていたのでしょうが、)当時の私には、どうも、「御心」という言葉が馴染めなかった。やるべきことをやらないで、責任を神様になすりつけているように、聞こえてしまっていたのであります。そしてそう語る友人に、いつも反論し、困らせていたのです。
 しかし、神様がなさることは分からない。そのような私も、神様に捕らえられ、信仰告白に至る。そして牧師になるために、神学校に進む。それが決まったあと、その友人が、ニコニコ笑いながら、私のもとに来てくれました。そして私の手を、強く握ってこう言ってくれました。「鷹澤、これが、神様の御心だったのだよ」。
 
 もう一つ、「御心」という言葉を巡って、私には思い出があります。
 私が神学校に進み、生まれて初めて、説教をする(礼拝ではありませんでしたが、学生の祈祷会で、聖書に基づく話をする)、そのような機会がありました。私は、緊張しまして、また同時に張り切りまして、何週間も前から、その準備をいたしました。そのとき、私が選んだ聖書の箇所が、先ほど読んでいただいたマルコによる福音書第一章四〇節からの箇所だったのです。その四〇節には、このように記されています。

 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

 「重い皮膚病」、いわゆる「ハンセン病」であります。日本でも、ごく最近まで、誤った知識のもとで、扱われてきてしまった病気であります。そして二〇〇〇年前も、そうでありまして、ひとたび、この病気にかかると、町や村から追放されていた。特にユダヤでは、「汚れた者」とされ、他の人が近づくだけで、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばなければならなかった、そのように法律で定められていたのです。
 その病に苦しむ人が、イエス様のもとに来たのです。そしてひざまずいて、願った。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
私、生まれて初めての説教で、この箇所を選んだのですが、そのとき、大失敗をしたのです。(この失敗談は、一度、ここでお話ししたことがあるのですが、)「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。 ここは、当時、私が用いていた口語訳聖書では、このような訳になっていました。

 「みこころでしたら、清めていただけるのですが」。

 「御心、神様の御心、イエス様の心が、そうであれば、わたしは清めていただけるのですが」、この人はそう願った。しかし私は、ここを読み違えて、説教に臨んでしまっていたのです。どう読み違えていたかと言うと、「清めていただけるのですが」の「が」を、「清めていただけるのですか?」と読み違えていた。
 点々がつくか、つかないか。けれども、それは大違い。「みこころでしたら、清めていただけるのですか?」。当時、私は、このように語りました。「私たちも、神様の御心を問うていこう。『御心でしたら、この道に進みます。御心でなければ、それはそれで、あきらめます』。大事なのは、私たちの思いではなく、神様の御心。この人のように、神様の御心を問うて、神様の御心に素直に従おう!」。(高校生だった頃の私が聞いたら、噛みつかれそうな説教ですが)その時はその時で、そのように語ったのです。
 しかし、説教を語りながら気がついた。「あ、ここは、『か?』ではなく、『が』だ!」。その時気がついても、もう遅い。今さら用意してきた内容を変えられるほどの余裕はなかった。嫌な汗が、脇の下を流れていったのを、今でもよく覚えています。
「御心ならば、この道を進み、御心でなかったら、あきらめる」。確かに信仰には、そのような一面もあります。しかし、ここではそうではないのです。「か?」ではなくて、「が」。「みこころでしたら、清めていただけるのですが!」、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります!」。
 つまり、この人は、イエス様がその心になってくださることを願っているのです。「イエス様、あなたが、その心になってください。いや、あなたの心は、そのはずです! そうですよね、イエス様!」、この人は、必死に懇願している。
 「あなたの御心は、どちらですか? わたしが清くなることですか、それとも、汚れたままでいることですか?」。わざわざ、そのようなことを聞きに来たのではないのです。言い換えれば、この人は、自分の運勢を聞きに来たのではない。「イエス様、わたしの運命は、どちらですか? わたしが清くなることですか?、それとも、このままでいることですか?」。そうではない。この人は、「イエス様、あなたが、『わたしを清くする』、その心になってください。いや、あなたは、すでにその心であるはずだ」、そう訴えた。
 すると、イエス様は、四一節。

