礼拝説教「平和を実現する人々は、幸いである」 牧師 鷹澤 匠
 マタイによる福音書 第5章9節

 
 イエス様がお語りになった八つの祝福の言葉、その言葉を一つずつ、この礼拝で読んできました。今日は、その七つめの祝福の言葉、平和を実現する人々は、幸いである。この言葉をご一緒に、心に留めていきたいと思います。

 平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。

 ある人が、このイエス様の言葉をこのように訳し換えました。「平和を好む人たちは、幸いである」。平和を好む、または平和を愛する。私たち、そのように訳し換えてくれると、どことなくホッとします。私たち誰しも、平和を好み、平和を愛しているからです。ここで言う「平和」というのは、単に、「戦争がない」ということではありません。日常生活を平和に過ごすことができる。家庭の平和、職場の平和、また社会全体が平和であることを私たちも日々望んでいる。「平和を好む人たちは、幸い」、「私も、この幸いを望んでいる」、そう思うのであります。
 しかし、聖書の学者たちの解説を読んでおりますと、どうも、それだけの御言ではなさそうなのです。確かに言語的には、「平和を好む」とも訳すことはできるようなのですが、この言葉の意味はそこにとどまらない。私たちが読んでいるとおり、「平和を実現する」と訳すべきだろう、そのように多くの聖書の学者たちは語るのです。「平和を実現する」、もしくは「平和をつくり出す」。しかも言葉としては、私たち一人一人が、自分から平和をつくり出していく。平和の実現のために努力していく。どうも、そのことを求めているイエス様の御言なのです。ならば、私たちは思う。「平和を実現する」、もしくは、「平和をつくり出す」というのは、具体的に、どういうことを言うのであろうか。
 
 今年も、ノーベル賞、その受賞者の発表がありました。日本人でも、リチウムイオン電池を開発した吉野氏が、ノーベル化学賞に選ばれました。特に、私たちの国からは、その化学賞や物理学賞を取る人たちが多くいる。ですから、その分野におのずと注目が集まります。そして、毎年、もう一つ注目が集まるのは、(これは、日本人が選ばれる、選ばれない、それに関係なく、注目が集まるのが、)「ノーベル平和賞」ではないかと思うのです。今年は、エチオピアのアビー首相が選ばれました。そして、昨年は、コンゴのムクウェゲ医師、そしてイラクの人権活動家ムラド氏が選ばれた。
 毎年、私は思います。ノーベル平和賞の受賞者が決まる。そしてその人が、どのような活動をしてきた人か、それがテレビや新聞で紹介される。私、恥ずかしながら、毎年そこで、「ああ、あの国には、こんな悲惨なことがあったのか」ということを初めて知るのです。
 ノーベル平和賞は、私たちに教えてくれます。世界には、本当に悲惨な地域がある。信じられないような虐待を受けている人たちがいるし、果てしなく人々の争いが続いている国がある。ノーベル平和賞が贈られるたびに、私たちの祈りが、一つずつ増えていくのであります。
 そして私たちは思います。平和を実現する人々は、幸い。このイエス様の言葉は、まさに、そのような場所で活動している人たちにこそ、ふさわしい。悲惨な現実と真っ向から向き合い、平和の実現のために、文字通り命を捧げている。もちろん、ノーベル平和賞を受ける人は、その中のごくごく一握りの人たち。世界には、その名を知られることなく、平和のために命を捧げている人たちが大勢いる。私たちは思う。そのような人たちこそ、イエス様の祝福にふさわしい! 平和を実現する人々に、どうか、神様の祝福があるように!
 
 確かに、この祝福の言葉には、そのような一面もあるのです。そして、今も働いてくださっているイエス様が、そのような人たちを支え、そして祝福してくださっている。だから私たちも、祈りによって、また支援することによって、その方たちの活動を支えていきたい。そのようにして、私たちも、平和を実現する、その一端を担いたいのです。
 しかし、イエス様のこの祝福の言葉は、ただそれだけではないのです。イエス様はここで、私たち一人一人が、平和を実現していくことを求めておられる。自分の日常の中で、家庭の中で、職場の中で、またそれぞれ置かれた場所に置いて、私たちも、平和の建設者となることをイエス様は求めておられるのです。
 
 「平和」という言葉。この言葉は、ヘブライ語で、「シャローム」と言います。そして、「シャローム」という言葉は、聖書の舞台イスラエルでは、ごくごく当たり前、とても日常的な言葉でした。どのぐらい日常的かと申しますと、イスラエルの挨拶の大半が、この「シャーロム、平和」という言葉が使われていたのです。
 私たちは、時間帯によって挨拶を使い分けます。朝は、おはよう。昼は、こんにちは。夜は、こんばんは。しかし、イスラエルでは、朝昼晩、挨拶は、すべてシャロームなのです。「シャローム、あなたに平和がありますように」。ちなみに、「さようなら」も、シャロームです。別れる相手に、「シャローム、あなたに平和がありますように」、言ってみれば、その人の祝福を祈りながら、お別れをする。とても素敵な挨拶だと思います。そして、イスラエルの人たちにとってみれば、そのぐらい、「平和」というのは、日常的な言葉。逆に言えば、この日常的な言葉をごくごく当たり前に交わし合えることが、「平和」だと言えるのであります。
しかし、それが言えない状況も、しばしば聖書には登場するのです。
 
