礼拝説教「憐れみ深い人々は幸いである」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第5章7節

 
 先週の週報にすでに報告が載りました。鄭先生と数名の青年たちが、この九月の始め、韓国研修旅行に行ってきました。そして、みんな、本当にいい顔をして、帰ってきました。
研修旅行については、改めて報告会があるようですが、私は皆様に先立って、鄭先生と何人かの青年たちから簡単な報告を聞きました。とてもいい出会いがあったようです。ご存知の方も多いと思いますが、韓国には大きな教会が多く、教会によっては青年たちが何百人と集まるところもある。私たちの教会から行った青年たちも、そのような教会を幾つか訪ね、通訳を介しながら色々な話をしてきたようです。そして互いに刺激し合い、互いに祈り合ってきた。そして向こうの教会の青年たちから、言ってみれば、「信仰の火」をもらって帰ってきたのであります。いい顔をして帰ってきた、また、いい顔になっている、それは、信仰の火が内側で燃えているからなのでありましょう。
 確かに、信仰というのは、誰かから、またどこかから、火をもらうことでもあります。これは、皆様も大いに思い当たると思います。私たちは、自分一人で神様を見いだし、自分一人でイエス様を知ったのではない。誰かの中に燃えている火を分けてもらった。誰かの中に宿っている信仰を自分も宿すようになった。そしてこれは、最初のきっかけだけではなく、信仰の生活をしていく上でも、そのことを繰り返す。私たちは信仰の歩みにおいて、時に、強い風が吹いてきて、火が消えそうになってしまうときがある。また、油が尽きそうになり、火が弱るときもある。しかし私たちは、礼拝に集うのです。ここに来て、みんなと一緒に讃美歌を歌い、祈り、そして何よりも神様から御言をいただいて、イエス様との出会いを経験する。そのようにして、私たちも火をともすのです。また火を大きくするための油をいただく。私たちは毎週ここで、神様から信仰の火をいただいていると言ってもいいのであります。今日も私たちは、神様から御言をいただく、信仰の火を、またその油を、いただきたいと願うのであります。
 
 今日、私たちに与えられた御言は、マタイによる福音書第五章七節であります。もう一度お読みしますと、このような御言です。マタイによる福音書第五章七節。
 

 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは、憐れみを受ける。

 
 これは、イエス様がお語りになった祝福の言葉です。イエス様は、憐れみ深く生きている人たちを、ここで祝福してくださっている。その人たちは、憐れみを受ける。ここは正確に訳と、「将来、憐れみを受けるであろう」という言葉でありまして、「将来、いつか必ず、神様があなたがたを憐れんでくださる。だから今、憐れみに生きよ!」、イエス様はそう語っておられるのです。
 色々なことを考えさせられます。イエス様はよくよくご存知であったのでしょう。憐れみに生きることは、必ずしもこの世で報いを受けることではない。私たちが誰かを憐れんだとしても、その憐れみが、必ずしもその人の心に届き、その人からいつも感謝されるとは限らない。また、辛抱強く、人を憐れむ生き方をしていても、それで損ばかりをする時もある。でもイエス様は言われる。「あなたは、憐れみに生きなさい。憐れみ深い心に生きなさい。将来必ず神様が、あなたを憐れんでくださるのだから!」。イエス様はそのようにお語りになって、私たち一人一人を憐れみに生きるようにと招いてくださっているのです。
 ならば、イエス様がここで求める「憐れみ」とは何だろうか。どのような憐れみの心に、私たちが生きることをイエス様は求めておられるのだろうか。
 