 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

 「よろしい」という言葉は、聖書が元々書かれた言葉では、「わたしは望む」という言葉です。「そう望んでください」と問われ、「わたしは望む。あなたの言うとおり、それが、わたしの御心。さあ、清くなれ!」。しかも、「イエス様は、深く憐れんで、こう言われた」と記されている。この「深く憐れんで」という言葉は、(これも聖書が元々書かれた言葉では)「内蔵が揺り動かされて」という言葉。内蔵、五臓六腑が揺り動かされる。そのぐらい抑えきれない憐れみ。体の中から突き上がってくる憐れみ。「この憐れみこそが、わたしの心。わたしは望む、あなたは、清くなれ!」。
 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。この祈りは、まさに、このことなのです。私たちもこの祈りで願っているのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります!あなたが、そう望んでくださるのならば、この地上を清くすることがおできになります! そして、それがあなたの御心ですよね! 神様、あなたの御心は、憐れみですよね!」。私たちは、主の祈りで、そう祈っている。
 
 ここで、イエス様がなさった譬え話も、思い起こすこともできます。ルカによる福音書第一八章一節からです。

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。

 やもめと裁判官の譬え話です。当時、夫に先立たれた女性は、非常に苦しい生活を強いられました。仕事がない、それだけではなく、社会的な立場も弱く、またそこにつけ込み、財産を奪い取ろうとする人たちもいたのです。この譬え話のやもめも、きっと、理不尽な仕打ちを受けていたのでしょう。そこで彼女は、町の裁判官のもとに行って、自分を守ってもらおうとした(もしかしたら、一度取られた財産を取り戻してもらいたい。そのような訴えだったのかも知れない)。しかし、運の悪いことに、彼女がいた町の裁判官は、神を畏れず人を人とも思わない、つまり、「貧しいやもめを守ろう」などという正義感は、まったく持ち合わせていない悪徳裁判官だったのです。
 しかし、この裁判官はこう言うのです。四節の後半から。

 しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

 おもしろいのです。やもめが、うるさくてかなわない。しつこくて、ひっきりなしにやって来て、うっとうしくてたまらない。だから、裁判をしてやるか、というのです。そして、イエス様はこう言われる、
 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
神様がこの裁判官のように、悪徳裁判官だ、というのではありません。「まして神は」、悪徳裁判官でさえ、しつこいやもめのために裁判をしてくれるのだから、まして神は、日夜祈っているあなたがたのことを、放っておくことはなさらない。だから、(一節にあるように、)「気を落とさずに絶えず祈りなさい」と、イエス様は言われたのです。
 私はこの譬え話も、「御心の天になるごとく」、その祈りをよく表していると思います。「御心の天になるごとく」という祈りは、自分の運命を、仕方なく受け入れるための祈りではないのです。憐れみの神様を信じ、また、神様が正しい裁きをしてくださると信じ、気を落とさずに祈る。あきらめずに、絶えず祈る。「神様、あなたの心は憐れみですよね。どうか、私たちを、またこの地上を、憐れんでください。この地上に、あなたの憐れみ、そしてあなたの正しさがありますように!」。
 
 今年の四月のことですが、大阪堺市にあるキリスト教書店、『びぶろすの森』が、日曜日、私たちの教会まで来てくれました。そして、礼拝後、本の販売をしてくれた。おかげさまで、皆様もよく買ってくださったそうで、店長さんも、随分ご機嫌でありました。そしてどうも、『びぶろすの森』は、それに味を占めたようで、何冊かの新刊本を、事務室に置いていきました。「手にとって読んでもらって、気に入ったら、注文してください」、そのような主旨であります。事務室の通路側のガラスの扉のところに、それらの本が置いてありますので、興味のある方は、礼拝後、見ていただければいいと思うのですが、それに先立ち、さっそく私が、その戦略に引っかかってしまいました。本屋さんが置いていった本を、手に取って、事務室でパラパラと立ち読みをした。そして思わず、一冊、衝動買いをしてしまったのであります。アンゲラ・メルケル、現在のドイツの首相が書いた、『わたしの信仰』という本であります。
 まだ全部読んでいないのですが、いい本に出会いました。メルケル氏が、首相になる前も含めた、信仰に関する講演を集めたものです。「彼女は、牧師の娘であり、キリスト者だ」ということは、聞いてはいたのですが、これほどしっかりした聖書的な信仰に基づいている人だとは、私も、その本を読んで初めて知りました。そしてその講演も、極めて信仰的、また神学的なものでもあったのです。
 メルケル氏は、ある講演の中で、旧約聖書のマラキ書を説くのです。そしてそこに出てくる「正義」という言葉を説く。そして言うのです。(少し長いので、私なりに要約いたしますと)旧約聖書が語る「正義」(ヘブライ語で「ツェダカ」)は、共同体における正義を意味する。それはすなわち、「連帯を実践する」ことでもある。共同体の中には、弱い立場の人たちもいる。日雇い労働者、やもめ、孤児。そのような人たちを常に視野に入れ、責任を持ち、その人たちに寄り添っていく。それが、旧約聖書の語る「正義」なのだ。(そしてここまでは、はっきりは言っていないのですが、メルケル氏の中には、明らかに、「その聖書が語る正義、政治は、その実現の一翼を担う」という考えがある。)
また、高齢化するドイツ社会の問題に対して、メルケル氏はこう語るのです。(カトリック司教の言葉を引用して、)「私たちの命に年月が増し加わるだけでは充分ではありません。むしろ、年月に、もっと命を与えなければなりません」。つまり、長生きするだけでは充分ではない。その長生きの年月に、もっと命が与えられなければならない、人間が人間として生きる命。命ある長生きを、政治は模索していかなければならない。そう言って、メルケル氏は、高齢者の社会参加や、社会保障の話をしていく。
 もちろん、移民政策の是非や、EUにおけるメルケル氏の政治判断など、様々なことが評価されるのは、この先のことでしょう。しかし、私は、メルケル氏の講演を読んで、その底流に、あの祈りが聞こえてきてならなかったのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ!」。ああ、この首相は、祈っている、「天にある神様の御心が、この地上にもありますように」と祈っている。
 