 旧約聖書にヨセフという人が出てきます。ヨセフは、一二人兄弟の下から二番目で、父親のヤコブから溺愛を受けます。すでに年をとっていた父ヤコブは、ヨセフが可愛くて仕方がない。ほかの子供たちを差し置いて、ヨセフにだけ、裾の長い上等な服を与えます。「裾が長い」ということは、牧畜や畑仕事ができない、ということです。裾が長ければ、どうしたって、汚れてしますから、ヨセフは、そのような手を汚す仕事、汗を流す仕事、それらはしなくてもいい。ヨセフは、そのような特別扱いを父から受けるのです。当然、ほかの兄弟はおもしろくない。ヨセフをねたみ、憎み、結果、兄たちは、ヨセフと「穏やかに話すこともできなかった」と、聖書に書いてあるのです。そして、この「穏やかに話す」という言葉が、原語では、「シャロームを言えない」という言葉なのです。目に浮かびます。朝起きて、顔を洗うとき、水場にヨセフがいても、兄たちは、シャロームと言えない。夜寝るとき、ヨセフが隣りの寝床に入ってきても、シャロームと言えない。ごくごく当たり前で日常的な挨拶、しかも相手の平和を祈る挨拶、その挨拶、祈りをすることもできないぐらい、兄たちはヨセフを憎んだのです。
 悲しいかな、これは、私たちも分かるところではないかと思います。私たちも、誰かと人間関係がこじれてしまうときがある。そのとき、シャロームと言えなくなってしまうのです。いや、シャロームと言えないどころか、できれば、その人と顔を合わせたくない。どうしても、顔を合わせなければならない場合は、形だけの挨拶や会話にとどめたい。「シャローム、あなたに平和がありますように。あなたの平和を心から祈ります」、私たちも、ヨセフの兄たちの気持ちがよく分かる。また身に覚えがあるのであります。
 しかし、イエス様は言われるのです。「平和を実現する人々は、幸いである」。「あなたがたは、平和を実現する、平和をつくる者になりなさい」。
 
 さらにイエス様は、このような話もなさいました。マタイによる福音書第五章二三節からの箇所、ここはご一緒に読んでみたいと思いますが、マタイによる福音書第五章二三節から。

 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
「祭壇に供え物をする」、全く同じではありませんが、私たちで言うところの「礼拝」です。礼拝に来て、祈るとき、兄弟が(だれか他の人が)自分に反感を持っているのを思い出したならば、まず行って、その人と仲直りをしてきなさい、と言うのです。供え物(礼拝)は、それからだという。

 これも、厳しい話です。もし仮に、これが、このような話だったら、まだ受け入れ易いのかも知れません。礼拝に来て、祈りをする。そのとき、自分が、まだ誰かに腹を立てていたならば、「あの人のことは、赦せない!」、自分がそのような憎しみを、まだ抱いていたならば、神様の前で、その人を赦してあげなさい。イエス様のゆえに赦してあげなさい。これだって、なかなか厳しいことですが、まだ理解できる。しかしイエス様が、ここで語っておられることは、さらにその上を行くのです。誰かが自分に反感を持っている、それに気がついたならば、その人のところへ、自分から行って、自分から赦してもらいなさい。つまり、自分が赦すだけではない。相手に自分を赦してもらう。しかもそれを自分からする。次も同じです。二五節。

 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。

 裁判で訴えられたときの話です。なぜ、この裁判が起こったのかは分かりません。自分が悪いのか、それとも相手が悪いのか、いずれによせ、何かトラブルが起こった。そのとき、その裁判所に着く前に、赦してもらいなさい、というのです。裁判所まで、どれだけ距離があったか、それは分かりません。しかし、迷っている暇などなかったことでしょう。ぼやぼやしていると、すぐに着いてしまう。裁判所に着いて、裁判が始まったら、もう遅い。だから、それまでに赦してもらいなさい、和解しなさい。イエス様はそのように言われるのです。
 なんて難しいことを、イエス様は言われるのかと思います。「平和を好み、平和を愛する」、それだけならば、私たちにもできるかも知れない。しかし、イエス様がここで求めておられることは、(じっとしていて、そこで平和の有り難さを喜ぶことだけではなくて)自分から行って、平和をつくる。自分から行って、和解する。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。あなたたちは、平和を実現する者になりなさい!」、そのようにイエス様は言われるのです。
 