 聖書に登場する「憐れみ」、その代表例とも言えるのが、イエス様がなさった譬え話、「善いサマリア人の譬え話」です。このような譬え話です。
 ある旅人がいた。その人は、旅の途中で強盗に襲われ、身ぐるみ剥がされ、大きな怪我を負ってしまう。そして人里離れた場所で、動けなくなってしまい、死をも覚悟する。するとそこへ、神殿に仕える祭司が通りかかる。しかしその祭司は、倒れている旅人を見ると、道の向こう側を通って、どこかへ行ってしまった。次に、やはり神殿に仕えるレビ人が通りかかる。祭司もレビ人も、普段人々に憐れみを説いていた。しかしそのレビ人も、見て見ぬふりをして、素通りしてしまう。そして最後に、サマリア人が通りかかる。当時、サマリア人とユダヤ人は、敵対関係にあり、互いに嫌悪し合っていた。しかしそのサマリア人は、旅人を見ると、憐れに思い、駆けよってきて、介抱する。そして旅人を自分のろばに乗せ、宿屋まで運び、その治療費も宿の主人に渡す。イエス様は語る、「このサマリア人の姿こそが、憐れみ深い人の姿。憐れみ深い人々は、幸いである、あなたも、行って、同じことをしなさい、あなたも、善いサマリア人になりなさい!」。
 しかし、私たちは戸惑ってしまうのであります。確かに、あの譬え話に登場するサマリア人の姿は、美しい姿だと思う。何も顧みず、ユダヤ人・サマリア人という隔ての壁も超えて憐れみに生きる。「ああ、わたしも、できることならば、あのように美しく生きたい。憐れみに生きたい!」、私たちもそう願うのですが、そこで、自分の醜さも同時に突きつけられる。自分は、そんなに美しくない。倒れている人を見ても、そんなにすぐには体が動かない。私たちは、憐れみに生きた善いサマリア人の譬え話を聴いても、かえってそこで、自分の醜さを知る。自分はいかに憐れみが乏しいか、自分はいかに憐れみがないか、冷たい心の持ち主か。言い換えれば、私たちはそこで、自分の罪を見るのです。そして、不安になるのです。憐れみ深い人々は、幸い、私たちはイエス様がここで言われる「幸い」の中に入れるのだろうか。いや、自分には、この「幸い」に入る資格が、到底ないのではなかろうか。
また、私たちはそこで、開き直るようにして、自分に言い訳をし始めるのかも知れません。「善いサマリア人の譬え話。イエス様、あの話には現実味がありませんよ。誰にだって、それなりの事情があり、『助けたい』という気持ちを持っていても、それができないこともあるでしょ。祭司やレビ人だって、きっと果たすべき務めがあったのだろうし、もっと重要な用事を抱え、道を急いでいたのかも知れない。第一、『助けよう』と思っても、そのための力がない人もいる。イエス様、あんな美しい理想的な話をされても、私たちは困ってしまうだけ。人間、憐れみだけでは生きていけないし、世間はそれだけでは渡ってはいけない!」。私たちはややもすると、そのように開き直ってしまう。憐れみを退け、自分の正義を主張する。
 
 そこで私、聖書における「憐れみ」という言葉を改めて調べてみました。新約聖書が書かれているギリシャ語ですと、この言葉は、私たちが受け取っているとおり、「憐れむ」という意味なのですが、聖書の学者たちは、この言葉は、旧約聖書にまで遡る必要があると語っていました。そして、旧約聖書における「憐れみ」という言葉は、「ヘセド」という言葉でありまして、調べてみて、非常におもしろいことが分かったのです。この「ヘセド」という言葉は、「憐れみ」という使われ方もしているのですが、箇所によっては、「正義」、もしくは「まこと」という使われ方もしているのです。「憐れみ」、「まこと」。私たちの感覚ですと、正義を貫くとき、どこかで憐れみは犠牲にしなければいけない、と考える。正しく物事を進めるためには、同情や愛はいらない。また逆に、憐れみを優先すると、多少は正義を曲げざるを得ない、そのようにも考える。しかし旧約聖書では、同じ言葉が使われているのです。「憐れみ」と「正義」、(特に、旧約聖書では、「ヘセド」という言葉は、神様に対して使われているのですが、)神様にとって、「憐れみ」と「正義」というのは、一つのこと。これは、どういうことか。
 
 そこで今日、私たちは、民数記を読んでみたいのですが、旧約聖書、民数記第一四章にこのような場面があります。民数記第一四章一一節から。
 

 主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。」

 話の途中からです。このとき、イスラエルの民は、エジプトを脱出して、荒れ野を旅していました。そしていよいよ、その旅の目的地、約束の地カナンに近づいてきたのです。そこで、民の指導者モーセは、各部族から代表者を選び、カナンへ偵察に行かせます。そしてその偵察部隊は、四〇日間、カナンを見て廻るのですが、帰ってきて、人々にこのような報告をしたのです。第一三章三二節。

 イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」

 「ネフィリム」というのは、巨人のことなのです。「神様が私たちに約束してくださっていた地カナンには、巨人のように大きな人たちが住んでいる。彼らは強く、我々を食い尽くすに違いない」。
 怖かったのです。他の報告では、「町という町が城壁に囲まれ、武装している」という報告もあり、恐ろしさのあまり、彼らには、カナンの住民が巨人に見えた。だから、「行くのは、やめよう」という報告をしたのです。すると、民たちは動揺し、「エジプトに帰ろう」と言い出すのです。「神様は、我々を殺すために、エジプトから連れ出したのか!」。
 それを聴いて、神様がお怒りになったのが、先ほど読んだ一一節、一二節なのです。「この民は、いつまで、わたしを侮るのか。わたしがおこなってきた数々のしるし(奇跡)を忘れてしまったのか」。
 確かに、神様は、エジプト脱出のために、一〇の災いをエジプトで起こしてくださった。また、エジプト軍に追われたときも、海を二つに割って、逃がしてくださった。そして、荒れ野で、パンを、水を与えてくださった。「それらのしるしを目の当たりにしておきながら、まだ、あなたがたは、わたしを信じることができないのか!」。神様は、そう言ってお怒りになる。そして、荒れ野でこの民を滅ぼし、モーセ、あなたから、もう一度民を作り直す」、そこまで言われるのです。するとモーセは、神様に訴えるのです。一三節です。

 モーセは主に訴えた。「エジプト人は、あなたが御力をもって、彼らのうちからこの民を導き上られたことを聞いて、この地方に住む者に伝えます。彼らは、主よ、あなたがこの民のただ中におられ、主よ、あなたが目の当たりに現れられること、また、あなたの雲が民の上にあり、あなたが、昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって先頭に進まれることを聞いています。もし、あなたがこの民を一挙に滅ぼされるならば、あなたの名声を聞いた諸国民は言うことでしょう。主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、と。
 ほんとに、おもしろい箇所なのですが、モーセは、神様のプライドに訴えかけるのです。「神様、もしここで、あなたが民を滅ぼしたならば、笑われるのは、神様、あなたですよ」とモーセは言うのです。「主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、神様、そう言われて、馬鹿にされるのは、あなたですよ!、あなたの面子が丸つぶれになるし、あなたの評判もガタ落ちになる、それでもいいのですか!」。モーセはそう言って、神様に訴えていく。そして、一七節。
 今、わが主の力を大いに現してください。あなたはこう約束されました。『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である』と。どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」

 モーセが訴えかけたのは、神様の「慈しみ」なのです。「あなたは、慈しみに満ちている方ではありませんか!」。そして、この「慈しみ」という言葉が、「ヘセド(憐れみ)」という言葉なのです。
 印象深いと思います。モーセは、民を執り成して、祈っています。しかしモーセは、「神様、彼らにも、いいところがありますよ」と言って、執り成しているのではないのです。「イスラエルの民も、探せば、いいところが、幾つかあります、だから、それに免じて赦してください」、モーセは、そんなことは祈らない、いや祈れない。モーセが一番よく知っていた。イスラエルの民は、繰り返し罪を犯してきた。「またか」と言いたくなるほど、神様に反抗し続けてきた。だからモーセにしてみても、これ以上、民を弁護することはできない。しかしモーセは、「神様、それでも、あなたは慈しみに満ちている方! 憐れみ深い方! だから、赦してください、憐れんでください。どうか、あなたが、あなたであることを最後まで貫いてください!」。そう祈って、赦していただくのです。二〇節。

 主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう」。

 「ヘセド」というのは、こういうことなのです。神様は、憐れみ深い方。その神様が、神様であることを貫く。「民を憐れむ」という神様のまこと、その正義を全うする。そのとき、イスラエルの罪は赦される。そして私たちの罪も、神様のヘセドのゆえに赦されたのです。
 