 キリスト教会は、伝統的にこの祈りを、私たちの職業、召命の祈りとして、捉えてきました。「天の御心を地になす」、それは、私たちの役割だと考えてきたのです。つまり、私たちは、「地にもなさせたまえ」と祈って、腕を組んで、ただ眺めていればいい、というのではないのです。ましてや、「神様はご自分の御心を、ちっともこの地上に実現してくださらない!」、そう言って、偉そうにふんぞり返っているのは、もっと違う。神様は、私たちを用いる。私たちを用いて、ご自身の憐れみの御心を、この地になすのです。
 これは、幾らでも事例を挙げることができます。例えば、モーセ。
 旧約の民イスラエルは、元々エジプト奴隷でありました。しかし神様が憐れんでくださり、人々を、エジプトから解放してくださる。そのときも、神様は、「モーセ」という「人」を使うのです。モーセは、最初、神様に反抗します。「わたしが、民のもとに行っても、信頼されません。それに、わたしは、弁も立たないし、指導者には不向きです。だから、どうか、他の人を選んで、遣わしてください」、モーセは繰り返し、辞退する。しかし、神様は言われるのです、「さあ、行くがよい。わたしは必ずあなたと共にいる」。神様は、モーセを遣わして、モーセを用いて、天の憐れみの御心を地上に実現する。
 また、ダビデも、そうでありましたし、預言者たちも、そうであった。神様は、繰り返し、呼びかける、「誰を遣わそうか。誰が、わたしに代わって、行くだろうか」。そして預言者たちは答えてきた、「わたしが、ここにおります。わたしを遣わしてください!」。
 そして、イエス様の弟子たちも、神様に用いられ、天の御心を地になした。そしてさらには、あのメルケル氏も、そして、私たち一人一人も、同じなのです。神様は、私たちを遣わす。ご自分の憐れみの御心、ご自身の「ツェダカ」(正義)をなすために、私たち一人一人を、用いる。
 私たちが自分を顧みるとき、その器の貧しさに愕然とします。自分の欠けの多さ、至らなさ、モーセのように、「わたしには、できません!」と、神様に訴えたくなる。そして何よりも、私たちは、自分の罪の深さを知っている。「神様、あなたが一番、よくご存知です。わたしは、こんなにも罪深いのです!」。しかし、しかし、だからこそ、祈るのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ!」。重い皮膚病に苦しんでいた人のように、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります!」と祈り、「神様、わたしを通し、あなたの御心が、この地になりますように」と、やもめのように繰り返し祈る。
 そして、そのように祈る私たちに見えてくるのは、イエス様のお背中なのであります。イエス様は、ゲツセマネの園で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。
 私たちも、「御心のままに」と祈って、自分の十字架を背負うのです。飲むべき杯を、飲むのです。そのようにして、イエス様に従う。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」、この祈りは、私たちが、十字架のイエス様に従っていく祈りなのであります。
 
 最後に、ヘブライ人への手紙の言葉をお読みします。どうぞ、お聞きください。

 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 この一週間も、神様の御心を果たすために、すべての良いものを、神様が皆様に備えてくださいますように。
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