 そして、もちろんですが、イエス様は私たちに、ただ命令するだけではありません。イエス様は私たちを、平和をつくるために、送り出してくださるのです。最初から「無理だ」と言って、あきらめたくなる私たちの背中を、イエス様が大きな力で押してくださる。
 そこで、もう一箇所、「平和」、「シャローム」という言葉が出てくる箇所を読んでみたいと思うのですが、ヨハネによる福音書第二〇章一九節から。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 イエス様がおよみがりになった時の出来事です。イエス様は、ユダヤの指導者たちに逮捕され、エルサレムの郊外、ゴルゴタの丘の上で十字架につけられました。そして十字架の上で息を引き取り、お墓に葬られたのが、金曜日の夕方だったのです。
 しかし日曜日、女性の弟子たちが、イエス様の遺体をきれいにするために、墓に向かうと、墓の入口が開いていました。そしてお墓から、イエス様の体が消えていた。男性の弟子たちも、それを確かめに行くのですが、しかし男性たちは情けない。自分たちが逮捕されることを恐れて、家に固く鍵を閉め、そこに閉じこもっていたのです。
 そこへイエス様が入って来てくださる。およみがりとなったイエス様が、家の中へ入ってきて、弟子たちの真ん中に立ち、あの挨拶をしてくださったのです。「シャローム、あなたがたに平和があるように!」。
 印象深いと思います。イエス様のほうから来てくださいました。しかも、イエス様が会いに来てくださった弟子たちは、イエス様を裏切っているのです。イエス様が逮捕されるやいなや、弟子たちは、我先にと言わんばかりに逃げてしまった。あんなにイエス様に愛されていたのに、その愛をいとも簡単に裏切ってしまった。ですから、本当ならば、弟子たちのほうが、おわびに行くべきだったのです。例えば、イエス様のお墓に行って、その墓にすがりつくようにして、「イエス様、お赦しください」と言わなければいけなかった。それなのに、弟子たちは、ただ家に閉じこもっていただけ。その弟子たちのもとに、イエス様はご自分から来てくださり、「シャローム。平和があるように」と言ってくださったのです。「平和があるように。わたしは、あなたたちとの間に、もう一度、平和をつくる。あなたたちを赦して、まことの平和をつくる」。
そしてイエス様は、弟子たちを遣わしてくださる。二一節。

 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 イエス様が弟子たちを遣わす。その目的は、はっきりしています。「罪の赦し」を告げるためなのです。その人のもとに自分から行って、「あなたの罪は、赦された」と言うのです。そのとき、もちろん、同時に告げなければいけないことは、「わたしの罪も、赦されたのだ」ということです。「わたしの罪も、イエス様の十字架によって赦していただいた。あなたも同じ!」。これが、平和なのです。ただ、人間同士の平和ではなく、神様と私たち、神と人間との間に打ち立てられた、揺るがないイエス様の平和。この平和が、弟子たち、そして私たちの背中を押す。「平和を実現する」、その一歩を踏み出す背中を押す。
 
 今日は、逝去者記念礼拝です。天に送った親、兄弟、そして愛する子どもたち、そして信仰の先輩たちのことをおぼえて、私たちは神様を礼拝しています。私たちの思いは、さまざまです。懐かしい思い、感謝の気持ち、そして、「もう少し話がしたかった、あのことも、このことも分かち合いたかった」、そのような思いが、私たちの中に湧き上がってくる。そしてその思いの中の一つに、「ちゃんと謝りたかった」、そのような気持ちもあるのではないか、と思うのであります。「あの時、感情にまかせて、喧嘩をしてしまった」、「あの時、あんなひどい言葉を言ってしまった」、そして「あの時、もっともっと、よくしてあげればよかった」。
 イエス様は先ほどの言葉の中で、こう言われました。「まず行って兄弟と仲直りをし」。しかし、天に送った人のところへ、私たちは、今行くことはできない。「あのことを謝りたい」、そう強く願っても、今すぐ行くことはできない。しかしイエス様は、その方たちと、私たちとの間にも、「平和の実現」を願っておられるのです。

 平和を実現する人々は、幸い。

イエス様は、約束してくださっています。天において、私たちは再びその方と会うことができる。しかも、会う場所は、イエス様の前。イエス様によって、お互いの罪を赦していただいて、その赦しの中で、しかも、神様の子どもとして、神様の食卓につく。その神様の食卓において、私たちは、その方とお互いに、「シャローム」と言うのです。「あなたに、平和があるように」、お互いに、「シャローム」と言い合って、イエス様の前で和解する、真の平和の実現をそこで経験する。
 そして、私たちは、その天の食卓を見据えつつ、今共にいる人たちと、「平和」をつくり、「平和」に生きるのです。
 自分から行くのです。自分から平和をつくりに行くのです。その道は、簡単ではありません。その道は平坦でもありません。イエス様が十字架を背負ってくださった、その道と同じだからです。たくさんの侮辱や、心ない言葉が飛んでくるかも知れません。黄金の冠どころか、茨の冠をかぶらされるかも知れません。しかし私たちは、それでもその道を行く。イエス様が十字架にかかってくださったからです。そして、およみがえりとなってくださったイエス様が、私たちに、「シャローム」と言ってくださったからです。そのイエス様に背中を押され、また、「神の子。わたしの子」、そう呼んでくださる、天の父なる神様を信じ、私たちは、平和をつくり出す道へと足を踏み出す。
 「シャローム、あなたに平和があるように」、今週も、その一言が言えますように!
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