 先週私たちは、この礼拝で、ぶどう園の労働者の譬え話を聴きました。私ではなく、鄭先生の説教でしたが、先週礼拝が終わったあと、何人かの方たちから言われました。「先生が、初めてこの教会で説教なさったときも、この譬え話でしたね」。覚えてくださっている方がいて、嬉しく思ったのですが、私が初めてこの教会の礼拝で説教をしたのは、今から四年前、赴任する前に、一度お邪魔して、説教をさせていただいた、通称、「お見合い説教」と言われるものをおこなったのです。そのとき、私が選んだ御言が、ぶどう園の労働者の譬え話だった。先週、鄭先生が語る説教を聴きながら、私も懐かしく思いました。
 そして実は私、もう先週には、今日の説教の準備を始めていましたので、頭の中にずっと、憐れみ深い人々は、幸いであるという御言がありました。そして、ぶどう園の労働者の譬え話を聴きながら、「あ、ここにも、神様のヘセドがある。神様の憐れみ、神のまことがある」、そう思って、説教を聴いていたのです。
 このような譬え話でした。ぶどう園の主人が、収穫の季節、労働者を町の広場に雇いに行く。朝六時、九時、一二時、そして午後三時、さらには、夕方五時にも、広場に行って労働者を雇うのです。そして日が暮れて、労働者たちにその日の賃金を支払う。そのとき主人は、朝早くから働いた人たちにも、夕方一時間しか働かなかった人たちにも、みんな同じ報酬、最初に約束した一デナリオンずつ渡すのです。朝から働いていた人たちは、主人に文句を言います。「まる一日働いた私たちと、一時間しか働かなかったあの連中とを、あなたは同じ扱いにするのですか!」。すると、主人は答える。「友よ、わたしは、不当なことはしていない。あなたとも一デナリオンの約束をしたではないか。わたしは、あの最後に来た者たちにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。
 なぜ、夕方雇われた人たちも、同じ一デナリオンをもらえたのか。それは、主人の憐れみ(ヘセド)なのです。夕方一時間しか働かなかった人たち、間違ってはいけないのは、その人たちは、夕方まで家でのんびりしていて、そして夕方、ノコノコ広場に行ったら、運良く雇ってもらえたのではないのです。彼らも朝から待っていた。必死に仕事を待っていた。そして仮に、主人から声がかからなければ、その日の収入はなかったのです。収入がなければ、その日、食べるものが買えない。自分だけではなく、自分の子供たち、家族も食べることができない。だから、主人は言う、「わたしは、あの者たちにも、支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか!」。
 神様のヘセド(神様の憐れみ、神様の正義)というのは、人間の常識を超えるのです。人間の計算もくつがえす。「夕方一時間しか働いていないのに、一デナリオン」、そんなのおかしいではないか。不公平ではないか。主人は言う、「それが、どうした! わたしは、憐れみたいから、憐れむのだ。わたしは、どうしても、あの人たちに一デナリオンを支払ってあげたいのだ!」。

 このぶどう園の譬え話を説教したある牧師は、こう言いました。
 「神は不公平な御方、そう、神は憐れみ深い御方!」。
このような主旨なのです。もし神様が、私たちが考えるような公平で、公正な御方ならば、誰が天国に行けるのか。神様の愛、その憐れみに、誰が価するのか。「自分は神の憐れみに、充分価する、それだけのことをしてきたし、それだけの資格がある!」、誰が胸を張って、そう言えるのか。誰も、神様の憐れみに価することはしていないし、してこなかった。しかし神様は、私たちを憐れんでくださったのです。自分のもの自分のしたいようにして、ご自分の御子キリストを私たちの身代わりとして、十字架につけてくださった。罪のないイエス様が、私たち罪人の身代わりとなって殺される、本当に不公平、本当に理不尽、だからこそ!、私たちは救われた、私たちの罪は赦された! 「神は不公平な御方、そう、神は憐れみ深い御方!」。
 そして、(ここが、あの譬え話の急所だと私は思うのですが)その憐れみ(ヘセド)に、主人は、朝早くから働いていた人たちも、招き入れているのです。「友よ」と、あの主人は語りかける。「友よ。わたしの友よ、あなたも、わたしと同じ憐れみに生きてくれないか。あなたも、わたしと同じ憐れみの心を持ってくれないか。『わたしは、あの人に比べて、一日中働いて、損をした、割を食った』などと言うのではなく、夕方雇われた人たちと一緒になって、喜んでくれないか。『ああ、よかったね。私たちは、なんて憐れみ深い主人に雇ってもらえたのか。私たちはmこの主人に、朝から雇ってもらえた。そしてあなたも、夕方雇ってもらえた。この憐れみ深い主人に感謝しよう!一緒になって、感謝し、主人の憐れみの深さを一緒になって喜ぼう!』。朝早くから働いた者たちよ、わたしの友よ、どうか、あなたも、そう言える者になってほしい。あなたも、憐れみに生きる者になってほしい。そこにこそ、神の祝福があるのだから!」。
 

 憐れみ深い人々は、幸いである。

 私たちも、憐れみに生きるのです。常識を超えるような憐れみの主人を知っているから、またその主人に、私たちも憐れまれたから、私たちも、憐れみに生きる。そうなのです。私たちは、「憐れみ」という炎を、神様からいただくのです。そしてその炎を、火を、私たちも燃やし、また誰かの心にも、その火をともす。もう計算しなくていいのです。これをしたら、見返りがあるとか、ないとか。憐れみに生きることは、得なのか、損なのか。いちいち、しかめっ面をしながら、電卓を叩く必要はない。憐れみ深い人々は、幸い !、その人たちは、憐れみを受ける。 私たちは、もう、十字架という憐れみを受けているし、また今も、十字架の憐れみを受け続けているし、そして最後は、天において、イエス様のゆえに赦される。だから、今、憐れみに生きる! 憐れみ深い人々は・・、憐れみに生きるあなたは!、まことに幸いなのであります。
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